憧れとは
憧れとは何たるか。
羨望や嫉妬、その他もろもろを内包した言葉ではあるが、その根底にあるのはやはりもっと純粋な感情であるように思う。
あの人は凄い。
あの人のようになりたい。
そしてその感情は、時に『あの人ができるのなら自分もできるのでは?』というものになりかねない。
できる者はいるだろう。
確かに、いるだろう。
だがそれはごく少数で、途方もない努力を必要とする。
富岡祐介。
レースゲーム出身者としては史上2人目となる、GT500クラスフル参戦を果たした『偉人』。
彼に憧れ、レーサーを志したものは少なくない。
そして数多の夢見る青少年の中に、ひと際強い光を放つ者がいた。
史上最速、ここに生まれ変わる。
およそ30年前、モータースポーツ界に激震が走った。
空前のF1ブームの立役者、アイルトン・セナ。
彼の名を冠した男が、日本に舞い降りる。
初めは都内の小さな大学から。
その才能の芽は、摘み取られることなく成長していった。
友との乖離、師の旅立ち。
幾度も逆風に吹かれ、その度に強く、また強く根を張る。
伏見瀬名。
同じくレースゲームからの刺客ではあるものの、その内訳は大きく異なる。
まさに『怪童』。
彼は憧れすらも踏み台にして、更に高みへ向かうのか。
勝つのは『偉人』か、『怪童』か。
『伝説』か、『天才』か。
最終戦終了後に行われる、異例の第三戦。
鈴鹿の空が、朝日の朱色に染まる。
冬の澄んだ空気の中、決戦の日を迎えた。
「瀬名くん、鈴鹿を走るのは初めてだっけ?」
「F4時代に2レース、走ってますよ。正治さんは?」
厚手のレーシングスーツを着ていても、吹きさらしの首から上に冷たい空気が打ち付ける。
「オレもS耐で何度かね。1シーズンにつき1レースしかないから、そんなに回数は多くない。」
もはやお決まりとなった、レース前のピットウォーキング。
「あー、でもそれで言ったら俺何千回も走ってるかもっす。ゲームで」
「それいいよな。オレもハンコン買って始めようかな、レースゲーム」
「実際に走ってみるとわりと違うところもありますけど、ブレーキングポイントとかは勉強できるのでオススメですよ」
二人は何気なく通りかかったガレージの方を見てみる。
丁度そこは、マシンの準備をしているチームAMTのピットガレージだった。
そして、その中にはマシンを凝視するレーシングスーツを着た人物がいた。
彼は人影に反応して、こちらを振り向く。
「あれ?sennaさんじゃん!どうしました?」
しかし、瀬名は前を向き直りガレージを通り過ぎようとする。
「おい、瀬名くん呼ばれてるぞ。」
その腕を正治が掴み引き留める。
「最近めっきり配信にも来てくれないんだから心配してたんだよ~?また一緒にゲームしましょうよ!」
近寄ってくる富岡を見るなり、正治の腕から離れようと暴れる瀬名。
「正治さん離してください!俺はまだ第二戦の負けを引きずってて、悔しすぎて配信に向かう気にならないなんて知られたら恥ずか死してしまう!!!」
「めっちゃ大声やん」
「ハハハッ。説明ありがとうsennaさん。じゃあ今日のレースで私に勝てばいいじゃないですか」
「うわあああめっちゃ煽ってくるううう」
その場でのたうち回り始める瀬名。
しかし富岡のその言葉は流石に悪意があるのではなかろうか。
「スイマセン、煽ったつもりはなかったんだけど…」
なかったらしい。
「あ、何気にあなたと話すのは初めてですかね?よろしくお願いします。桑島さん。」
「こちらこそ。オレ自身は瀬名くんのリザーブドライバーってぐらいの気持ちでいるので、直接対決は無いかもしれないけど。…瀬名くん、挙動が危ないよ。落ち着け。」
「ん?え?あ、我を忘れてました。ピットのコンクリ、なんか気持ちいいんすよ」
コースの黒とは違う、白っぽいピットのアスファルトの上を獲れたてのマグロのようにピチピチと跳ね回っていた瀬名は、ようやく動きを止める。
ゆっくりと立ち上がると、富岡の眼前まで歩を進め。
「おっしゃったとおり、今日勝って第二戦の負けを払拭して見せますよ。」
「望むところ。ポールポジションこそ譲ったけど、後半の出番で確実に前に出て差し上げます」
お互いの目と目の間には、火花が散る様子が見えるだろう。
少なくとも、正治にはそう見えていた。
「…さて、オレもそろそろ気合入れるか。」
二人の様子を見て、正治にもスイッチが入ったようだ。
今日のレースも、3スティントのチームが多く見られた。
瀬名を最初と最後に配置し、真ん中を正治が埋める。
他のチームも、エースドライバーを初めと終わりに起用することが多くなりそうだ。
ポールポジションはチームレンペル。
二番手からスタートはチームAMT。
何気に今シーズン、この二チームがトップ2を独占するのは初めてとなった。
正治としては、前半でどこまでギャップを広げて瀬名に渡すことができるかがカギになってくる。
正治はゆっくりと体を反転させて自チームのガレージへと向かった。
富岡とにらみ合っていた瀬名も、それに気づくとタタタッと走ってそれについていく。
富岡の目には、正治の顔を見上げて『置いていくな』と文句を言う瀬名がハッキリと映っていた。
「始まりますね。リベンジ合戦が。」
スタートの時刻は、もうすぐそこに迫っている。