トレース
「何があっても、手を抜くようなことだけはするなよ。」
「もちろんです。対戦相手に失礼なことはするなと、叔父にも散々言われてきましたから。」
「よし。じゃあ、いいレースを。」
二人はグータッチを交わし、それぞれのガレージへ戻っていく。
片手に持っていたヘルメットを頭の上に移動させ、ゆっくりと被る。
5月10日の午前8時。
F4選手権の第四戦が始まる。
『なあ、瀬名。』
「なんすか?」
スタート直前、それぞれ2、3番グリッドに着いたStarTailの二人。
無線越しにやり取りをする。
「今日の作戦はどうするつもりなんだ?」
『そうっすねぇ…』
現在のチーム方針として、稔は放任主義を貫いている。
二人の実力を認め、自らは干渉すべきでないとの判断だろう。
「いっそのこと、完コピしちゃいますか。裕毅の走りを」
『簡単に言うな…』
瀬名は右手の人差し指をピンと立て、さも当然かのように言った。
「まあ…昨日の走りを見る限り、奴は圧倒的に速い。ラインやブレーキングポイントをトレースするのは良い案かもな。」
『じゃ、俺はそれを試してみるので。聡さんはできるだけ俺に張り付いてフィードバックを伝えてください。』
「…善処はするよ。」
聡は項垂れ、覇気のない声でそう呟いた。
フォーメーションラップが終わり、セーフティーカーがピットに入る。
戦の火蓋が切って落とされた。
先陣を切るのは松田裕毅、弱冠16歳。
F4はフォーミュラカーの入門編であることもあって、ちらほら瀬名よりも若いドライバーを見かける。
フロントローの一角、伏見瀬名がそれを追いかける。
瀬名はあえて1コーナーで横に並ばず、テールトゥ―ノーズを選択。
とことん裕毅のラインをコピーしていこうという構えだ。
だが、瀬名は頭からある重要なことが抜け落ちていることに気が付いていなかった。
裕毅は速い。
確かに速い。
それは疑いようもない事なのだが…。
同時に若く、経験が浅い。
「…ッ!ヤバい!!!」
オープニングラップの1コーナー、裕毅はブレーキングポイントを見誤った。
時間にして0.15秒、ブレーキングが遅れる。
「…ッ!」
その後ろを、ラインをコピーしながら走る瀬名にも、そのミスは伝播した。
2台の姿勢が、同時に崩れる。
「面白くなってきたねぇ…」
稔はピットで映像を見ながらそう呟く。
「これ、聡が前に行くよ。」
2台はコースの外側に少し逸れ、一呼吸おいてから戻ってきた。
その間に聡のマシンが内側を突き、首位に浮上する。
「やっと回ってきたチャンスだ。瀬名、悪いが本気で走らせてもらう…!」
現状聡と裕毅のギャップは1.5秒程度。
実力を考えると、ひっくり返されてしまいそうな差ではある。
でも、それでも。
今まで積み上げてきたモノに誇りをもって戦うまでだ。
「しくじりました…前に誰もいなくてよかった…。」
裕毅は不幸中の幸いに安堵する。
「でも、すみません。その場所は僕のものなので…返してもらいますよ…!」
アクセルを雑とも言えるレベルで豪快に限界まで踏みつけ、1コーナーを立ち上がっていく。
そのすぐ後ろには瀬名もピタリと張り付き、オーバーテイクのチャンスを窺う。
「やってくれたな、裕毅…。事故ってたらどうするつもりだよ」
苦笑いをしながらギアを2、3、4、と上げていく。
「それにしても、後ろから見てるとますます分からなくなる。」
思わず瀬名は首をひねる。
「粗削りな走り、若さが見て取れるレベルなんだ。まるでカートの走らせ方なのに…」
コース中盤から後半にかけて。
「こうして、じりじりと離されていく。全く、訳が分からん。」
半ば呆れ気味でついていく瀬名。
「コイツは間違いなく、将来化けるな。楽しみだ。」
「すごい…お手本みたいな走り方だ…!」
現在二番手、聡の1.1秒後方を走行中の裕毅。
聡の走りに、感動していた。
学生時代から『綺麗な走り』と評されていた聡。
ラインどりからブレーキの踏み方に至るまで、教科書通りの走り。
ゆったりとして見え、まさに『初心者が最初に目指すべき走り方』である。
ただこれは、マイナスの意味も含んだ表現の仕方だ。
上級者以降になってくると聡の走りは、『攻めきれていない』と評されるようになってしまう。
旋回の基本、アウト・イン・アウト。
その全てで、あと10センチの寄せが足りない。
各コーナーで0.1秒の違いが出るとすると、このコースの1周では1.7秒もの大差となってしまう。
その積み重ねが、後方2台との差をゆっくりと詰めていく。
「1周あたり0.6から0.7秒のペース差…だがここまでは予想通りだ。」
聡はバックミラーをチラと見て、確実に詰まってきた車間距離を測る。
「このままいけばこの周で完璧に追いつかれる…でも。」
目線をもう一度前に戻す。
「レースは残り14周。」
最終コーナーを立ち上がりホームストレートに入ると、聡はおもむろに車体をイン側に寄せた。
すなわち、アウトインアウトの最初のアウトを捨て、絶対にインに飛び込ませないという動き。
「14周、全部耐えきってみせる。」
スリップストリームを得ようと、2台が聡の後ろにズラリと並ぶ。
「かかってこいよ天才ども。二人まとめて相手してやる。」