錯覚
「クソォォォォォ!!!」
あと、数秒だった。
あと数秒、保ってくれさえすれば。
『瀬名くん、完全に僕のミスだ。もう少し燃料解放の指示を遅らせていれば…』
「ハァ…ハァ…いや、それは違いますよ…。」
叫び、焼け付いた喉で、しわがれた声を出す。
『あと0.1秒でも指示が遅れていたら、俺は1位を明け渡すしかなかった。一度前に出してしまったら最後、俺には富岡さんを抜き返すだけの実力は持ち合わせていなかった…!』
だからこそ。
「俺は、俺の無力が憎い!!!」
誰もが自分のことを天才と呼ぼうが、素晴らしい走りをしようが。
勝てなければ意味がない。
人間というのは強欲なもので。
一度勝利の美酒を味わってしまえば、それを捨てることはできないように設計されている。
これはスポーツ、特に個人技の要素が多いものに良くあてはまる。
今瀬名は、このレースが個人技による負けであると錯覚している。
一刻も早く、彼の頬を殴ってくれる人物が必要である。
しかし、彼のチームメイトや今この瞬間手の届く範囲に、そういった人物はいない。
誰もが優しく、瀬名に寄り添おうとする者ばかりだ。
だが人には、目を覚まさせてくれる一撃をお見舞いする存在も必要である。
瀬名が彼を、将来的なパートナーとして抜擢しようとしているのは、とても理にかなっている。
瀬名は本能的な、直感的な何かで彼を選ぶに至った。
旧知の仲であるとか、それ以前に。
相性が抜群に良いと言っていいだろう。
だが、彼はこの場にいない。
なんとかして瀬名を引き戻すきっかけが必要である。
瀬名の本来の闘争心を、失敗や敗北でリベンジに燃える本来の瀬名を。
だが偶然か、必然か。
瀬名のチームメイトは、彼に張り手を食らわすことなくその本来の姿を取り戻すことに成功する。
『瀬名くん、何か欲しいものあるか?』
その言葉は、瀬名の何らかのスイッチに触れた。
「…次…鈴鹿で勝ちたいです…」
その目には、既に涙は無かった。
第三戦・鈴鹿450kmレースは、6月6日開催。
の、予定だった。
「うわ…直撃じゃん」
5月30日未明に発生した台風1号。
今年に入って半年近く安寧を謳歌していた日本列島に強烈な一撃をお見舞いしようと、着々と気圧を下げていた。
『伊勢湾台風の再来』と銘打たれたその怪物の襲来に人々は屋根をブルーシートで覆い、窓に板を張り付けた。
丁度かの台風を彷彿とさせるように、三重県鈴鹿市へ一直線に向かってくる。
「まだ梅雨にも入ってねえってのに、なんでこうなるかねぇ…」
瀬名はソファへ身を投げると、天井を見上げて呟く。
「こりゃ中止かな…」
東京の空はこんなにも青いというのに。
『台風1号は依然として猛烈な勢力を維持したまま、和歌山県串本町に上陸。今日夕方ごろには三重県へ入る見込みで…』
6月4日。
本来なら鈴鹿サーキットへの移動日である。
『プルルルル』
瀬名のスマホが鳴った。
「はい。瀬名です」
『お疲れ様、優次です。今回の台風の件なんだけど…』
瀬名は『やはりか』と思い顔をしかめる。
『とりあえず状況を鑑みて明日からの第三戦は中止。ただ…』
優次はそれに続けてこう告げた。
『最終戦終了後、12月4日から5日にかけて延期開催されることになった。』
瀬名は、鈴鹿には思い入れがあった。
シーズン開幕前、富岡とゲームで走ったコース。
8周のスプリントレースではあるが、勝利を収めたコース。
絶対に、鈴鹿でもう一度戦いたかった。
半年後にはなるが、その時までリベンジは待っておいてやる。
そんな心境になってきた。
【明日レースでしたっけ?】
「いや、明日のは台風でなくなりました。12月に延期になったっぽい。楽しみにしてたんだけどね」
丁度その鈴鹿を走りながら、流れてきたコメントをふと読んだ。
「いやー、冬のレースって私苦手なんだよね。全然タイヤグリップしなくてさ。ドライなのに雨の中を走ってるみたいで。」
【今年は27号車も速いですよね】
「そうなんすよ。今シーズンからドライバーが二人とも変わって、んでめっちゃ強くなってる。おまけに監督さんはあの松田優次さんだから手が付けられませんよ」
【第二戦の最後めっちゃアツかったっす】
「ありがとうございます。あーれは絶対負けたと思ってましたもん。」
分かりやすく笑顔になってしまったかもしれない。
「ちょっと裏話をすると、我々は燃料を多めに補給してドカッと使うって戦略で行ってたんですよ。だから2回目のピットストップが長かったんです」
あんまり詳しい事言っちゃうと監督に怒られるから、このぐらいにしておこう。
【そう言えば、senna_0501さん最近見ませんよね】
そのコメントを見て、思わず飲み物を吹き出しそうになる。
「こらー。あんまり場にいない人のこと喋っちゃダメっすよ。」
マズいマズい、視聴者さんに本人の口以外から知られるのは非常によろしくない。
「でも、そうですね。この間配信来てくれた時に負かされてるから、いつかまた一緒に走りたいですね」
そう言って私は、今一度画面に集中する。
『リベンジ』だと思っているのはあなただけじゃない。
もう一度、鈴鹿で戦おうじゃないか。
伏見瀬名さんよ。