第2話:夜闇の共闘、異能の交錯
「力を合わせるんだ! 俺たちは同じ目的を持っているだろう!?」
俺の叫びは、瘴気渦巻く廃ビルに虚しく響いた。返事を待つ間もなく、無数の妖魔の群れが、文字通り波のように押し寄せてくる。それらは、人の負の感情や街の澱みが具現化したものだった。ひび割れた皮膚から黒い膿が滲み、歪んだ手足が不自然な角度で蠢く。爛れた肉の塊にいくつもの眼球が不規則に並び、開閉を繰り返すたびに粘液を撒き散らしていた。耳障りな低い呻き声が響き、腐敗したような甘ったるい臭いが鼻腔を焼く。憎悪、絶望、後悔、そして、ただ純粋な空腹。あらゆる穢れた感情が混じり合った瘴気が、全身を蝕むように迫る。
俺の背後には、氷室零華と鬼道院竜牙。
彼らは俺の言葉に一瞬戸惑ったようだが、目前の脅威は思考を許さない。鬼道院は歯噛みしながらも、本能的に剣を構え直した。その炎熱剣は、憎悪にも似た熱気を放ち、周囲の瘴気を一時的に払いのける。零華は表情一つ変えず、ただ静かに掌を構えていた。その指先からは、凍てつくような冷気が微かに漏れ出している。
「ちっ、下らん。貴様らのような半端者と組むなど…!」
鬼道院が吐き捨てるが、その言葉には焦りの色が混じっていた。眼前には、壁一面を覆いつくすかのような妖魔の群れ。彼一人では、対処しきれない数だ。
俺は躊躇しなかった。右手に握る刀が、鈍い光を放つ。
「来るぞ!」
低い声で告げると同時に、妖魔の先鋒が俺たちに殺到した。
妖魔の群れは、飢えた獣のように俺めがけて飛びかかってくる。先頭の妖魔は、長く伸びた粘液質の腕を鞭のようにしならせ、俺の首を締め上げようとした。無数の手が、まるで粘着質な泥のように絡みつこうとしたその瞬間、俺は動いた。流れるような、しかし決して止まることのない動作で、刀を抜き放つ。
俺の視界には、妖魔の蠢く身体を構成する、無数の細い光の線が見えていた。それが、妖魔を現世に縛り付けている「縁」だ。一つ一つが異なる色と輝きを持ち、異なる感情と記憶を宿している。俺は、その中から最も強く、核となる「縁」を瞬時に見抜く。
「…飢え」
最初に飛びかかってきた妖魔の「縁」は、単純な「飢え」だった。生前の記憶も曖昧で、ただ生命として本能的に食を求めていた存在。哀れなほどの、純粋な飢餓感。その縁の結び目を、俺は正確に、そして優しく撫でるように、刀で断ち切った。
カチン、と。
鋼と鋼が触れ合うような、しかし耳には届かない微かな音が、俺の意識の奥底で響いた。それは、現世との繋がりが断たれた音。
斬撃ではない。あくまで「断つ」動作。妖魔の身体に傷はつかない。だが、その瞬間、妖魔は力を失った。蠢いていた触手がぴたりと止まり、その爛れた顔に、一瞬だけ安堵の色が浮かび上がる。そして、まるで夜空に溶け込む星屑のように、光の粒子となって消滅していった。それは「殲滅」ではない。「解放」だ。
「なっ…!?」
鬼道院の声が、驚きに染まる。彼の炎熱剣が、妖魔を焼き払う準備をしていたその腕が、宙で止まっていた。
俺は休む間もなく次の妖魔に視線を移す。次から次へと押し寄せる妖魔の波。皮膚がただれた者、手足が異様に肥大化した者、顔がいくつも結合した者。それぞれの「縁」が、異なる感情の奔流となって俺の意識に流れ込んでくる。
「…後悔」
「…悲嘆」
「…執着」
膨大な情報量が、一度に俺の精神に流れ込み、脳髄が軋むような感覚に襲われる。だが、俺は慣れていた。これが『断ち』の代償だ。妖魔の感情を己の感情として感じ取る。その苦痛は、俺を幾度となく苛んできた。しかし、その先に、彼らの「解放」があるならば、俺は耐える。
俺の刀は、舞うように動いた。一度の動きで、複数の「縁」を正確に断ち切る。
瞬く間に、妖魔の群れの最前線が、光の粒子となって消えていく。まるで、闇の中に光の雨が降り注いでいるかのようだ。鬼道院の炎熱剣が、一つ一つの妖魔を確実に焼き尽くす「殲滅」とは対照的だった。零華の氷の魔術が、妖魔を凍てつかせ、動きを封じる「制圧」ともまた異なる。俺の「断ち」は、文字通り「本質」を消し去る。
「ありえない…何だ、その能力は!?」
鬼道院が叫んだ。彼の目には、驚愕と、わずかな畏怖が宿っていた。彼が知る退魔術の常識では、こんな芸当は不可能だ。妖魔を傷つけることなく、光にして消し去る。それは、彼らが「敵」として認識してきた存在への、あまりに優しい、そして圧倒的な「解脱」だった。
「…面白い」
零華が、初めて感情らしきものを滲ませた声で呟いた。その紫の瞳が、獲物を見定めるかのように、俺の動きを凝視している。彼女の指先から放たれた鋭い氷の礫が、俺の死角から迫る、皮膚が鱗状に硬化した妖魔の頭部を正確に貫いた。妖魔は甲高い悲鳴を上げて硬直し、次の瞬間、粉々に砕け散った。
俺は、休むことなく「断ち」を続ける。大量の妖魔から流れ込む感情の奔流が、俺の精神を激しく揺さぶる。苦しみ、悲しみ、怒り、そして虚無。意識が引きずり込まれそうになるのを、必死にこらえた。俺の額には、すでに冷や汗が滲んでいる。だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。
俺が妖魔の群れの数を減らしていく一方で、鬼道院と零華もそれぞれの能力を遺憾なく発揮していた。
鬼道院の炎熱剣は、一振りで数体の妖魔を灰燼に帰す。その力は圧倒的で、まさに「殲滅」の極致だ。
「喰らえ! 滅尽炎牙!」
彼の叫びと共に、剣から放たれた灼熱の炎が、十数体の妖魔を瞬く間に飲み込み、彼らは苦悶の叫びを上げながら燃え尽きていく。燃え盛る炎に照らされて、妖魔たちの歪んだ影が壁に踊る。だが、その炎は、妖魔の負の感情をさらに増幅させているようにも見えた。燃え尽きる妖魔の瘴気が、より一層濃くなって空間に漂う。
零華は、一切の無駄なく、冷静に妖魔を対処していた。彼女の魔術は、氷。触れたものを瞬時に凍結させ、内部から砕く。
「…凍結」
囁くような声と共に、彼女の掌から放たれた冷気が、四つん這いで飛びかかってきた皮膚の薄い妖魔の群れを瞬時に氷漬けにする。硬質な氷像と化した妖魔たちは、次の瞬間には音もなく砕け散った。彼女の魔術は、鬼道院の派手な炎とは対照的に、静かで、しかし確実な破壊をもたらす。そして、砕け散った妖魔の残滓は、光の粒子となって彼女の身体へと吸い込まれていく。それは、俺が妖魔を「解放」した後の光とは、明らかに異なる、貪欲な輝きだった。魂の残滓を、自らの力へと変えている。
三者三様の異能が、混沌とした空間で交錯する。
「これでは埒が明かん! 数が多すぎる!」
鬼道院が苛立ちの声を上げる。彼の言葉は正しかった。いくら俺が「断ち」で数を減らし、彼らが「殲滅」や「制圧」をしても、奥から次々と新たな妖魔が湧き出てくる。壁のひび割れや、床の隙間から、まるで粘菌のように蠢きながら湧き出る妖魔たち。この廃ビルそのものが、妖魔の巣と化しているかのようだった。
「この先から、より強い霊気を感じる…本体か?」
俺が呟くと、零華が反応した。
「…恐らく。この程度の雑魚を操るにしては、瘴気の発生源が奥深すぎる」
彼女の言葉に、鬼道院は舌打ちをした。
「ちっ、最初からそう言え! こうなったからには、一気に叩き潰す!」
鬼道院は、俺たちの間を縫うようにして、ビルの奥へと駆け出した。彼の背中からは、不承不承ながらも協力せざるを得ない、という苛立ちが伝わってくる。
「…彼に任せておいていいのか?」
俺が零華に問うと、彼女は表情を変えずに答えた。
「…彼は、先行して霊力を消耗させるには丁度いい」
零華の冷徹な言葉に、俺は背筋が凍るような感覚を覚えた。彼女は、鬼道院を「使い捨ての駒」と見ているのか?
しかし、俺も零華も、鬼道院の後を追うしかなかった。妖魔の群れは相変わらず壁のように立ちはだかる。俺は刀を構え、次々と「縁」を断ち切り、零華は氷の魔術で退路を確保する。
ぎこちない、しかし不思議と噛み合うような連携。互いの能力は全く異なるが、互いに欠けている部分を補い合っているかのようだった。
鬼道院の強大な炎熱剣が、進路を阻む妖魔を焼き払い、零華の冷徹な氷の魔術が、燃え盛る炎の余波で増幅された瘴気を浄化し、俺の『断ち』が、残された妖魔たちを「解放」していく。
ビルの奥へ進むほど、瘴気はさらに濃密になり、視界すら霞むほどだった。黒い靄が視界を覆い、妖魔の呻き声が反響して鼓膜を揺らす。呼吸をするたびに、内側から冷たい何かが身体を蝕んでいくような不快感。
やがて、俺たちは広い空間に辿り着いた。そこは、かつてビルの核となる機械が置かれていたのだろうか。中央には巨大な円形の窪みがあり、そこからおぞましいほどの霊気が噴出していた。
そして、その窪みの中心に、今日の任務の「本体」がいた。
それは、人の形を歪ませ、おびただしい数の目と口を持つ異形だった。黒ずんだ肉の塊が不定形に盛り上がり、表面はぬるぬると光沢を放っている。その巨大な身体には、まるで古い木から生えた節のように、無数の人間の顔が埋め込まれていた。苦痛に歪んだもの、絶望に満ちたもの、憎悪に燃えるもの。その一つ一つの目玉が、ぎょろぎょろと俺たちを見定め、口からは黒い粘液が糸を引くように垂れ下がっている。瘴気を全身に纏い、その姿を見るだけで精神が汚染されるような、おぞましい存在。これまで戦ってきた低級の妖魔たちとは、格が違う。この廃ビル全体の瘴気の源であり、妖魔の群れを操っていた元凶だ。
「まさか…こんな大物が潜んでいたとは!」
鬼道院の声に、明確な焦りが混じった。彼の炎熱剣の炎が、先ほどよりも弱まっているのがわかる。多くの妖魔と戦い、霊力を消耗したのだろう。
妖魔の「本体」は、俺たちを見定めると、おびただしい数の目玉を一斉にぎょろつかせた。埋め込まれた無数の口が、一斉に、低く、しかし空間を震わせるような声を放つ。それは、人間の言葉とは異なる、異界の言語。だが、その言葉には、純粋な「憎悪」と「絶望」が込められているのが、俺には痛いほどに伝わってきた。
「…怨嗟」
俺の意識に、激しい感情の波が押し寄せる。この妖魔の「縁」は、深く、強く、そして何よりも重い。生前の壮絶な苦しみと、現世への深い怨嗟が、幾重にも絡み合っている。それを読み解くには、これまで以上の精神力と集中力が必要になるだろう。
「何をしている、神崎! 早く奴を倒せ!」
鬼道院が叫ぶが、俺はすぐには動けない。この「縁」は、一筋縄ではいかない。安易に触れれば、俺の精神が持たない可能性もある。
零華が、一歩前に出た。彼女の紫の瞳が、妖魔の本体を真っ直ぐに見据える。
「…愚かな存在」
零華が掌を向けると、彼女の周囲の空間に、無数の氷の結晶が生成された。その一つ一つが、鋭い刃のように輝き、妖魔の本体めがけて一斉に飛んでいく。
シャアアァァ!
氷の結晶は、妖魔の瘴気を切り裂き、その黒ずんだ肉の塊に深く突き刺さった。妖魔は苦悶の声を上げ、その巨大な身体を大きく揺らす。埋め込まれた顔の一つが、苦しそうに歪んだ。だが、致命傷には至らない。瘴気がすぐに傷口を覆い、再生していく。零華の魔術をもってしても、この大物には一撃必殺とはいかないようだ。
「俺が援護する! 隙を作れ!」
鬼道院が炎熱剣を再び構える。だが、彼の霊力はほとんど尽きかけているのが見て取れた。彼の炎熱剣は、かろうじて炎を纏う程度だ。
俺は、目を閉じた。
全身の霊力を集中させ、精神を研ぎ澄ます。妖魔から流れ込んでくる怨嗟の感情を、全て受け入れる覚悟を決める。
『断ち』は、単なる能力ではない。それは、妖魔の魂と真正面から向き合う、覚悟の儀式なのだ。
「…見えた」
俺が目を開くと、妖魔の身体を構成する、おびただしい数の「縁」が、複雑に絡み合いながら、しかし、一つの中心へと収束しているのが見えた。
それは、かつてこのビルで、非業の死を遂げた者たちの、積もり積もった「無念」と「絶望」。この場所そのものが、怨念の器と化していたのだ。
そして、その「縁」の核は、ビルの中央にある円形の窪みから噴出する霊気に直接繋がっていた。
「ここが…源か」
俺は、刀を構えた。もはや迷いはなかった。
「鬼道院! 零華! 奴の動きを止めろ!」
俺の言葉に、二人は戸惑いながらも応じた。
「俺に指図するな!」
鬼道院が最後の力を振り絞るように、炎熱剣を振り回し、妖魔の注意を引く。彼の剣から放たれた炎は、以前よりはるかに弱々しいが、それでも妖魔の視線を釘付けにするには十分だった。零華は、氷の魔術で妖魔の動きをわずかに鈍らせる。巨大な触手のような腕が、一瞬、凍りつき、その動きが鈍った。
その一瞬の隙を突いて、俺は走り出した。
妖魔の本体めがけて一直線に駆け抜ける。俺の脳裏には、妖魔の核となる「縁」の結び目が、鮮明に映し出されていた。
刀を高く掲げ、一閃。
それは、無駄を削ぎ落とし、ただ『本質』を断ち切るためだけに研ぎ澄まされた、静かで、しかし絶対的な一撃だった。
妖魔の身体に、物理的な刃は触れない。だが、空間を切り裂くようなその一閃は、妖魔の『縁』の核を正確に捉え、断ち切った。
ブツン、と。
今度は、まるで巨大な鎖が千切れるような音が、俺の意識の奥底で響いた。
妖魔の巨大な身体が、ぐらりと揺れた。おびただしい数の目玉が、一斉に光を失い、埋め込まれた無数の口からは怨嗟の声ではない、静かな溜息のようなものが漏れ出る。
瘴気が、急速に薄れていく。
妖魔の身体を構成していた醜悪な形が崩壊し始め、その中心から、眩いばかりの光が溢れ出した。
その光は、これまで戦ってきた低級の妖魔たちのそれとは比べ物にならないほど、強く、温かく、そしてどこまでも清らかだった。
無念と絶望に囚われていた魂たちが、ようやく解き放たれ、光の粒子となって天へと昇っていく。その光景は、あまりに神聖で、思わず目を奪われた。
光が消え去った後、そこには何も残らなかった。
瘴気も晴れ、廃ビルの空間には、奇妙なほどの清浄な空気が満ちていた。
俺は刀を鞘に収め、深く息を吐いた。精神的な疲労が、一気に押し寄せてくる。
「…終わったのか?」
鬼道院が、呆然とした声で呟いた。彼の炎熱剣の炎はすでに消え、全身に疲労の色が濃い。
「何だ、今の…お前は、本当に…」
彼の中にあった、俺への見下した視線や嘲りは消え失せ、純粋な困惑と、得体の知れないものを見るような畏怖の感情が渦巻いていた。
零華は、ただ静かに俺を見つめていた。その紫の瞳には、かつての冷徹さとは異なる、好奇心とも探究心ともつかない、複雑な光が宿っている。
「…あなたの能力は、やはり興味深い」
零華が、ゆっくりと俺に歩み寄る。その歩みは、まるで闇に誘う魔女のようだった。
「あなたの『断ち』は、私の『吸収』と、根源を同じくしているのかもしれない」
零華の囁きが、俺の耳元で響く。それは、凍てつく冬の夜に、秘められた真実を語りかけるような声だった。
「私には、まだこの世界で為すべきことがある。あなたは、私の邪魔をするつもりか?」
零華の瞳が、俺の心の奥底を見透かすように、深く、鋭く輝く。
俺は、彼女の言葉にどう答えるべきか迷った。
彼女の「吸収」は、俺の「解放」とは全く異なる。だが、彼女の行動の根底には、既存の退魔師たちとは違う、何かがある。
「俺は…ただ、魂を解放したいだけだ。それが、俺の正義だ」
俺がそう答えると、零華は薄く笑った。初めて見せる、感情のこもった笑みだった。
「…そう。それがあなたの『正義』。ならば、私たちにはまだ、交わる道があるのかもしれない」
零華はそれだけ言うと、踵を返し、来た道を戻り始めた。その背中は、闇に溶け込むかのように、あっという間に遠ざかっていった。
廃ビルには、俺と鬼道院だけが残された。
「…待て、氷室!」
鬼道院が零華を追いかけようとするが、その身体は霊力消耗の限界に達しており、数歩進んだだけで膝をついた。
「くそ…! あんな魔術師を野放しにするわけには…!」
鬼道院は悔しさに満ちた顔で、地面を叩いた。彼の中の「正義」は、魔術師の存在を許さない。
俺は、そんな鬼道院の隣に立ち、夜空を見上げた。
札幌の街のネオンが、凍てつく空に滲んでいる。
今日、俺は「異端」な自分の力で、確かに多くの魂を解放した。
だが、同時に、俺の知らない「異質」な魔術師と、俺を「異端」と蔑む退魔師との間に、新たな「縁」が結ばれてしまったのかもしれない。
この夜、魔術師は囁いた。その声が、俺たちの未来を、この世界の運命を、どこへ導くのか。
俺にはまだ、それがわからない。
ただ、俺は俺の『断ち』を、これからも続けていく。
それが、俺の唯一の『正義』なのだから。