ほつれた私を、公爵だけが繕っていました
ほつれのない日は、一度もなかった。
伯爵家の庶子として生まれたリーネの仕事は、宮廷繕い係だ。貴族たちの衣装のほつれを直し、裂けた裏地を繕い、取れかけたボタンを縫い付ける。
リーネの指は速く、正確で、跡が残らない。だから誰もリーネの仕事に気づかない。ほつれていたことすら忘れる。
それでいい、と思っていた。
「リーネ、これ。今日中に」
義姉のエーデルトが投げてよこしたのは、桃色のドレスだ。裾に小さなほつれ。
「かしこまりました」
「あと、これも」
白い手袋と紺色の上着と銀糸の外衣。4着。全部エーデルトのものだ。
「今日中にですか」
「当然でしょう」
エーデルトは振り返らなかった。リーネは受け取り、針箱に手を伸ばす。裾のほつれを繕い、最後に裏地の隅へ針を入れた。小さな花を1つ、刺繍する。誰にも見えない場所に咲く花。リーネが繕ったすべての衣装に縫い込む、名前のない署名。
自分の袖口もほつれている。継ぎ接ぎの隙間から裏地が覗いていた。そこにも花がある。自分に縫った花は、いつも一番小さい。
だが、自分の服は後だ。いつも後だ。後回しにしているうちに、リーネのドレスは継ぎ接ぎの地図になった。
その日の午後、宮廷取次官が書簡を持ってきた。
「繕い係のリーネ殿。クラウス公爵家より、お見合いの申し出です」
針が指に刺さった。
「……はい?」
「お見合いです。リーネ殿宛で相違ございません」
「繕い係の、リーネ宛で」
「はい」
「……伯爵家のエーデルト嬢宛では」
「いいえ。繕い係の、リーネ殿宛です」
エーデルトが動きを止めた。止めたというより、止まった。
「間違いでしょう」
取次官は咳払いした。
「3度確認いたしました」
エーデルトの顔から色が落ちた。リーネの指からは、血が1滴落ちた。
翌日。
リーネは最も状態のいいドレスを着た。7箇所の継ぎ接ぎがある。すべてリーネ自身の繕いなので目立たないが、新品でないことは一目で分かる。
お見合いの間に通された。正面に男が座っている。
リーネの目が、動いた。
——右の袖口。
クラウス公爵は黒髪の青年だった。背が高い。表情が薄い。声が低い。
そして右の袖口に、3ミリのほつれがある。
さらに、ほつれの隣に不器用な繕い跡。素人の仕事だ。糸の引きが強すぎて布が突っ張っている。
それだけではない。公爵の右手の指先に、小さな針跡がいくつもあった。繕い係の目には一目で分かる。最近、何度も針を握った指だ。
「座れ」
短い。リーネは座った。
紅茶が出された。公爵は飲まない。リーネも飲めない。7箇所の継ぎ接ぎの上に紅茶をこぼしたら、もう繕えない。
「……名前は」
「リーネと申します。伯爵家の——」
「知っている。繕い係だと聞いた」
直球だ。リーネは背筋を伸ばした。
「はい。宮廷の繕い係です」
「それでいい」
何がいいのか分からない。だが、公爵の視線はリーネの顔ではなく、リーネの指を見ていた。針の跡が残る、繕い係の指を。
沈黙が落ちた。リーネの目が、また動いた。
「……あの」
「何だ」
「右の袖口、このまま放置すると3日で裂けます」
公爵の眉が動いた。
「今、それを言うのか」
「申し訳ございません。職業病です」
「……」
「すぐに直せます。針を持ってきていますので」
「お見合いの席で針を出すな」
「でも3日で——」
「3日持つなら今日でなくていい」
公爵の口の端が、ほんの少し上がった。ほんの少しだが、リーネの目は、ほつれを見つけるのと同じ精度でそれを捉えた。
「……それと、ほつれの隣の繕い跡ですが」
「何だ」
「糸の引きが強すぎます。布が突っ張って、余計に裂けやすくなっています」
公爵が袖口を見下ろした。
「自分で繕った」
「……公爵様が、ご自分で」
「仕立て屋が直す前に着たかった」
リーネはもう一度、繕い跡を見た。糸の引きが不均等で、玉結びが大きすぎて、針目の間隔が左右で違う。
「失礼を承知で申し上げますが」
「言え」
「これは繕いではございません。追加の損傷です」
公爵の口が閉じた。リーネは慌てた。
「あっ、申し訳ございません、つい——」
「……事実だから構わない」
「いえ、でも、その、繕おうとされたお気持ちは——」
「慰めはいらない」
公爵の耳が赤かった。リーネは気づいた。ほつれに気づくのと同じ速度で。
会話が転がり始めた。公爵は短い文しか言わないが、リーネの言葉を遮らない。
「年間で300着ほど繕っています」
「1人でか」
「はい。他に繕い係がいないので」
「300着を、1人で。……好きでやっているのか」
「好き、ですか」
「嫌々やっている顔には見えない」
「……はい。好きです。ほつれを直して、元通りにして、誰にも気づかれずに返す。気づかれないのが腕の良さの証ですから」
「300着の持ち主は、お前の名前を知っているのか」
「いいえ。繕い係、としか」
「1人もか」
「はい。でも私はその方々のことを知っています。癖のある歩き方をする方は、裾がいつも同じ場所で擦れますし、よく踊る方は脇の縫い目が先に傷みます。書き物の多い方は右の袖口が——あ、また服の話に」
「構わない」
「……すみません。人と話すより、布と話す方が得意なので」
「俺も、人と話すのは得意ではない」
公爵が紅茶を飲んだ。リーネも紅茶を飲んだ。初めて、同じタイミングで。
「公爵様のお指は」
「何だ」
「右手の指先に針跡がございます。先ほどの袖口の修繕だけでは、あの数にはなりません」
「……見るな」
「すみません。つい」
公爵は右手を膝の下に隠した。隠し方が不器用だった。
リーネの視線が滑った。
「公爵様」
「何だ」
「左の肩の縫い目が3ミリ下がっています」
「服の話はもういい」
「でも——」
「もういい」
リーネは口を閉じた。閉じたまま、肩の縫い目を凝視していた。
「……まだ見ているな」
「見ていません」
見ていた。公爵が溜息をついた。
お見合いの途中で、公爵が席を立った。
「見せたいものがある」
隣室へ通された。そこに外套が1着、衣装掛けにかかっていた。
暗い紺色の、よく着込まれた外套だ。公爵が日常で使っているものだと、すぐに分かった。
リーネの足が止まった。
右の肘のあたりに、小さな繕い跡がある。
跡を見た瞬間、指が震えた。
3年前。宮廷の衣装管理局に、急ぎの修繕が回ってきた。持ち主の名前は見なかった。見る暇がなかった。暗い紺の外套の肘のほつれを繕い、裏地の破れを補い、そして——いつもの癖で——裏地の隅に、花を1つ、刺繍した。
「——この繕い跡は」
声が掠れた。
「私の、です」
3年間、あの外套がどこにあるかなんて考えたこともなかった。繕って、返して、次のほつれに取りかかった。
この外套は——まだ、ここにある。繕い跡ごと。
「リーネ殿」
老執事のヨハンが、にこにこと頭を下げた。
「お茶をお淹れ直しいたしますね」
「……あの外套の繕いは、3年前の私の仕事です」
「ええ。存じております。公爵様のお召し物のうち、繕い跡のあるものは別の棚に保管されております。現在7着」
「7着……」
「新調なさらず、お手入れを続けてお使いです。裏地に花があるものだけを」
7着。3年間で、7着。年間300着を繕うリーネにとって、7着は何でもない数字だ。だが、公爵は7着すべてを残していた。
ヨハンが衣装部屋の扉を開けた。6着の衣装が丁寧に吊るされている。
リーネは1着ずつ手に取った。深緑の外套、灰色の礼服、裏地に花が2つある冬用の上着——繕い跡を見れば、季節も着方も、どこが擦れたかも分かる。自分の3年間が、棚の中に並んでいた。
4着目に手を伸ばして——指が止まった。
袖口に繕い跡がある。だが、リーネの縫い目ではない。糸の引きが不均等で、針目が大きすぎて、裏側の玉結びが3つも並んでいる。しかも——縫い目の走り方が、リーネの手癖を真似ようとしている。
「……これは」
「……」
「公爵様。私の縫い方を、真似されましたか」
「……した」
リーネは繕い跡を見つめた。公爵は目を逸らした。顎が強張っている。
「仕上がりについてはご意見を控えます」
「……控えなくていい」
「ではこの糸の処理は——」
「もう結構です」
「……公爵様は、なぜご自分で繕おうとされたのですか。仕立て屋に頼めば——」
「仕立て屋は、お前の縫い目の上から縫い直す」
「はい。それが普通の修繕です」
「消える」
「……消えるのが、嫌だったんですか」
公爵は答えなかった。答えの代わりに、右手が無意識に外套の裏地に触れた。
リーネは棚の衣装に目を戻した。6着の繕い跡を、指でなぞった。
「どの衣装も、長く着ていらっしゃいますね」
「買い替えない性分だ」
「お召し物にとっては、幸せなことです」
「服に幸せがあるのか」
「あります。長く着てもらえる服は幸せです。繕われる回数が増えるということですから」
「……繕われることが、幸せ」
「はい。繕いは——その服をまだ着たいという意思表示ですので」
自分で言って、喉の奥が熱くなった。
ヨハンが、にこにこのまま言った。
「公爵様は先月、裁縫道具一式をお求めになりました。練習用のクッションも」
「ヨハン」
「何個お使いになりましたか」
「黙れ」
「16個でございます」
16個のクッションに、不器用な針目が刻まれている光景が浮かんだ。リーネは口元を手で押さえた。
「……笑うな」
「笑っていません」
「笑っている」
「……少しだけ」
公爵が——溜息をついた。3度目の溜息だった。だが、その溜息は、リーネの笑い声を聞いてからのものだった。
「お前の腕が要る」
笑いが止まった。
「……繕い係として、ですか」
公爵の表情は変わらなかった。
7着の外套を残してくれた人が。16個のクッションで練習した人が。結局、欲しいのはこの指なのだと思った。繕い係の指。ほつれを直す道具。
さっきリーネは言った——「気づかれないのが腕の良さの証」「それでいいんです」。いいと思っていた。思おうとしていた。
でも。
でも。
「——でしたら、このお見合いは、お断りいたします」
公爵の目が見開かれた。
「繕い係としてなら、どこにいても同じことです。お見合いの理由にはなりません」
リーネは頭を下げ、部屋を出た。
廊下の向こうから、聞き覚えのある靴音が鳴った。エーデルトだ。桃色のドレス——昨日リーネが繕ったばかりの——を着て歩いてくる。
「あら、リーネ。もうお終い? やっぱり間違いだったのでしょう」
リーネは黙って通り過ぎた。すれ違いざま、エーデルトの桃色の裾が廊下の段差に引っかかった。小さな音。布が裂ける音。
エーデルトが青ざめた。反射的に裾を掴み、引っ張って——さらに裂いた。
「リーネ、これ、直して——」
リーネは振り返らなかった。
エーデルトが壁際の針箱に手を伸ばした。宮廷の廊下には、来客用の応急針箱がある。
「こんなこと、誰にでもできるはずよ」
針を取り出し、糸を通そうとした。糸が針穴に入らない。2度、3度。指が震えて、4度目に指先を刺した。小さな声が漏れた。
周囲の侍女たちが目を伏せた。誰も手を貸さなかった。あのドレスがいつも完璧だったのは誰の手か、知らない者はいなかった。
リーネは廊下を歩いた。
自分の袖口のほつれに触れた。継ぎ接ぎの隙間から裏地が覗いている。そこに咲く一番小さな花。
「腕が要る」。繕い係としてなら、ここに来る必要はなかった。宮廷の作業場で、1人で針を動かしていればよかった。
7着の外套も。16個のクッションも。全部、繕い係の腕に対する評価だとしたら——
「待て」
足音。速い足音。公爵が走ってきた。片手に紺色の外套を持っている。
「断るな」
「繕い係としてなら——」
「繕い係としてではない」
公爵の声が廊下に響いた。走ってきたせいで呼吸が乱れている。この国で最も権力のある男が、繕い係1人を追いかけて廊下を走った。
リーネの目が、公爵の襟元に行った。走ったせいで縫い目がほつれている。
「……公爵様、走ると襟が——」
「今は襟の話をしていない」
「ならば、何としてですか」
「……」
「公爵様。何として、ですか」
公爵が息を整えた。
廊下の奥で、ヨハンの声が聞こえた。
「エーデルト様。お見合いの席に無断でお入りになるのはご遠慮ください。なお、宮廷繕い係は本日をもちまして、公爵家にお迎えする予定でございます。裾のお直しは、ご自身でお願いいたします」
「……何ですって」
「申し訳ございません」
ヨハンのにこにこは、ここからでも分かった。
公爵がリーネの前に立った。
「3年前の冬。外套が戻ってきた。肘のほつれが消えていた。仕上がりは完璧だった。だが、同じ宮廷繕い係の仕事でも、丁寧な修繕とそうでないものがある。あの外套は——急ぎの仕事だったはずなのに、裏地の始末まで一切手を抜いていなかった」
リーネは黙っていた。
「だが裏地をめくったら——花があった。誰にも見えない場所に」
リーネの指が、自分の袖口を握りしめた。
「あれは技術じゃない」
公爵の声が低くなった。
「300着を1人で繕って、名前も呼ばれず、誰にも気づかれない場所に花を縫う。あれは祈りだ。お前にしかできない祈りだ」
リーネの視界がにじんだ。
「7着の花を見て分かった。忙しい月は花が小さくなる。それでも一度も欠かさない」
知らなかった。自分でも気づいていなかった。
「だが今日、もう1つ分かったことがある」
公爵の目がリーネの袖口に落ちた。継ぎ接ぎの隙間。裏地が覗いている、その奥に——
「お前のドレスにも花がある。一番ほつれた服に、一番小さな花を縫っている」
息が止まった。
見えていた。継ぎ接ぎの隙間から。お見合いの席で、公爵はリーネの服の裏地を見ていた。
「腕が欲しいんじゃない」
公爵の声が、かすかに震えた。
「一番小さな花を、自分にだけ縫う人間を——俺のそばに置きたかった」
涙が落ちた。拭わなかった。
300着に花を縫って、一度も誰にも気づかれなかった。自分のドレスには、いつも一番小さな花を縫った。それが精一杯の祈りだった。
この人は——花の大きさまで見ていた。
公爵がリーネの肩に外套をかけた。重くて、温かかった。
リーネの頬が外套の襟に触れた。
ふと、裏地が見えた。
リーネの目が——ほつれを見つけるのと同じ精度で——それを見つけた。
公爵の縫い目だった。
ガタガタで、糸が1箇所ねじれていて、玉結びが表に出ている。16個のクッションで練習した、不器用な指の跡。
でもそこに、小さな花が1つ、縫ってあった。
一番小さくは、なかった。
初めて、ほつれを繕ってもらった。
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