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ほつれた私を、公爵だけが繕っていました

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/03

 ほつれのない日は、一度もなかった。


 伯爵家の庶子として生まれたリーネの仕事は、宮廷繕い係だ。貴族たちの衣装のほつれを直し、裂けた裏地を繕い、取れかけたボタンを縫い付ける。


 リーネの指は速く、正確で、跡が残らない。だから誰もリーネの仕事に気づかない。ほつれていたことすら忘れる。


 それでいい、と思っていた。


「リーネ、これ。今日中に」


 義姉のエーデルトが投げてよこしたのは、桃色のドレスだ。裾に小さなほつれ。


「かしこまりました」


「あと、これも」


 白い手袋と紺色の上着と銀糸の外衣。4着。全部エーデルトのものだ。


「今日中にですか」


「当然でしょう」


 エーデルトは振り返らなかった。リーネは受け取り、針箱に手を伸ばす。裾のほつれを繕い、最後に裏地の隅へ針を入れた。小さな花を1つ、刺繍する。誰にも見えない場所に咲く花。リーネが繕ったすべての衣装に縫い込む、名前のない署名。


 自分の袖口もほつれている。継ぎ接ぎの隙間から裏地が覗いていた。そこにも花がある。自分に縫った花は、いつも一番小さい。


 だが、自分の服は後だ。いつも後だ。後回しにしているうちに、リーネのドレスは継ぎ接ぎの地図になった。


 その日の午後、宮廷取次官が書簡を持ってきた。


「繕い係のリーネ殿。クラウス公爵家より、お見合いの申し出です」


 針が指に刺さった。


「……はい?」


「お見合いです。リーネ殿宛で相違ございません」


「繕い係の、リーネ宛で」


「はい」


「……伯爵家のエーデルト嬢宛では」


「いいえ。繕い係の、リーネ殿宛です」


 エーデルトが動きを止めた。止めたというより、止まった。


「間違いでしょう」


 取次官は咳払いした。


「3度確認いたしました」


 エーデルトの顔から色が落ちた。リーネの指からは、血が1滴落ちた。


 翌日。


 リーネは最も状態のいいドレスを着た。7箇所の継ぎ接ぎがある。すべてリーネ自身の繕いなので目立たないが、新品でないことは一目で分かる。


 お見合いの間に通された。正面に男が座っている。


 リーネの目が、動いた。


 ——右の袖口。


 クラウス公爵は黒髪の青年だった。背が高い。表情が薄い。声が低い。


 そして右の袖口に、3ミリのほつれがある。


 さらに、ほつれの隣に不器用な繕い跡。素人の仕事だ。糸の引きが強すぎて布が突っ張っている。


 それだけではない。公爵の右手の指先に、小さな針跡がいくつもあった。繕い係の目には一目で分かる。最近、何度も針を握った指だ。


「座れ」


 短い。リーネは座った。


 紅茶が出された。公爵は飲まない。リーネも飲めない。7箇所の継ぎ接ぎの上に紅茶をこぼしたら、もう繕えない。


「……名前は」


「リーネと申します。伯爵家の——」


「知っている。繕い係だと聞いた」


 直球だ。リーネは背筋を伸ばした。


「はい。宮廷の繕い係です」


「それでいい」


 何がいいのか分からない。だが、公爵の視線はリーネの顔ではなく、リーネの指を見ていた。針の跡が残る、繕い係の指を。


 沈黙が落ちた。リーネの目が、また動いた。


「……あの」


「何だ」


「右の袖口、このまま放置すると3日で裂けます」


 公爵の眉が動いた。


「今、それを言うのか」


「申し訳ございません。職業病です」


「……」


「すぐに直せます。針を持ってきていますので」


「お見合いの席で針を出すな」


「でも3日で——」


「3日持つなら今日でなくていい」


 公爵の口の端が、ほんの少し上がった。ほんの少しだが、リーネの目は、ほつれを見つけるのと同じ精度でそれを捉えた。


「……それと、ほつれの隣の繕い跡ですが」


「何だ」


「糸の引きが強すぎます。布が突っ張って、余計に裂けやすくなっています」


 公爵が袖口を見下ろした。


「自分で繕った」


「……公爵様が、ご自分で」


「仕立て屋が直す前に着たかった」


 リーネはもう一度、繕い跡を見た。糸の引きが不均等で、玉結びが大きすぎて、針目の間隔が左右で違う。


「失礼を承知で申し上げますが」


「言え」


「これは繕いではございません。追加の損傷です」


 公爵の口が閉じた。リーネは慌てた。


「あっ、申し訳ございません、つい——」


「……事実だから構わない」


「いえ、でも、その、繕おうとされたお気持ちは——」


「慰めはいらない」


 公爵の耳が赤かった。リーネは気づいた。ほつれに気づくのと同じ速度で。


 会話が転がり始めた。公爵は短い文しか言わないが、リーネの言葉を遮らない。


「年間で300着ほど繕っています」


「1人でか」


「はい。他に繕い係がいないので」


「300着を、1人で。……好きでやっているのか」


「好き、ですか」


「嫌々やっている顔には見えない」


「……はい。好きです。ほつれを直して、元通りにして、誰にも気づかれずに返す。気づかれないのが腕の良さの証ですから」


「300着の持ち主は、お前の名前を知っているのか」


「いいえ。繕い係、としか」


「1人もか」


「はい。でも私はその方々のことを知っています。癖のある歩き方をする方は、裾がいつも同じ場所で擦れますし、よく踊る方は脇の縫い目が先に傷みます。書き物の多い方は右の袖口が——あ、また服の話に」


「構わない」


「……すみません。人と話すより、布と話す方が得意なので」


「俺も、人と話すのは得意ではない」


 公爵が紅茶を飲んだ。リーネも紅茶を飲んだ。初めて、同じタイミングで。


「公爵様のお指は」


「何だ」


「右手の指先に針跡がございます。先ほどの袖口の修繕だけでは、あの数にはなりません」


「……見るな」


「すみません。つい」


 公爵は右手を膝の下に隠した。隠し方が不器用だった。


 リーネの視線が滑った。


「公爵様」


「何だ」


「左の肩の縫い目が3ミリ下がっています」


「服の話はもういい」


「でも——」


「もういい」


 リーネは口を閉じた。閉じたまま、肩の縫い目を凝視していた。


「……まだ見ているな」


「見ていません」


 見ていた。公爵が溜息をついた。


 お見合いの途中で、公爵が席を立った。


「見せたいものがある」


 隣室へ通された。そこに外套が1着、衣装掛けにかかっていた。


 暗い紺色の、よく着込まれた外套だ。公爵が日常で使っているものだと、すぐに分かった。


 リーネの足が止まった。


 右の肘のあたりに、小さな繕い跡がある。


 跡を見た瞬間、指が震えた。


 3年前。宮廷の衣装管理局に、急ぎの修繕が回ってきた。持ち主の名前は見なかった。見る暇がなかった。暗い紺の外套の肘のほつれを繕い、裏地の破れを補い、そして——いつもの癖で——裏地の隅に、花を1つ、刺繍した。


「——この繕い跡は」


 声が掠れた。


「私の、です」


 3年間、あの外套がどこにあるかなんて考えたこともなかった。繕って、返して、次のほつれに取りかかった。


 この外套は——まだ、ここにある。繕い跡ごと。


「リーネ殿」


 老執事のヨハンが、にこにこと頭を下げた。


「お茶をお淹れ直しいたしますね」


「……あの外套の繕いは、3年前の私の仕事です」


「ええ。存じております。公爵様のお召し物のうち、繕い跡のあるものは別の棚に保管されております。現在7着」


「7着……」


「新調なさらず、お手入れを続けてお使いです。裏地に花があるものだけを」


 7着。3年間で、7着。年間300着を繕うリーネにとって、7着は何でもない数字だ。だが、公爵は7着すべてを残していた。


 ヨハンが衣装部屋の扉を開けた。6着の衣装が丁寧に吊るされている。


 リーネは1着ずつ手に取った。深緑の外套、灰色の礼服、裏地に花が2つある冬用の上着——繕い跡を見れば、季節も着方も、どこが擦れたかも分かる。自分の3年間が、棚の中に並んでいた。


 4着目に手を伸ばして——指が止まった。


 袖口に繕い跡がある。だが、リーネの縫い目ではない。糸の引きが不均等で、針目が大きすぎて、裏側の玉結びが3つも並んでいる。しかも——縫い目の走り方が、リーネの手癖を真似ようとしている。


「……これは」


「……」


「公爵様。私の縫い方を、真似されましたか」


「……した」


 リーネは繕い跡を見つめた。公爵は目を逸らした。顎が強張っている。


「仕上がりについてはご意見を控えます」


「……控えなくていい」


「ではこの糸の処理は——」


「もう結構です」


「……公爵様は、なぜご自分で繕おうとされたのですか。仕立て屋に頼めば——」


「仕立て屋は、お前の縫い目の上から縫い直す」


「はい。それが普通の修繕です」


「消える」


「……消えるのが、嫌だったんですか」


 公爵は答えなかった。答えの代わりに、右手が無意識に外套の裏地に触れた。


 リーネは棚の衣装に目を戻した。6着の繕い跡を、指でなぞった。


「どの衣装も、長く着ていらっしゃいますね」


「買い替えない性分だ」


「お召し物にとっては、幸せなことです」


「服に幸せがあるのか」


「あります。長く着てもらえる服は幸せです。繕われる回数が増えるということですから」


「……繕われることが、幸せ」


「はい。繕いは——その服をまだ着たいという意思表示ですので」


 自分で言って、喉の奥が熱くなった。


 ヨハンが、にこにこのまま言った。


「公爵様は先月、裁縫道具一式をお求めになりました。練習用のクッションも」


「ヨハン」


「何個お使いになりましたか」


「黙れ」


「16個でございます」


 16個のクッションに、不器用な針目が刻まれている光景が浮かんだ。リーネは口元を手で押さえた。


「……笑うな」


「笑っていません」


「笑っている」


「……少しだけ」


 公爵が——溜息をついた。3度目の溜息だった。だが、その溜息は、リーネの笑い声を聞いてからのものだった。


「お前の腕が要る」


 笑いが止まった。


「……繕い係として、ですか」


 公爵の表情は変わらなかった。


 7着の外套を残してくれた人が。16個のクッションで練習した人が。結局、欲しいのはこの指なのだと思った。繕い係の指。ほつれを直す道具。


 さっきリーネは言った——「気づかれないのが腕の良さの証」「それでいいんです」。いいと思っていた。思おうとしていた。


 でも。


 でも。


「——でしたら、このお見合いは、お断りいたします」


 公爵の目が見開かれた。


「繕い係としてなら、どこにいても同じことです。お見合いの理由にはなりません」


 リーネは頭を下げ、部屋を出た。


 廊下の向こうから、聞き覚えのある靴音が鳴った。エーデルトだ。桃色のドレス——昨日リーネが繕ったばかりの——を着て歩いてくる。


「あら、リーネ。もうお終い? やっぱり間違いだったのでしょう」


 リーネは黙って通り過ぎた。すれ違いざま、エーデルトの桃色の裾が廊下の段差に引っかかった。小さな音。布が裂ける音。


 エーデルトが青ざめた。反射的に裾を掴み、引っ張って——さらに裂いた。


「リーネ、これ、直して——」


 リーネは振り返らなかった。


 エーデルトが壁際の針箱に手を伸ばした。宮廷の廊下には、来客用の応急針箱がある。


「こんなこと、誰にでもできるはずよ」


 針を取り出し、糸を通そうとした。糸が針穴に入らない。2度、3度。指が震えて、4度目に指先を刺した。小さな声が漏れた。


 周囲の侍女たちが目を伏せた。誰も手を貸さなかった。あのドレスがいつも完璧だったのは誰の手か、知らない者はいなかった。


 リーネは廊下を歩いた。


 自分の袖口のほつれに触れた。継ぎ接ぎの隙間から裏地が覗いている。そこに咲く一番小さな花。


 「腕が要る」。繕い係としてなら、ここに来る必要はなかった。宮廷の作業場で、1人で針を動かしていればよかった。


 7着の外套も。16個のクッションも。全部、繕い係の腕に対する評価だとしたら——


「待て」


 足音。速い足音。公爵が走ってきた。片手に紺色の外套を持っている。


「断るな」


「繕い係としてなら——」


「繕い係としてではない」


 公爵の声が廊下に響いた。走ってきたせいで呼吸が乱れている。この国で最も権力のある男が、繕い係1人を追いかけて廊下を走った。


 リーネの目が、公爵の襟元に行った。走ったせいで縫い目がほつれている。


「……公爵様、走ると襟が——」


「今は襟の話をしていない」


「ならば、何としてですか」


「……」


「公爵様。何として、ですか」


 公爵が息を整えた。


 廊下の奥で、ヨハンの声が聞こえた。


「エーデルト様。お見合いの席に無断でお入りになるのはご遠慮ください。なお、宮廷繕い係は本日をもちまして、公爵家にお迎えする予定でございます。裾のお直しは、ご自身でお願いいたします」


「……何ですって」


「申し訳ございません」


 ヨハンのにこにこは、ここからでも分かった。


 公爵がリーネの前に立った。


「3年前の冬。外套が戻ってきた。肘のほつれが消えていた。仕上がりは完璧だった。だが、同じ宮廷繕い係の仕事でも、丁寧な修繕とそうでないものがある。あの外套は——急ぎの仕事だったはずなのに、裏地の始末まで一切手を抜いていなかった」


 リーネは黙っていた。


「だが裏地をめくったら——花があった。誰にも見えない場所に」


 リーネの指が、自分の袖口を握りしめた。


「あれは技術じゃない」


 公爵の声が低くなった。


「300着を1人で繕って、名前も呼ばれず、誰にも気づかれない場所に花を縫う。あれは祈りだ。お前にしかできない祈りだ」


 リーネの視界がにじんだ。


「7着の花を見て分かった。忙しい月は花が小さくなる。それでも一度も欠かさない」


 知らなかった。自分でも気づいていなかった。


「だが今日、もう1つ分かったことがある」


 公爵の目がリーネの袖口に落ちた。継ぎ接ぎの隙間。裏地が覗いている、その奥に——


「お前のドレスにも花がある。一番ほつれた服に、一番小さな花を縫っている」


 息が止まった。


 見えていた。継ぎ接ぎの隙間から。お見合いの席で、公爵はリーネの服の裏地を見ていた。


「腕が欲しいんじゃない」


 公爵の声が、かすかに震えた。


「一番小さな花を、自分にだけ縫う人間を——俺のそばに置きたかった」


 涙が落ちた。拭わなかった。


 300着に花を縫って、一度も誰にも気づかれなかった。自分のドレスには、いつも一番小さな花を縫った。それが精一杯の祈りだった。


 この人は——花の大きさまで見ていた。


 公爵がリーネの肩に外套をかけた。重くて、温かかった。


 リーネの頬が外套の襟に触れた。


 ふと、裏地が見えた。


 リーネの目が——ほつれを見つけるのと同じ精度で——それを見つけた。


 公爵の縫い目だった。


 ガタガタで、糸が1箇所ねじれていて、玉結びが表に出ている。16個のクッションで練習した、不器用な指の跡。


 でもそこに、小さな花が1つ、縫ってあった。


 一番小さくは、なかった。


 初めて、ほつれを繕ってもらった。

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