かつての目標へ
「まさかあそこで仕掛けてくるとは思わなかったなぁ」
「第四戦のお返しですよ。」
瀬名の脇腹をポフポフと殴りながら裕毅は言う。
「で、今はどこに向かってるんですか?」
レース後、瀬名は着替えもせずに裕毅を招集した。
二人はピットを出て、グランドスタンド方面へ歩いてゆく。
「グランドスタンドの上、VIP席だよ。会わせたい人がいるんだ。」
「よう、お帰り。とんでもねー追い上げだったな。」
「ありがとさん。あれくらい丁度いいハンデよ」
エンジンがかからなかったとき、彼がどんな言動をしていたのかは黙っておいた方がいいだろう。
「あれ、その子は?」
瀬名と肩を合わせた後、目線を裕毅へと移す。
初対面の琢磨には人見知りが発動する裕毅。
瀬名の背中に隠れ、縮こまっている。
「彼が今日の2位さ。」
「…マジか。」
「…恐れ多くもマジでございますぅ…」
裕毅はさらに身を縮こまらせ、頭を下げる。
「そこまでビビらんでもいいよ。このお兄ちゃん料理はヘタクソだけど悪い人じゃないから」
「その紹介いるか?」
紹介を聞くと、裕毅はゆっくりと瀬名の背から顔を覗かせた。
「…松田裕毅です。瀬名さんの弟子です。」
「オイ瀬名。いつの間に弟子を取るまでに偉くなったんだ?」
「知らん知らん、弟子にした覚えもない…違う!裕毅、そういう事じゃないから!!!」
涙目になった裕毅の頭を抱きかかえ、宥める瀬名。
「まあ仲良さげで何よりだよ。よかったな、いい後輩ができて」
親のような温かい眼差しで笑う。
「で、話ってなんだ?」
レース前に交わした言葉の答え合わせをする。
一向に泣き止まない裕毅の頭を撫でまわしながら、どうしたものかと思案していた瀬名の手が止まる。
ついでに裕毅の涙も止まる。
「そうだ、その件でこの子を連れてきたんだったわ」
裕毅の肩に手を回し、琢磨の方を向き直る。
「俺がずっと掲げてきた目標を覚えてるか?」
「『松田優次さんのチームで戦う』だろ?もう死ぬほど聞いてんだ、忘れるわけないだろ」
瀬名はフッと笑う。
「その夢はそのままに、さらに上を目指したいと思うようになってきたんだ。」
裕毅の方に目をやり、語り続ける。
「この子は俺に、もっと高い場所に行ける可能性を教えてくれた。…単刀直入に言おう。」
もう一度しっかりと琢磨の目を見つめ、息を吸う。
「俺は、F1に乗りたいと思っている。その時のピットには、お前が必要だ…琢磨。」
それを聞いた琢磨は、サイドテーブルに置かれた飲みかけのシャンパンを手に取り、グイッと飲み干した。
空いたグラスをウエイターに渡すと、出口の方へとゆっくり歩いていく。
「…明日、舐めたレースはするなよ。」
扉に手をかけると、こちらを振り向いてニヤッと笑う。
「英語を勉強しておく。」
モータースポーツの甲子園、F4。
『ヴァン…ヴァン…』
『ヴァァァンヴァンヴァンヴァン!!!』
同じ周波数、しかし多種多様な爆音が響く。
グリッドに整列するマシンたち。
『ヴァァァァッ!!!!』
昨日と違い三強の一番後ろ、13号車からも快音は響いている。
ドライバーはまずそのことに安堵し、目線を前に移した。
サーキットの周りを囲む山々は、既に赤や黄色に色づいている。
秋の終わりを感じさせる朝の冷たい空気は、VIP席には届くことはない。
でも、それでも。
その中の一人の心は彼と共にあった。
かつて彼と共にこの地に来たときは、とても一心同体とは言えぬ関係であった。
だが、今は違う。
あれから共に戦い、高め合ってきた間柄だから。
互いの夢を語り、尊重し合ってきたから。
そして何より、旧知の親友だから。
それ以上の理由なんて、必要だろうか。
二人の目線は、一つ一つ点いていく赤いランプへと吸い込まれていく。
スタートの時間は、刻一刻と迫る。
先輩の意地か。
若き天才か。
それとも。
F4選手権第十四戦。
これが最後の戦いになる。
かつての目標へと続く、最後のピースとなる。
コース外からひらりと迷い込んだ、枯れ葉が一枚路面に落ちる。
シグナルは、赤からグリーンへとその色を変えた。
各車が弾かれたように前へ、前へと進んでいく。
一度地に落ちた枯れ葉はマシンたちが巻き上げる風にあおられ、またどこかへ消えてゆく。
13周の短いようで長い、そしてまた濃密な時間が幕を開けた。