吊り橋の眠り姫
通勤時ロマンス
男性視点
ちょっと編集しました。
「吊り橋理論」というものがあるらしい。「恋の吊り橋理論」ともいう。
曰く、足場が不安定な中で出会った男女は恋に落ちやすい。―まさか。
ぐわん!とバスが大きく揺れた次の瞬間。自分の腕の中には一人の女の子がいた。
朝も早いと電車の面子はほぼ同じである。席すら大体同じ。
いつもの席に陣取り、同じ体勢で目的地まで眠るのがこの列車、車両のルールである。
目が覚めるといつもの光景が広がった。
真っ白い固まりが伸び上がるのだ。
その正体は白いダウンコートに白いマスク。
フチナシとはいえ、眼鏡までしてさらに長い髪を結わずに下ろして顔がほとんで見えない・・・女性とおぼしき人。
それが電車内で伸びをすれば本当は奇しい上に目立つことこの上ないはずなのだが、
まあ、朝早いからほとんど社内の人間は寝ていて見ていない。
それを知ってか知らずか、なんとも大胆に伸びをする。
そして、その白い固まりは自分と同じ駅で降りるとそのままバスまで自分の前を歩き続ける。
混んでいるバスのため当然隣になった。これも毎朝のこと。
どんな顔しているのだろうかという思考が掠めたが直ぐに眠気に頭を支配されてしまった。
あれからしばらく経ったが、ほぼ毎日、伸びをする白い固まり…いや彼女は自分の後ろか前を歩き、
同じバスに乗り、右か左にいた。
ある日、気付くと腕に何かがよりかかっている。
たまに離れてちょっと慌ててはまた寄り掛かる。
見ると件の彼女であったが敢えて気付かぬふりを決め込んだ。
自分も眠いので解らなくもないし、それに何しろ自分は背が高いものだから、
件の彼女の頭は二の腕の辺りにしかならない。
年配の男性に寄り掛かられたら臭いし気持ち悪いのでご遠慮いただく。
が、顔は知らないが、おそらく年下の女の子である。最近気づいたが良い匂いであるし。
さして問題ない。
自分に寄り掛からないときはバスの手摺りに縋るように寝ていたが、
バスの揺れで時折見事に頭をぶつけている。
それでも寝ているのが痛々しいので、自分に寄り掛かっている時は気にせずにほっておいたら、
多少空いてきても寄り掛かったまま寝ていた。
凄まじい眠りへの執念だが、いかんせん無防備なきがする。
ちょっとした変化が顕れたのは年が明けて二月の声が聞こえてきたころだ。
その日はいつも彼女の顔の三分の二を隠しているマスクがなかったのだ。
しかし長い髪が邪魔で顔は中々見えなかった。いつもに増して今日はよく寝ている。
今日はバスの運転が荒いのでふらふらしていて危なっかしい。
あまりに頭をぶつけているのが自分でもわかったらしく、
眼鏡を途中でバックに放りこんでまた寝ている。
ちらりと見えた頬はとても白かったが、やはり顔は見えなかった。
自分が降りる停留所の少し前、やたらに揺れる角がある。
今日の運転手では相当揺れるだろう。
横の彼女は手摺りに捕まりバランスを取りながらまだ寝ている。
彼女は一体何処で降りているんだろう。
・・・むしろ降りられるのだろうか。
そんなことを考えていると角に差し掛かったので足を踏ん張った。
と、そのとき横で息を呑む音と小さい悲鳴があがった。
気づくと彼女は自分の腕の中にいた。
実は自分でも吃驚してしまった。
どうしてあんなタイミングで腕が伸ばせたのか。
だが、バスが揺れ悲鳴を耳がとらえた次の瞬間には、彼女の身体はすでに自分の腕の中であった。
不安定な体勢から、彼女を抱えて引き寄せると茶色いあまり大きくはない一重の瞳が吃驚した色をあり
ありと浮かべながら自分を見上げていた。
転びそうになったことにも、助けられたことにも驚いたのだろう。
ちらりと見たとおりの白い肌、初めて見た彼女の顔は少々青ざめていた。
ごめんなさい、と小さく言ってホッとした顔はともすると泣きそうですらあった。
そんな彼女さらに抱き寄せるようにして、手摺りにしっかり捕まらせてからバスを降りた。
その時、微笑んでいたということは、同じバスに同乗していた同僚に言われて気付いた。
その日から、彼女側になった方の腕は出来る限り彼女を支えられるように何となく構えてしまう。
毎朝、途中から電車が一緒で、降りる前に伸びをする。よく寝る。ちょっと良い匂いがする。
その他一切を知らない謎の隣人は相変わらずよく寝ている。
会話はないが、自分が助けることについて彼女が感謝してくれており、
嫌がっていないことは理解できた。
自分が隣に立つと会釈らしきものをしてくれたりもするし、いつもは眠気で能面のようなのに、
助けるとふわりとやわらかくなってお人形のような微笑みを返してくれる。
さらに、彼女の隣に痴漢がきていたことがあり、背の高い自分が隣で彼女にくっついて支えていると
手が出せないということもわかった。
そうと解れば簡単には離れられない。
一度彼女が嫌そうに身動ぎしたので思わず手を掴むと彼女の後ろの男が車両を強引に移動していった。
彼女をみると安心したように微笑み、手を離すでもなくそのまま眠ってしまった。
そんなこんなで、傍からみるとまるで恋人同士かというほど寄り添っている、
とは同じバスの同僚談である。
だが、どうやら彼女は自分が電車から一緒なのに気付いていないということも、最近気付いた。
何故かご説明申し上げれば、彼女は最近、電車を降りなかったのだ。
降り損ねたのではない。降りようとして降りなかった。
駅が変わったのかと思えば次の日は降りた。そして次は休みだった。
彼女はおよそ普通の出勤リズムでなくなった。
そして伸びもしなくなった。
小さい頃から気になるとどうしても突き詰めたくなるのが自分の性分である。
味噌汁をストローで飲んだらどうなるか、タマゴを電子レンジで温めたらどうなるか等々、
両親がただ禁止しても子供は育たないからと、全部挑戦させてくれたおかげで今の自分がある。
しかし、これが件の彼女の場合、下手すれば単なるストーカーとかわりなくなってしまう。
同僚に言わせれば、傍からみればあれだけ何度も手を繋いで、
ぴったりくっついてもたれ合いながら寝ていて未だに会話がないなんておかしいらしいが、
同僚もいる鮨詰めのバスで「おはようございます」というのは躊躇われるのだ。
そのあと何気ない会話を続ける自信もない。
彼女は相変わらず来たり来なかったり、である。
そうこうしているうちに自分は法事で実家に帰らなくてはならなくなった。
母の要請で一週間もだ。
ふと、自分がいなくなったら彼女はどうするのだろうと考えた。
一週間ぶりの出勤は実家から出勤したためバスに乗らなかった。
昼休みに、にやにやと同僚がやってきて言った。
「お前の眠り姫、最近、バスに乗るとちょっとだけ回り見渡しているぜ。
痴漢がくるからだろうが寝ていないし。やっと顔が拝めたよ。」
別に、「私の」ではないのだが、何やら複雑極まりない。
そんな私の顔を面白そうに見ながら、そいつはさらに言った。
「お前、恋の吊り橋理論って知ってるか?」
そういえば、電車もバスも揺れる点において足場は不安定だ。
一週間ぶりに電車に乗る。
今日、彼女は来るだろうか。
ふと目をあけると柔らかいピンク色が視界に入った。
濃紅色の梅と白梅を交ぜたような落ち着いた紅梅色。
白いダウンコートを脱いだ彼女だと顔を見なくてもわかった。
こっくりと船を漕ぎながら寝ている彼女を見つめていると、はっと目を覚ましドアに向かった。
私も席を立った。まだ彼女は私に気付いていない。
彼女はやはり降りるのを躊躇った。
吊り橋なんてそうそうあるものではない。
もし仮に電車やバスに吊り橋の代わりが務まっても、
そもそも存在に気づいて貰えなければ意味はない。
どうやら彼女はいつもの吊り橋にはいかないようだ。
慌てて乗って来た年配の男性に半ば突き飛ばされかけてよろめく。
私は降りるか降りないかを彼女に任せ、決意を持って彼女の後ろにいたので、
よろけた彼女を当然のように腕に収めた。
彼女が私を見る―ドアが閉まり、電車が揺れた。
微笑むと、私に気づいた彼女の瞳も揺れた。
つり橋の効果はひどく一時的と聞く。
なので、とりあえず、彼女を揺れないところへ攫うことにした。