浮気相手に家を追われた俺、美しき大物令嬢がバックについて反撃開始
結婚五周年の日、妻を驚かせようと思った。美咲が気に入っている汐見中央ホテルで、夕食を予約するつもりだった。
「会員番号はお持ちでしょうか?」
「妻名義のものならあります」
家のタブレットに残っていた美咲の会員番号を伝えると、端末を操作する音がした。数秒後、スタッフの声がわずかに止まった。
「……恐れ入りますが、本日のご利用については、会員ご本人様からお問い合わせいただけますでしょうか」
「何か予約が入ってるんですか?」
「申し訳ございません。詳細はご本人様以外にはお答えできません」
電話を切っても、胸のざわつきは消えなかった。
美咲のホテルアプリは、家のタブレットにログインしたままだ。以前、ホテル内のレストランやショップを利用する時にも使っていたため、ログアウトされていなかった。
アプリを開いた。
今夜、十九時三十分。
【アニバーサリースイート】
【利用人数 2名】
そして今日は、俺たちの結婚五周年だった。
1
画面を見つめたまま、指を下へ滑らせた。三年間で宿泊履歴は七十六件。すべて同じホテルだった。
俺たちは毎月決まった額だけを家計用の口座に入れ、残りの収入はそれぞれで管理していた。だから、美咲個人のカード明細を見ることは一度もなかった。
最初の宿泊は三年前の六月十二日。
あの日、父は心臓のバイパス手術を受けた。俺は病院の廊下で一晩中待ち、美咲からは「急な出張が入った」と電話があった。
「こっちは大丈夫だ。父さんのことは俺が見るから」
そう言って送り出した。
その夜、美咲はこのホテルに泊まっていた。
その後も予約は毎月のように続いていた。平日の午後もあれば、週末の夜もある。ここ半年はさらに頻度が増えていた。
そして先週の金曜日。
娘の琴音が三歳になった日も、美咲は「急に残業になった」と言った。
琴音はクマのぬいぐるみを抱えたままケーキの前で母親を待ち、最後には眠ってしまった。俺一人で誕生日の歌を歌い、溶けかけたクリームを冷蔵庫へ片づけた。
その夜も、美咲はここにいた。
宿泊履歴を保存し、クラウドにもバックアップした。それから美咲へ電話する。
「何?」
少し苛立った声だった。
「今、会議中なんだけど」
「今夜八時、少し時間作れる?」
「何?」
「渡したいものがある」
向こうが少し黙った。
「今日は残業で遅くなるかも」
「八時には?」
「……たぶん無理」
「分かった」
それだけ言って電話を切った。
ここ数日、知らない番号から何度か着信が入っていた。仕事中だったり、父のことで忙しかったりして、一度も出ていない。
今はそれどころではなかった。
六時。
俺は汐見中央ホテルへ向かった。
ロビーには出張客が何人かいて、窓際には若いカップルが座っていた。エレベーターが正面に見えるソファを選び、ただ待った。
十九時二十分。
美咲が現れた。
黒いワンピースに、いつもより丁寧なメイク。
隣には男がいた。
黒崎拓真。
美咲の勤務先の副社長であり、黒崎都市開発の社長の息子でもある。
二人の距離は近かった。美咲は黒崎の腕に触れながら笑い、ネクタイを直している。黒崎の手も自然に美咲の腰へ回った。
あんな顔を、五年間一緒にいて、一度も俺に向けたことはなかった。
二人がエレベーターへ入る。
階数表示が上がり、アニバーサリースイートのあるフロアで止まった。
二十時。
美咲へ電話した。
「今どこ?」
「会社」
あまりにも普通の声だった。
「まだ仕事中」
俺はエレベーターを見たまま答えた。
「じゃあ、降りてこい」
「……何?」
「俺、一階にいるから」
電話の向こうが完全に静かになった。
十分ほどして、エレベーターが開いた。
美咲は一人だった。
コートを羽織り、髪も整え直している。口紅も塗り直したらしいが、顔には隠しきれない動揺が残っていた。
テーブルに置いたタブレットへ視線を落とす。
宿泊履歴が並んでいる。
美咲の表情が固まった。
「私のアカウント、勝手に見たの?」
「離婚しよう」
美咲は一瞬黙り、そのあと乾いた笑い声を上げた。
「亮介、本気なの?」
「琴音を一人で育てられると思ってるの?」
「あなたの給料と勤務時間で?」
声を落とし、冷たい目を向けてくる。
「今住んでる家だって、結婚前に父から相続した私の家だよ」
「黒崎さんなら、琴音にもっといい環境を用意できる」
「何も見なかったことにすれば、今まで通り暮らせるのに」
五年間。
俺はこの女の何を見てきたのだろう。
「離婚する」
もう一度言った。
美咲から笑顔が消えた。
「じゃあ覚悟して」
「あなたの会社、黒崎都市開発と取引してるよね」
「本気で揉めたら、自分に何が残ると思う?」
バッグを持って立ち上がる。
ちょうどその時、エレベーターの前に黒崎が現れた。
美咲は当然のようにその隣へ行った。
二人はホテルを出ていった。
俺は追わなかった。
結婚生活は、あの夜で終わった。
2
翌朝、いつも通り会社へ向かった。
地下駐車場に車を停めた直後、背後から声をかけられた。振り返ると、四人の男に囲まれていた。
腕をつかまれ、脇腹に拳が入る。
一瞬で息ができなくなった。
そのまま監視カメラから外れた場所へ引きずられ、コンクリートの床に叩きつけられた。背中、肩、肋骨へ何度も蹴りが入る。口の中に鉄の味が広がった。
どれくらい経ったのか分からない。
短髪の男がしゃがみ込む。
「離婚の件、これ以上騒ぐな」
「余計なことを調べず、大人しく汐見から離れろ」
「次はこの程度じゃ済まない」
誰の名前も出さない。
それでも思い当たる相手は一人しかいなかった。
「帰って伝えろ」
「脅したくらいで、全部なかったことにはならない」
男の顔が歪んだ。
頬を殴られる。
「まだ分かってないみたいだな」
笑い声と足音が遠ざかっていった。
しばらくして、ようやく立ち上がった。左目は腫れ、口元も裂けている。
本当なら、そのまま警察か病院へ行くべきだった。けれど、その時の俺はまともに考えられていなかった。仕事のことと、夕方には琴音を迎えに行かなければということしか頭になかった。
会社へ入ると、直属の上司が待っていた。
「桐谷君、二時間遅刻だ」
「実は……」
「取引先から正式に苦情が入ってる。私生活のトラブルでプロジェクトに影響が出る可能性があるって」
差し出された書類を見る。
退職勧奨。
「自主退職なら通常の退職として扱える」
「拒否するなら、しばらく自宅待機にして社内調査をする」
黒崎。
頭の中にその名前が浮かんだ。
「署名しません」
上司が眉をひそめる。
「桐谷君。今後のことも考えた方がいい」
「じゃあ、調査してください」
書類を押し返し、会社を出た。
ポケットのスマートフォンが震えた。
また知らない番号。
今度は留守番電話が残っていた。
【九条ホールディングス秘書室です。桐谷亮介様に確認したいことがあり、数日前からご連絡しております】
九条?
聞き覚えはある。
でも今は、考える余裕がなかった。
会いたいのは琴音だった。
その時の俺は気づかなかったが、会社の向かいには黒いセダンが一台停まっていた。
夕方四時過ぎ。
汐見みらいこども園へ着いた。
いつもなら小さなリュックを背負った琴音が走ってくる時間だ。
今日は出てこない。
「桐谷琴音を迎えに来たんですが」
職員の表情が曇る。
園長が出てきた。
「桐谷さん。今日の午前中、琴音ちゃんのお母さまがお迎えに来られました」
頭の中が真っ白になった。
「どこに?」
「それは……」
「夫婦間で深刻な問題が起きているので、しばらくお父さまには引き渡さないでほしいとの申し出がありまして」
「俺は父親です」
「今も婚姻中で、親権は双方にある」
「どうして一方の話だけで、何も知らせないんですか?」
園長は困ったように答えた。
「園では、ご夫婦の親権をめぐる争いを判断できません」
「お母さまから安全上の不安があると申し出があった以上、新しい居場所をこちらからお伝えすることもできません」
「話し合いが難しい場合は、弁護士や警察、家庭裁判所へご相談ください」
呼吸するたび、肋骨が痛んだ。
最後に、琴音が園に残していた絵を一枚だけ受け取った。
歪んだひまわり。
右下には、不器用な文字で書かれている。
【パパ】
園を出て、道端の段差に座り込んだ。
銀行口座には四万円少し。
仕事は止められた。
妻は三年間不倫していた。
朝には殴られ、娘の居場所まで分からない。
三十二年生きてきて、初めて自分だけが人生の外へ放り出された気がした。
その時。
黒いパンプスが目の前で止まった。
顔を上げる。
端正なダークスーツ姿の女性が立っていた。後ろには秘書らしい男性もいる。
「桐谷亮介さん?」
「……はい」
「何度か秘書からご連絡したんですが」
彼女は俺の顔の傷を見て、眉を寄せた。
「今日、会社まで伺ったんです。ちょうどあなたが出てくるところで」
「声をかけようとしたんですが、かなり急いでいたので……ここまで後を追ってきました」
そこで初めて、後ろに停まっている黒い車に気づいた。
「九条玲奈です」
彼女はしゃがみ込み、俺と目線を合わせた。
「まず病院へ行きましょう」
3
九条玲奈。
九条ホールディングス代表取締役社長。
青凪県でも有数の企業一族を率いる女性だ。俺みたいな会社員が、その顔を見るのは経済ニュースくらいだった。
「どうして俺を?」
「検査が終わってから話します」
それ以上は説明しなかった。
車はそのまま救急外来へ向かった。
口元の傷を処置され、レントゲンとCTも撮った。骨折はなかったが、全身に強い打撲があり、しばらく安静が必要だと言われた。
帰る前、診断書も作ってもらった。
「これはなくさないで」
「被害届にも、弁護士にも必要になるから」
「俺が襲われるって、知ってたんですか?」
「いいえ」
「ただ、あなたを探していたんです」
「その理由はあとで話します」
玲奈はスマートフォンを差し出した。
「警察に届ける?」
「届けます」
「じゃあ、それでいきましょう」
その夜。
俺には帰る場所がなかった。
玲奈は九条ホールディングスが長期契約しているマンションの一室を手配してくれた。
そこには、九条家が以前から付き合いのある法律事務所の弁護士が待っていた。
ホテルアプリに残っていた履歴。
美咲と黒崎がホテルへ入る姿。
地下駐車場の出入口に残っていた映像。
ホテルで美咲と話した時の録音。
一つずつ確認していく。
「お子さんも連れていかれたんですね?」
「はい」
「では明日、まず傷害事件について被害届を出します」
「同時に家庭裁判所へ、子の監護者指定、子の引渡し、それから審判前の保全処分を申し立てましょう」
弁護士が帰ったあと、玲奈にもう一度尋ねた。
「九条社長」
「どうして、ここまでしてくれるんですか?」
少しの沈黙。
「十年前、祖父が高速道路で心臓発作を起こしました」
「最初に車を停めて助けてくださったのが、あなたのお父様です」
「父が?」
「救急車が来るまで付き添って、九条家にも連絡してくれました」
「祖父はその後、手術を受けて何年も生きられた」
玲奈は静かに俺を見る。
「亡くなるまでずっと言っていました」
「命は桐谷家に救ってもらったって」
「その後、連絡が途切れてしまって」
「祖父が亡くなってから、私が改めて探していたんです」
苦笑した。
「やっと見つけたのが、こんな時ですか」
玲奈は笑わなかった。
「こんな時だから、見つけられてよかったと思ってます」
立ち上がる。
「だから今度は、私ができることをします」
「それ以外は、法律で片をつけましょう」
「あなたを殴った人には責任を取らせる」
「会社にも説明してもらう」
「琴音ちゃんのことも、家庭裁判所できちんと決める」
胸の奥の重さが、ほんの少しだけ軽くなった。
まだ全部が終わったわけじゃない。
4
翌日から、弁護士が正式に動き始めた。
警察は会社の地下駐車場周辺の監視カメラ映像を確保した。襲撃場所自体は死角だったが、四人が乗ってきた車と出入りした時間は残っていた。
そのうち一台。
黒崎都市開発の関連会社名義だった。
同じ頃、九条ホールディングスでも監査が始まった。
黒崎都市開発は、九条ホールディングスが出資する大型再開発事業の主要パートナーだった。九条側には共同事業に関する契約資料、発注額、支払履歴、請求書の控えが残っている。
玲奈が命じたのは、自社側の取引をすべて洗い直すことだった。
「過去五年間、黒崎都市開発と関係した案件を全部確認して」
「一件も飛ばさないで」
三日後。
九条側の資料だけでも、複数の異常が見つかった。
市場価格とかけ離れた工事費。
実態の分からないコンサルティング会社への支払い。
契約内容と請求額が一致しない案件。
それ以上については、外部弁護士とフォレンジック調査会社へ引き継がれた。
この時点では、黒崎個人の銀行口座も、黒崎都市開発の内部帳簿も見えていない。
それでも入口としては十分だった。
九条側が正式に説明を求めたことで、取引銀行や他の出資者も動き始めた。
数日後、九条ホールディングス本社で、黒崎都市開発との緊急プロジェクト会議が開かれた。出席したのは黒崎拓真のほか、主要出資者と取引銀行の担当責任者だった。
俺は会議には入らず、別室で自分の代理人弁護士と待った。ここから先は、俺たちの夫婦問題ではなく、黒崎都市開発と九条側の取引の問題だった。
あとで聞いたところでは、玲奈は監査で確認された重複請求や不自然な外注費、契約額と請求額の食い違いについて説明を求めたという。黒崎側から納得できる回答は出ず、主要出資者は追加出資を保留し、取引銀行も融資枠を再審査することになった。
一時間ほどして、別室の外が騒がしくなった。
会議室の扉が開き、最初に出てきた黒崎が、廊下にいた俺を見つけた。
足を止める。
「桐谷さん」
口元だけで笑った。
「顔の傷、少しは治りましたか?」
俺は答えなかった。
「九条家を後ろ盾にしたくらいで、勝ったつもりか?」
その時、黒崎の後ろから玲奈が出てきた。
「桐谷さんが誰かを頼ったから、こうなったんじゃありません」
玲奈は黒崎を見る。
「説明できない数字が残っていたからです」
黒崎は何も返さなかった。
玲奈もそれ以上は言わなかった。
俺たちはそのままエレベーターで一階へ降りた。
本社ロビーの向こうに、美咲がいた。
黒崎を待っていたらしい。
俺を見つけ、さらに玲奈が隣にいることに気づいた瞬間、表情が固まった。
「亮介……」
足を止めなかった。
玲奈も何も言わない。
その方が、ずっと効いているように見えた。
5
あの日から、美咲の連絡が増えた。
【亮介、どこにいるの?】
【琴音がずっと探してる】
【話したい】
【私が悪かった】
【本当にごめん】
一通も返さなかった。
翌朝、美咲は以前の勤務先の前で待っていた。
昼には九条ホールディングス本社まで来た。
弁護士との打ち合わせを終え、玲奈の車で本社へ戻った時だった。正面玄関の前に車が停まるなり、美咲が駆け寄ってきた。
「亮介!」
「降りて!」
「少しくらい話してよ!」
警備員と秘書が前に出る。
「車両に触れないでください」
「これ以上、業務を妨げる場合は警察へ連絡します」
俺は降りなかった。
その夜、玲奈は弁護士から預かった書類を届けるため、マンションに来ていた。
夜八時。
今度は美咲がマンションの下へ来た。
カーテンを開ける。
街灯の下に美咲がいる。
こちらに気づいた直後、突然膝をついた。
【ごめんなさい】
【本当に悪かった】
【琴音のためにも、もう一度家族に戻ろう】
【あの子にはお父さんが必要なの】
数分後。
【あなたが降りてくるまで、ここにいる】
【本当にもう、私に何の気持ちもないの?】
三年。
七十六回。
父の手術の日。
琴音の誕生日。
あの時、俺の気持ちを気にしたことがあっただろうか。
後ろに気配がした。
玲奈だった。
「下りる?」
「行きません」
「本当に?」
「はい」
外を少し見たあと、玲奈がカーテンを閉じた。
「じゃあ、もう見なくていい」
振り返る。
距離が近かった。
視線が重なる。
一瞬、空気が変わった。
それでも俺は一歩下がった。
「すみません」
「何が?」
「まだ正式に離婚してない」
玲奈は少し黙り、ふっと笑った。
「分かった」
「じゃあ、全部きちんと終わってからね」
翌朝。
状況は別の方向へ動き始めた。
美咲がXに投稿を始めた。
匿名アカウント。
【夫に傷つけられた妻】
内容は、俺が長年DVをしていた、不倫を繰り返していた、金持ちの女性社長と関係を持ち、最後には娘まで取り上げようとしているというものだった。
添付されたメッセージは途中だけ切り取られ、中には加工されたものまであった。
投稿は数万回単位で拡散され始めた。
【DV夫が子どもまで取り上げるの?】
【相手は会社社長?】
【ヒモ男じゃん】
【勤務先どこ?】
以前の勤務先まで特定された。
【私生活で問題起こして辞めさせられたらしい】
九条ホールディングスにも取材依頼が入り始めた。
関連ワードがXで急上昇する。
さらに美咲は国税局へ匿名の告発資料を送った。
九条ホールディングスが架空のコンサルティング契約を使い、俺へ金銭を流している。
そんな内容だった。
すべて嘘だ。
それでも上場企業にとって、噂だけでも無視はできない。
顧客からの問い合わせ。
報道機関からの取材。
株主からの確認。
法務、広報、監査部門が一斉に動き始めた。
玲奈は落ち着いていた。
「嘘そのものは崩せる」
「厄介なのは、広がったイメージの方ね」
俺は資料を開いた。
「だったら、事実を公表しましょう」
ホテル履歴。
黒崎と美咲がホテルへ入った記録。
被害届。
診断書。
美咲から届いたメッセージ。
玲奈は法務と広報を呼んだ。
「公表できる範囲を顧問弁護士に確認して」
「家庭裁判所や警察へ出すものは外に出さない」
「反論合戦はしない」
「確認できる事実だけでいい」
一時間後。
代理人弁護士名義で声明が出た。
【桐谷氏側は、配偶者による約三年間にわたる婚外関係を裏付ける客観的資料を保有しています】
【関連するホテル利用は七十回を超えていますが、第三者のプライバシー保護のため、個別の宿泊日時等は公表いたしません】
【また、桐谷氏が傷害事件の被害者であることについては、警察への届出および医療機関の診断書が存在します】
流れが変わった。
【三年で七十回以上?】
【子どもの誕生日も外泊してたって話、本当なの?】
【DVした側じゃなくて殴られた側?】
【最初の投稿と全然違うじゃん】
午後。
美咲から琴音の写真が届いた。
泣いている。
【これ以上やるなら、この写真をマスコミに送る】
【「パパが琴音を捨てた」って泣いてるって言えばいい】
玲奈が画面を見る。
「弁護士へ」
「それと家庭裁判所」
「ああ」
「琴音を道具にさせない」
その日のうちに、追加資料として提出した。
6
大きく動いたのは、それから約三か月後だった。
警察は監視カメラ映像、車両登録、通信記録を積み上げていた。
実行犯の一人と黒崎の側近。
さらに黒崎本人につながる通信が見つかった。
黒崎拓真は、傷害事件への関与を疑われ、青凪県警に逮捕された。
同じ頃、九条側の監査をきっかけに外部調査と捜査も進んでいた。
黒崎都市開発内部の資料。
金融機関の記録。
関係者への聴取。
そこから初めて、個人への不自然な資金移動や粉飾された会計処理も見つかった。
案件は次々と停止した。
銀行は新規融資を保留し、主要取引先も契約を再審査する。
美咲にも問題が積み重なっていた。
加工した画像。
虚偽の情報拡散。
九条ホールディングスへの虚偽告発。
代理人弁護士は、名誉毀損や偽計業務妨害などに当たる可能性も含め、刑事・民事の両面から対応を始めた。
そして、琴音。
離婚はまだ成立していない。
それでも子どもの生活を何か月も不安定なままにはできない。
家庭裁判所は審判前の保全処分を出した。
これまで日常的な養育を主に担ってきたのは誰か。
琴音の生活の安定。
美咲が一方的に生活場所を変えたこと。
子どもをネット上の争いに利用しようとしたこと。
それらを踏まえ、俺が暫定的な監護者に指定された。
琴音を俺のもとへ戻す。
弁護士から知らせを聞いた時、何も言えなかった。
「どうしたの?」
玲奈が聞く。
「琴音が戻ってくる」
玲奈が笑った。
「よかったじゃない」
「ああ」
目の奥だけが熱かった。
その日の夕方。
弁護士事務所で琴音に会った。
ドアが開く。
小さな体が廊下に立っていた。
「パパ!」
一気に走ってきた。
しゃがんで抱きしめる。
小さな腕が首に回った。
「パパ、どこにいたの……」
「琴音、パパいなくて分かんなかった……」
何も言えなかった。
ただ、何度も髪を撫でた。
玲奈は少し離れた場所に立っていた。
琴音が落ち着いてから近づく。
「こんにちは」
琴音がじっと顔を見る。
「……だれ?」
玲奈がしゃがんで目線を合わせた。
「玲奈だよ」
琴音はしばらくじっと見ていた。
「きれいなお姉さん」
玲奈が少し困ったように笑った。
「ありがとう」
その夜。
琴音を連れ、九条ホールディングスが一時的に用意してくれたマンションへ戻った。
玲奈は残らなかった。
「まず琴音ちゃんとの生活を落ち着かせて」
「ほかのことは、ゆっくりでいいから」
7
数か月後。
離婚調停は不成立となった。
俺は家庭裁判所へ離婚訴訟を提起した。
美咲は最終的に、黒崎との長期的な不貞関係を否定できなかった。
ホテルの記録。
メッセージ。
周囲の証言。
争われたのは慰謝料、財産分与、琴音の親権、養育費だった。
家については、美咲が結婚前に父親から相続した固有財産だったため、財産分与の対象外となった。それ以外の婚姻中に形成した預貯金などについては、双方の資料をもとに整理された。
最も激しく争われたのは琴音だった。
「私は母親です」
美咲は最後まで親権を求めた。
裁判所では、保全処分の際に重視された事情に加え、これまでの養育実績や、こども園、医療機関などの資料が改めて検討された。
さらに、俺たちの対立は深く、今後安定して共同で重要事項を決めていくことも難しいと判断された。
その結果、離婚成立後は俺が琴音の単独親権者となった。
美咲には養育費の支払い義務が定められ、琴音との親子交流についても、家庭裁判所の取り決めに沿って段階的に行うことになった。
離婚後、美咲は旧姓の佐伯に戻った。
判決を聞いても、飛び上がるほど嬉しいわけじゃなかった。
ただ、深く息を吐いた。
もう突然、琴音がいなくなることはない。
黒崎の刑事事件は、さらに時間がかかった。
県警の捜査。
送検。
検察による追加捜査。
最終的に、傷害事件への関与に加え、業務上横領や特別背任など、複数の罪で起訴された。
公判では、黒崎が「成功」と呼んできたものの裏側が、一つずつ明らかになった。
判決の日。
俺も裁判所へ行った。
玲奈が隣に座っている。
美咲に関する刑事・民事の手続きは別に進んでいたが、その日、彼女も黒崎の公判を傍聴しに来ていた。
黒崎はかなり痩せていた。
こちらを見た。
何も言わない。
複数の罪で有罪。
実刑判決。
美咲についても別の手続きで、加工した資料を使った名誉毀損や、九条ホールディングスに対する虚偽情報による業務妨害などについて、刑事・民事の双方から責任を問われていた。
不倫したから処罰されたわけじゃない。
負けたくない一心で、その後自分から積み上げた行動が、全部自分へ返っただけだった。
裁判所を出る前、廊下で呼び止められた。
「亮介」
美咲だった。
数か月前より痩せている。
化粧もない。
「琴音……」
「会わせてくれない?」
「親子交流は、取り決め通りにする」
「亮介」
目が赤くなる。
「本当に悪かった」
「最初に近づいてきたのは黒崎なの」
少し離れた場所にいた黒崎が振り返った。
「美咲、いい加減にしろ」
「最初に誘ってきたの、どっちだよ」
「今さら全部俺のせいにするな」
美咲の顔が引きつる。
「あなたがいなかったら、こんなことになってない!」
二人の声が大きくなり、職員が止めに入った。
玲奈が言う。
「行きましょう」
「ああ」
もう見る必要もなかった。
裁判所の外には、黒いセンチュリーが停まっていた。
俺たちが近づくと、後部座席のドアが開いた。秘書と一緒に待っていた琴音が、小さな顔をのぞかせる。
「パパ!」
琴音を抱き上げる。
「パパ、泣いてる?」
「泣いてない」
「うそ」
目をじっとのぞき込む。
「キラキラしてる」
思わず笑った。
隣で玲奈も小さく笑う。
「帰りましょうか」
琴音がすぐ訂正した。
「琴音とパパのおうちに帰るの」
玲奈が頷く。
「そうだったね」
「今日は、琴音ちゃんとパパのおうちへ帰ろう」
8
それから半年。
生活はようやく落ち着いた。
以前の会社は、弁護士の介入を受けて不当な退職勧奨を撤回した。
それでも戻らなかった。
九条ホールディングスも、俺にいきなり役員ポストを用意したりはしなかった。
自分で次の仕事を探した。
給料は特別高くない。
それでも、自分で選んだ仕事だった。
玲奈は時々、家へ夕食を食べに来た。最初の頃、琴音はまだ少し緊張していたが、そのうち絵を見せたり、髪を結んでもらったりするようになった。
いつの間にか、琴音は彼女を「玲奈お姉ちゃん」と呼ぶようになっていた。最近では俺のスマートフォンを勝手に持ち出して、玲奈にスタンプを十個も二十個も送りつける。
「会議中なんだけど」
玲奈から苦情のメッセージが返ってくる。その横で琴音が楽しそうに笑っている。
そんな日常が、いつの間にか当たり前になっていた。
ある夜。
琴音が寝たあと、玲奈はベランダでお茶を飲んでいた。
「琴音に甘すぎない?」
「嫉妬?」
「俺の娘だよ。何に嫉妬するんだ」
「じゃあ、なんでずっと私見てるの?」
笑ってしまった。
半年前、窓際で何も起こらなかった夜を思い出した。
玲奈も同じらしい。
カップを置く。
「今は?」
「何が?」
「もう全部、片がついた?」
「ああ」
「離婚も、全部終わった」
玲奈が少し笑う。
「じゃあ」
「もう待つ理由ないね」
今度は俺も引かなかった。
顔を近づけ、キスをした。
終わるべき関係がきちんと終わったあと、俺たちは初めて新しい関係を始めた。
「……玲奈」
初めて名前で呼んだ。
玲奈は少しだけ目を大きくして、それから笑った。
「やっと呼んでくれたね、亮介」
9
一年後。
俺と琴音は、玲奈の家へ引っ越した。
離婚直後に、新しい家庭を急いで作ったわけではない。琴音が玲奈を受け入れ、玲奈と過ごす時間が日常になってから、ようやく玲奈が聞いた。
「一緒に暮らしてみる?」
琴音が首をかしげた。
「玲奈お姉ちゃんと?」
「そうだよ」
琴音は一瞬考えてから、大きな声で言った。
「住む!」
即答だった。
玲奈の家は広かった。
それでも琴音の部屋は、派手なお姫様部屋にはしなかった。
淡い黄色の壁。
小さな机と本棚。
お気に入りのクマ。
窓辺には、玲奈と琴音が一緒に選んだ多肉植物。
引っ越した初日、琴音は何度も部屋と廊下を往復した。夜九時を過ぎる頃には疲れ切り、ベッドに突っ伏したまま眠っていた。
そっとドアを閉め、リビングへ戻る。
玲奈はキッチンで味噌汁を作っていた。
今日は仕事の会食があったらしく、頬が少し赤い。
後ろから抱きしめる。
玲奈の手が一瞬止まった。
それでも離れなかった。
「琴音、寝た?」
「寝た」
「早いね」
「走り回りすぎたんだよ」
振り向いた玲奈が顔を上げる。
キッチンの灯りは暖かかった。
一年前、俺はこども園の外で玲奈と出会った。あの時は、こんなふうに同じ家で夜を過ごす日が来るなんて想像もしていなかった。
目の前にいる玲奈は、もう俺を助けてくれた「九条社長」ではない。
顔を近づけ、キスをした。
玲奈が小さく笑う。
「明日も琴音をこども園に送るんでしょ?」
「分かってる」
「遅くならないようにね」
「分かってるって」
夜が深くなる。
隣で玲奈が眠っている。
穏やかな呼吸。
天井を見ながら、ふと結婚五周年の日を思い出した。
ただ妻のホテル会員番号を使って、夕食を予約しようとしただけだった。
サプライズをしたかっただけ。
なのに、電話の向こうでスタッフが数秒黙った。
俺の人生は、あの数秒から全部ひっくり返った。
あの頃は、結婚を失うことも、仕事を失うことも、長い間愛していた人を失うことも、人生のすべてを失うことだと思っていた。
でも、違った。
壊れてしまったものを手放すことは、負けじゃない。その手を空けなければ、本当に大切なものをつかむこともできない。
ベッドサイドの灯りを消した。
二階には琴音がいる。
隣には玲奈がいる。
窓の外は静かだった。
今夜は、何も心配せずに眠れそうだった。
――完――




