第1話:教室の片隅、夜の邂逅
午前8時。北海道、札幌市。私立神都高校の教室には、窓の外に広がる銀世界とは無縁の、賑やかな喧騒が満ちていた。友人たちと昨夜のゲームの話で盛り上がる者、スマートフォンを片手に笑い合う者、真面目に予習に励む者。暖房の効いた空間には、甘いパンの匂いと、若い生命が放つ熱気が満ち溢れている。そのどこにも、俺の居場所はなかった。俺は窓際の最も奥まった席に座り、ただ無表情に空を眺めている。窓ガラスに映る俺の顔は、この教室の熱気とはまるで無関係な、雪のように冷たい表情をしていた。
俺の名は、神崎 怜。
表向きはどこにでもいる、少し影のある高校生。だが、その裏では、人知れず異界の存在を狩る退魔師という顔を持っていた。ここ北海道の地は、本州とは比べ物にならないほど魔力濃度が高く、異界の存在との境目が曖昧だと言われている。雄大な自然の奥深くには、まだ人の踏み入らぬ領域が広がり、都市の片隅にも、古くから伝わる怪異や、近代の歪みから生まれた妖魔が蠢いている。そのため、退魔師の活動も盛んで、俺のような若手の退魔師も多くこの地に集められ、あるいは生まれては、任務に当たっていた。
退魔師の主流派は、異界の存在を「人類の敵」として「殲滅」することを是とする。彼らは、強大な霊力や古来の術式を駆使し、容赦なく妖魔を滅ぼす。しかし、俺は違った。俺の能力である『断ち』は、相手を物理的に傷つけ、霊的に消滅させるものではない。異界の存在が現世に留まる「未練」や「心残り」を読み解き、現世との間に結んでいる「縁」を断ち切ることで、その魂を本来あるべき場所へと還す。それは、言わば「強制帰還」であり、「解放」なのだ。
この思想は、一般的な退魔師からすれば異端以外の何物でもない。
ある日、任務で出会った低級の妖魔が、ただ冬の寒さから逃れるために街へ降りてきただけだと知ってしまった時。その、純粋な「生存」への希求を感じ取ってしまった時、俺は確信したのだ。彼らにも「命」があり、感情がある。安易な殺生ではなく、共存や封印、そして「解放」の道を探るべきだという俺の思想は、周囲の退魔師たちから「甘い」「半端者」「異端」と嘲笑され、俺はいつしか孤立していた。
「怜、また浮かない顔してるね」
優しい声が、俺の耳に届いた。振り返ると、幼馴染の藤原美咲が心配そうに俺を見ていた。彼女の笑顔は、いつも太陽のように暖かく、俺の凍りついた心をわずかに溶かす。美咲は退魔師ではない。ただの一般人だ。札幌の中心部に住む彼女は、日常の裏に潜む異界の存在など知る由もない。だからこそ、俺は彼女にだけは、この暗い秘密を話せない。普通の高校生として振る舞う日常は、俺にとって唯一の安息の地だった。
「別に、なんでもないよ」
俺がそう答えると、美咲は少し寂しそうに微笑んだ。
「そっか。でも、いつでも相談してね。私、怜の味方だから」
彼女の真っ直ぐな言葉が、鉛のように重い秘密を抱える俺の心を、チクリと刺した。彼女の優しさが、まるで俺の抱える孤独を際立たせるかのようだった。
チャイムが鳴り、朝のホームルームが始まる。担任の戸田先生が、いつもより少し興奮した面持ちで教壇に立った。
「皆、静かに! 今日から新しいクラスメイトが来る。遠方から転校してきたので、優しくしてやってくれ!」
教室にざわめきが広がる。転校生なんて、この時期は珍しい。北海道の冬は長く、この時期に転校してくる生徒は少ない。俺は興味がないフリをして、再び窓の外に目をやった。しかし、次に先生が発した言葉で、俺の心臓は大きく跳ねた。
「入ってくれ、氷室さん!」
教室の扉が開き、一人の少女が姿を現した。
漆黒のストレートヘアは、北海道の夜空の深淵を思わせ、雪のように透き通る白い肌は、冬の日の光を受けて仄かに輝く。そして、どこか憂いを帯びた、吸い込まれそうなほど深い紫色の瞳。彼女は、教室の生徒たちが一斉に息をのむほど、非現実的な美しさを持っていた。北海道の凍てつく冬景色を背景に、まるで幻想の存在が実体化したかのような、完璧な佇まいだった。教室のざわめきが、一瞬で静まり返る。まるで、空気が凍りついたかのように。
だが、俺の心臓を跳ねさせたのは、その容姿だけではない。
彼女の周囲に漂う、微かに、しかし確かに存在感を放つ魔力の気配。それは、退魔師のそれとは全く異なる、異質な波動だった。それはまるで、流氷の奥底から放たれる冷たい光のように、神秘的で、そして危険な香りを放っていた。その魔力は、どこまでも澄み切っていて、同時に底知れない深淵を感じさせる。
俺は、直感的に悟った。この少女は、俺の知るどの退魔師とも違う。
「氷室 零華です。よろしくお願いします」
彼女の声は、氷のように透き通っていた。しかし、その声には一切の感情が宿っておらず、まるで機械が発する音のように平坦だった。その瞬間、俺は確信した。彼女は、退魔師が最も危険視する存在――魔術師だ。そして、彼女の瞳は、まるで俺の隠された秘密を見抜いているかのように、俺の席に一瞬だけ向けられた。その視線は、俺の心の奥底まで見透かすかのような、鋭い光を宿していた。
放課後。俺は部活にも入らず、美咲にも適当な理由をつけて別れを告げ、人通りの少ない道を歩いていた。今日の夕方の任務は、ススキノの廃ビルに出現した低級の妖魔の討伐だ。退魔師の任務は通常、複数人で行われるが、俺には組む相手がいなかった。孤立した俺に、共同任務の誘いが来ることはない。もはや、それが日常だった。
雪がちらつき始めた夜空の下、ススキノの歓楽街はネオンサインの光で怪しく輝いている。その賑やかさから少し外れた、開発に取り残されたような廃ビル群の一角に、今日の目的地はあった。
廃ビルの前に着くと、すでに先客がいるようだった。見慣れない二人の退魔師が、俺の存在に気づき、警戒した表情でこちらを見る。彼らは俺のことを「半端者」だと認識しているのだろう。俺の「縁を断つ」という手法は、異界の存在を「滅ぼす」ことこそ正義とする彼らの目には、生ぬるい偽善に映るのだ。俺は彼らを無視し、ビルに入ろうとした。その時だった。
「邪魔だ、異端者」
冷たい声が、俺の背後から聞こえた。振り返ると、そこには昼間、教室で俺を嘲笑したライバル、**鬼道院 竜牙**が立っていた。彼の隣には、彼のパーティーメンバーだろう、見るからにエリート然とした退魔師が二人控えている。彼らの腰には、霊力を込めた刀剣や、術式が刻まれた護符が揺れている。
鬼道院は、退魔師の名門中の名門である鬼道院家の嫡男だ。その家系は代々、強大な霊力と、炎を操る特殊な能力を受け継いできた。彼の能力は、退魔師の中でも特に強力な「炎熱剣」。霊力を炎に変え、刀身に纏わせることで、あらゆる妖魔を焼き尽くすという、まさに「殲滅」に特化した力だ。その圧倒的な強さに裏打ちされた傲慢さとエリート意識は、他の追随を許さない。
「ここは俺たちの管轄だ。半端者は引っ込んでいろ」
鬼道院の言葉に、俺は苛立ちを覚えた。彼らは力こそすべてだと思っており、俺のような思想を持つ者を徹底的に見下している。彼らにとって、妖魔は根絶すべき害悪であり、俺の「解放」の思想は、ただの感傷的な戯言でしかないのだ。
「…俺も任務だ。先に終わらせる」
そう言って俺がビルへ足を踏み入れると、鬼道院は鼻で笑った。
「くだらない。そんな雑魚に構っている暇はない」
彼は俺を通り過ぎ、堂々とビルの中へ入っていく。彼のパーティーメンバーも、嘲るような視線を俺に投げかけ、その後を追った。その圧倒的な自信と、俺への見下した視線に、俺は何も言い返せなかった。俺は唇を噛み締め、彼らの後を追った。
ビルの内部は、妖魔の瘴気が濃く立ち込めていた。冷たい湿気と、腐敗したような臭いが鼻を突き、まるで呼吸そのものが汚されていくようだ。鬼道院たちは、その瘴気をものともせず、奥へと進んでいく。彼らの霊力は、この程度の瘴気を弾き返すに足るものなのだろう。俺は呼吸を整え、注意深く周囲を探りながら彼らの後を追った。
そして、その先の広場で、俺は再び息をのむ光景を目にした。
そこには、俺たちが討伐対象としていた妖魔が、すでに倒れていた。それは、人間の負の感情が集まって形成されたような、醜悪で、しかしどこか悲しげな姿をした妖魔だった。そして、その傍らには、見慣れた制服姿の少女が立っている。
氷室 零華。
彼女は、倒れた妖魔の亡骸に何かを囁きかけている。その声は、人間には聞き取れない、まるで異界の言語のようだった。しかし、その声には、不思議な響きと、有無を言わせぬ支配力が秘められている。すると、妖魔の亡骸から、まるで魂を抜き取るかのように光の粒子が立ち上り、彼女の掌へと吸い込まれていった。それは、退魔師の「浄化」とは全く異なる、異様で、どこか背徳的な光景だった。光の粒子は、彼女の白い肌の上で一瞬輝き、そして完全に彼女の身体の中へと消えていく。その光景は、畏怖すら覚えるほど美しく、同時に底知れない恐怖を誘った。
俺の能力、『断ち』。
俺は、現世に留まる異界の存在と、その未練や心残りを結びつけている「縁」を断つことができる。この能力は、相手を消滅させるのではなく、この世との繋がりを断ち切ることで、本来いるべき場所へ還す、言わば「強制帰還」だ。そのためのプロセスはこうだ。
まず、俺は妖魔を構成している霊的なエネルギーに触れ、その「縁」が何によって結びついているのかを読み解く。これは、相手の魂に深く入り込み、彼らが抱える苦しみや悲しみ、あるいは誰かへの強い思いなどを、まるで自分のことのように感じ取る作業だ。この共感能力が、俺を「異端」たらしめている所以だ。この際、俺は時に特殊な「言霊」を唱えたり、霊力を込めた符を用いることで、対象との同調を深める。
「縁」の正体が分かると、俺は刀や霊符といった道具に霊力を集中させ、その「縁」を「断ち切る」ための儀式的な動作を行う。刀を用いる場合、それは敵を切り裂くための攻撃ではなく、ただ一瞬、その「縁」を正確に切り離すための静かで素早い斬撃となる。霊符を用いる場合、その縁を断ち切る言葉を記した符を燃やしたり、破いたりすることで、象徴的に縁を断つ。
「縁」を断たれた妖魔や霊的存在は、現世に留まる理由を失う。彼らは苦しみから解放され、安らかな表情で光の粒子となって消滅していく。この「消滅」は、退魔師たちの「殲滅」とは異なり、本来あるべき場所(霊界など)へと還ることを意味する。
そして、その「縁」の読み取りは、圧倒的な速度と精度で行われる。普通の退魔師が、敵を倒すために多大な霊力や時間を要するのに対し、俺はわずかな時間で相手の「未練」や「心残り」を読み取ることができる。この直感的な能力は、まさに天才的と言えるだろう。
さらに、彼は「縁」を見抜いた後、無駄な動きを一切省き、たった一撃でそれを断ち切ることができる。この動作は、まるで舞うかのように滑らかでありながら、決して防ぐことのできない、絶対的な精度を誇る。どんなに強大な妖魔や霊的存在であっても、現世に留まる「縁」さえ断ち切ってしまえば、瞬時に力を失い、無力化されるのだ。
だが、彼女の能力は、俺のそれと酷似していた。
彼女は妖魔を倒し、その魂を自らの力に変えている。それは、俺が辿ってきた道、そして俺が抱える孤独と、どこか重なるものだった。
「…まさか、魔術師か」
鬼道院の呟きが、静かな廃ビルに響いた。彼は、信じられないものを見るかのように、その場に立ち尽くしている。その表情は、昼間の傲慢な笑みとはかけ離れた、純粋な驚きと、そして強い敵意に満ちていた。魔術師は、妖魔を操り、あるいはその力を利用して自身を強化する、退魔師にとって最も忌み嫌うべき存在だ。
「どうしてこんな場所にいる? 妖魔を狩り、その力を吸収しているようだが、貴様は何を企んでいる?」
鬼道院が零華に詰め寄る。その瞳には、すでに憎悪の炎が宿っていた。
「…あなたたち退魔師には、関係のないことです」
零華は、冷たい声でそう答えた。その声には、いっそうの感情の起伏が感じられない。
「関係ないだと? 貴様のような異端者が、妖魔を操っているという可能性もある。我々退魔師の敵だ。ここで排除する」
鬼道院が剣に手をかける。その剣の周囲に、真っ赤な炎の魔力が渦を巻き始めた。彼のスキルは、炎熱剣。退魔師の中でも特に強力な能力の一つであり、炎は妖魔を焼き尽くすだけでなく、不浄なものを浄化するとも言われている。彼の剣に宿る圧倒的な力に、俺は思わず身を固くした。このままでは、争いになる。
「やめろ、鬼道院! 彼女は妖魔を倒している!」
俺はそう叫んだが、鬼道院は聞く耳を持たなかった。彼にとって、魔術師は退魔の妨げになる存在であり、何より「正しくない」存在なのだ。彼の信念は、鋼のように固い。
その瞬間、零華の周囲に、冷気を帯びた氷の壁が形成された。それは、鬼道院の炎熱剣の熱をも吸収してしまうかのような、分厚く強固な防御壁だった。彼女は、氷の壁越しに、冷たい瞳で鬼道院を見据えている。
「…来るなら、来ればいい。あなたたち退魔師が、何をしようとしているか、私にはお見通しよ」
静かな怒りを帯びた零華の言葉に、鬼道院はさらに激昂した。彼の顔は怒りで紅潮し、炎熱剣の炎がさらに勢いを増す。彼は炎の剣を振り上げ、氷の壁に斬りかかった。
「ちっ、面倒な…」
俺は二人の戦いに割って入るべきか迷っていた。退魔師と魔術師の戦いに、俺が介入する理由はない。むしろ、俺の「異端」な立場からすれば、中立を保つべきだ。しかし、零華の言葉が、俺の胸に突き刺さっていた。
「あなたたち退魔師が、何をしようとしているか…」
彼女は、退魔師たちの思想の歪み、妖魔を一方的に「敵」と見なし「殲滅」することだけを是とする、その傲慢なまでの絶対性を、見抜いているようだった。それは、俺がずっと抱えていた疑問と、同じものだった。彼女のやり方は、俺の「解放」とは異なる。だが、その根底にある、既存の退魔師たちへの不信感は、俺と共通している。
その時、ビルの奥から、さらなる妖魔の群れが出現した。それは、先ほどの妖魔とは比べ物にならない数の、低級ながらも無数の妖魔たちだった。瘴気の濃度が一気に高まり、空間そのものが軋むような不気味な音が響く。鬼道院のパーティーメンバーが、その数に怯んだ。彼らは俺たちを無視し、目の前の敵に集中しようとする。だが、零華と鬼道院の対立は、この状況をさらに悪化させていた。
「このままでは、全滅だ…!」
俺は、もう迷うわけにはいかなかった。俺が動かなければ、この状況は収集がつかなくなる。この場で、彼らが衝突し、無数の妖魔に襲われれば、被害は甚大になるだろう。
俺は剣を構え、鬼道院と零華の間に入り込んだ。
「どけ、神崎! 半端者が!」
鬼道院の怒鳴り声が響く。だが、俺は動かない。俺の背後からは、零華の冷たい視線を感じる。
「力を合わせるんだ! 俺たちは同じ目的を持っているだろう!?」
俺の言葉に、鬼道院も零華も、一瞬だけ動きを止めた。彼らの瞳には、戸惑いが浮かんでいた。
その隙を突き、妖魔の群れが俺たちに襲いかかった。無数の手が、俺たちめがけて伸びてくる。