人ならざる者
セルリアはラビスが声を張ったその瞬間、耳に届いて窓の外を振り向く。
力を使ってなくとも人より身体能力は優れている。それでも遠くに聞こえるくらいのささやかな声だったが、十分だった。
「セルリア!」
しかしその部屋には、セルリア一人ではなかった。これ以上ない程に顔を歪ませ、鬼の形相であるパノス。
門番からの報告を受け、セルリアを逃がすまいと部屋に入っていた。
「わかっているんだろうな。どこに逃げようと、お前が行く先には不幸しかもたらさないぞ!」
パノスは一心にセルリアを見て声を荒げていた。
「何故そこまでする。お前は私に、何を望む?」
「決まっているだろう?その美貌、僕のような存在にこそ相応しい!庶民だけでなく、他の貴族すら羨望の目を向ける!」
パノスはそれ以外何があるのか、と言わんばかりだ。皆が妬む程に視線を集める瞬間をこの時に見ているかのように酔いしれるように笑う。
その様子をセルリアは眺めた。
「……な、んだ?その目は……っ!また僕を愚弄するつもりか!」
パノスは一人でに笑いから怒りへと変わる。
「同じ思考の人間か、付き従う人間と夫婦となれ。
私は、帰らせてもらう。」
セルリアが言い切り踵を返してベランダへ続く外へと向かう。
「ここからどうする気だ!
それに、いいんだな!!何度でも奪いに行くぞ。村を、住人を、全て壊してもっ!」
パノスはここを出ていくことを後悔しろとばかりに、顔を歪めて笑う。
「私も言ったはずだな?お前が力をもって制すなら、私も手段を選らばないと。」
再びゆっくりと振り返らんとするセルリアに、パノスは瞬間に体の芯から凍ったように、息すらひきつらせて固まった。
振り返ったセルリアの目は瞳孔の輪郭だけが浮き出るように白く、鋭い殺意すら孕んだ眼光。その目に涙のように血が滲もうとも、セルリアは力を解かない。
それは"人ではない"と悟る程の、生物にとって強大な気配であった。
パノスは目を見開いたままガチガチと歯を鳴らし、冷えきった汗を滝のように流して呼吸もままならない。絶対的な恐怖に立ち尽くす。
「不幸を見るのは貴様の方だ。次はないと思え……!」
凶暴な殺気を漂わせるセルリアに、最早美貌など目に映らず、異形な怪物にでも出くわしたような圧迫感。
パノスは足が積み木にでもなったように崩れて尻餅を付き、その場に服が吸収しきれない程の水溜まりを作る。
「パノス坊っちゃま、失礼致します。
パノス坊っちゃま!?」
部屋の外で待っていたはずの執事の老人が部屋の中へ入り、パノスが座り込んでいる光景に目を疑い駆け寄った。
背を見てもガタガタと体を震わせて窓の方向を向き、辿って悟る。
その様子を殺気纏う冷めた目で見ていたセルリアの冷たく鋭い色素の薄い瞳に、老人すら体が固まった。
「まだ私に関わるのであれば、私は直接お前の命を取りに来る。もらった命を惜しむといい。」
セルリアはパノスと老人を見切るように背を向ける。
再び窓へと向かって歩き出して扉を開け放ち、3階のベランダから庭へと、躊躇などなく柵を越えて飛び降る。
「せっ……!セルリア様っ!!」
老人は慌ててベランダに出て、飛び降りたセルリアを見下ろす。
しかし、力を解放している状態のセルリアにとってその高さは羽を開くまでもなく、手頃な塀を飛び越えたかのように容易く地に足をつけていた。
「っ……、」
何事もなく庭を歩くセルリアに、無事で安心したのも確かだろうが、この高さから落下して支障もなく歩けるはずがない。
理解できない現実に混乱するように、老人までもベランダで腰を抜かした。
地上に降り立ったセルリアは門に向かって歩いていたが、その先に見える光景に歩みを変える。グッと地面を踏み込めば、たった一歩が幅跳びのように体を先へと送る。
「ラビスっ!!」
一向に諦めないラビスに、見張りの男は3人に増えている。
地面に伸びるラビスの壁になっているが、セルリアはまず素通りし、暴行を受けてボロボロになりながら、まだ起きようとしていたラビスの体を支えた。
「せ、る……りあさん……?」
荒い呼吸と、何度にもわたる打撲による圧迫からだろう咳を漏らしながら、見間違えるはずもない。声を聞き間違えるはずもなく、その名を呼ぶ。
痛みでボヤけながらも、ラビスは意識を保っていたようだ。
「っ貴様ら……!!」
ここまで痛めつけた男達を色素の薄い瞳が容赦なく睨み、体格のいい男達が後退りする程に怯む。
セルリアはラビスから手を引いて、男達への攻撃の手に変えようとしたその時、温かな体温のある手が重なる。
長年の畑仕事からか荒れてカサつくラビスの手のひらが握る。
「ぼ、くは……、大丈夫、だよ。セルリアさん……。」
舗装された道と言えど土にまみれ、傷や痣だらけになりながら笑うラビス。
セルリアは攻撃への熱が冷め、酷く傷付いたラビスの体を労るように手を戻した。
「なぜ、こんなになるまで……。」
「セルリアさんこそ、目……。血が出て……。」
「なんて事ない。お前は、私のように頑丈じゃないだろう!」
セルリアは目元から溢れなくとも血は溜まるまま、ラビスへと声を荒げる。
「譲れなかった、んだ。セルリアさん……、ここは、幸せ……?」
「なに?」
セルリアはラビスの尋ねることの意図がわからず、答えよりも先に疑問が出る。
「幸せなら、いいんだ。でも、そうじゃないなら……。僕には、出せるものなんてないけど、精一杯頼むから。
帰ろう?セルリアさんが気に入ってくれた、皆のいる、村に。」
ラビスは微笑みセルリアへと尋ねる。
セルリアは数秒を俯く。
「帰りたい……。」
セルリアの色素の薄い、誰もが恐れるだろうその瞳。だが今はそこから血が混ざりながら一粒の零れ落ちた涙のせいか、ラビスは恐怖の欠片も感じずに微笑んだ。
「っ……!」
無理矢理に体を起こし始めたラビスに、セルリアはそれを支えるように手を添える。
「お願い、に、いかなきゃ。セルリアさんのこと、と……村の、ことも。」
「それならきっともう……問題ない。」
セルリアはそうラビスを制して立ち上がり、立ち尽くす見張りの男達に向き直る。
「パノスに指示を仰いでもらおう。私がここに残るべきかどうか。そして、村にもまた手をかけることがあるのかどうか。」
セルリアが催眠をかけるまでもなく、男達は戸惑いつつも電話を手にとって確認する。
「セルリアさん?どうゆう……、」
ラビスは話についていけず、セルリアに問う。
「この姿を見て気付かないか?化け物を見た顔だった。」
セルリアは呆気なく語る。
ラビスは"化け物"というところに悲しげに視線を落とした頃。
「二人共、帰していいそうだ。もう二度と近付けるなと。」
電話を終えた見張りの男は、パノスに聞いただろう指示をセルリアとラビスへ向かって告げる。
「そうか。ラビス、少々我慢しろ。」
「え、わっ!い……った……!」
セルリアはラビスの体に腕をいれると、何の支障もなく成人男性の体を抱き上げ。
ラビスは驚きと、動かされた痛みに声を上げるが、見張りの男達は唖然。
細くしなやかな女が、大の男を軽々とお姫様抱っこしたのだ。それも当然だろう。
「せ、セルリア、さんっ!?これは、ちょっと……!」
「文句ならここまで痛めつけたあの男達につけろ。」
セルリアはかまわずスタスタと歩き出し、ラビスはもう何も言えない。
「あっ、お邪魔しました……!」
まだ門すらくぐらせて居ない上に傷だらけにされながら、わざわざ声をかけるラビスと、それを持ち運んでいるセルリア。
男達は呆然と二人の背中を見送っていた。




