ペースアップ
東の空から、日が昇る。
朝焼けに照らされたホームストレートを、一台のマシンが駆け抜けていく。
レース開始から14時間が経過し、車両ごとのギャップは大きく開いている。
ただ一台、孤独に走るホンダ・フィット。
ピット側、建物の影から抜け、開けた1コーナーへと突っ込んでいく。
朱い陽の光が、車体に反射する。
1コーナーのハードブレーキング。
ブレーキが赤熱し、悲鳴を上げる。
だが、ドライバーはそれが日常であるかのように意に介さず進む。
前にも、後ろにも見渡す限り誰もいない。
だが、見えない相手と戦い続けるために目一杯アクセルを踏みちぎる。
コースの外側、内側を限界ギリギリまで使う。
35秒の差を追いかけて、瀬名は走る。
自分のために、そして…。
あの人のために。
時刻は12時を回り、レースも残すところあとわずかとなった。
3度目の役目を終え、もうすぐ4度目の出番が来るというところ。
なかなか前との差が縮まらない。
残り3時間でこの差を巻き返すのは不可能なのではないか。
全員の頭にそんな考えが浮かび始めたころ、事態が動く。
ガレージの外で作業していた琢磨は、西の空が暗くなってきていることに気づく。
すぐにレーダーをチェックすると、そこには確かに雨雲が。
予報ではほぼ100%無いとされてきた雨。
願いが通じた。
小さく、暗くなっていた希望の光が、輝きを増していく。
琢磨は瀬名にアイコンタクトを取ると、もう既に彼の準備はできているようだった。
瞬時にマシンをピットインさせる。
と、同時に雨が降り出した。
時刻にして12時32分のことだった。
レーダーの色は赤。土砂降りになるはずである。
反撃の時間だ。
『瀬名。聞こえてるか?』
「ああ。バッチリだ。」
『これがラストスティントになる。泣いても笑っても、あと3時間。』
「そんだけあれば充分さ。」
『現在5位、前との差は32秒だ。さあ、飛ばしていけ!!!』
「Copy!!!」
雨が本降りになり、路面状況は劣悪。
だが、この男に限ってはそうではない。
全体がペースダウンをする中、1人着々と、ぐんぐん前との差を縮めている。
「1周あたりトップ2台よりも1秒速いペースで走れてる。これならあと30周…1時間ちょいで追いつくぞ。」
「OK。じゃあペース上げるわ。」
「…!そうかい。じゃあもっと早く追いつけるな。」
横で二人の会話を聞いていた亜紀は、少し目を潤ませている。
「琢磨くん、今のセリフって前に京一が言ってた…」
「そうですね。京一さんと同じ場所までたどり着けたってこと…なんでしょうね」
瀬名のこの発言は、京一のことを意識してのものではない。
チームに対してできることや、今自分がすべきことを考えた末、至った言葉だ。
物事に限らずとも、言葉や行動にも極致は存在するのかもしれない。
その極致にたどり着いたとき、人は皆同じことを考え、同じ行動をするのだろう。
その言葉通り、瀬名は淡々とペースを刻み続けた。
土砂降りの雨の中、まだ見えない相手を追い上げる。
12時52分、4位浮上。
13時06分、3位浮上。
残すはトップ2台だけだ。
ホームストレートに入った時、かすかに2台のマシンが吹き上げる水煙を視認した。
見えない相手が、見える相手へと変化した。
「おし、こうなりゃもう秒読みよ…!」
アクセルを踏みしめ、自らの心のギアも一段階上げる。
1周、また1周と差が縮む。
気づけば2台のスリップストリーム圏内にまで入っていた。
分かってはいたが、流石に速い…!
このままでは抜かれるのは時間の問題だろう。
私はひたすら耐えることしかできないのか…!?
何か…何か打開策は…!!!
ッ!?
瀬名の視界に映っていた1本の水煙が、2本へと増える。
それすなわち、2台のうちのいずれかがマシンを横に移動させたことを意味する。
仕掛けたのは桑島正治。
トップを走っていた長谷部尚貴は長考中に隙を突かれ、横に並ばれてしまう。
横に並んだことでスリップストリームの効果が切れ、2台はわずかに失速する。
一方瀬名はスリップストリームの恩恵を存分に受けることができる。
2台の後ろにピッタリ張り付く。
現時点でのスピードは瀬名の方が少しではあるが速い。
このままではぶつかる…と思ったその時。
瀬名はハンドルを右に切り、桑島の右に並びかける。
スリーワイドのままホームストレートを駆け抜けてゆく。
このまま入ればインコースの瀬名が有利。
1コーナー、ブレーキング。
いつか見たように、瀬名はブレーキングを少し遅らせた。
時間にして、ほんの0.05秒。
だが、それで充分だった。
ブレーキングで完全に前に出ると、できる限り外側からコーナーに入るためにハンドルを目一杯左に切る。
そのまま、アウト・イン・アウトのラインで1コーナーを駆け抜けていく。
前に出た。
完全に前に出た。
あとは、逃げるだけだ。