吉夢
「お疲れ。次のスティント、星野先生と可偉斗さんには3時間ずつ走ってもらうから合わせて6時間。寝てていいぞ」
無線を亜紀に代わった琢磨が労いの言葉をかける。
「了解。この椅子、奥に持ってっていいか?」
「待て。オレが持ってく。」
瀬名の体力を少しでも温存しようと、琢磨はリクライニング機能の付いたゲーミングチェアを持ち上げた。
「今、先頭との差はどれくらいなんだ?」
椅子を抱きかかえる琢磨の横をゆっくり歩く瀬名が問う。
「35秒。残り時間を考えれば全然巻き返しができる位置ではあるよ。」
「そうか。…雨さえ降ってくれればな…。」
空は快晴である。
ここ、富士スピードウェイの照明が届かない場所に移動すれば、満天の星空を見ることができるだろう。
「予報でも明日は全部晴れ。おまけに気温もこの時期にしてはだいぶ高い。」
瀬名はピットガレージ内に置いてあったスマホを手に取り、明日の天候をチェックする。
気温が高ければ、その分タイヤがよくグリップする。
雨天時などのローグリップの状況を好む瀬名からすると、厳しい条件だ。
「…この辺でいいか?」
「ああ。ありがとな。」
「ゆっくり休めよ。」
ピットガレージ奥の一室に、椅子を置くと琢磨は去っていった。
その姿を見送ると、瀬名は椅子にドカッと勢いよく座る。
ギギッときしむ音が部屋に響いた。
耳にイヤホンをはめ、ヒーリングミュージックを再生する。
背もたれを倒し、目を閉じる。
「やあ、瀬名。久しぶりだね。」
「京一さん…!?歩けて…ッ回復したんですか!?」
病室に入ると、京一がこちらに涼しい顔でスタスタと歩いてくる。
肌の色艶や、顔色も以前よりもだいぶ良いように思える。
まるで自動車部で一緒に過ごしていた時のように。
「ちょっとそっちは苦労してるみたいだね。」
「…?何のことですか?」
辺りの景色が急に変わる。
光岡大のガレージ内。
だが、いつもここに置いてあったマシンや工具類は何もなく。
殺風景とも言えるような景色だ。
「キミには僕の全てを教えた。」
後ろから声がして振り返ると、そこには久しく見ていなかった作業服姿の京一。
「そして、今キミは確実に僕よりも速い。この病気が無かったとしてもね。」
また、景色が変わる。
ここはスポーツランド信州だろうか。
かつて共に軽耐久レースを戦った場所だ。
見渡す限り何もない。
ただ、コースのみがそこに存在している。
「こっちこっち。」
そのコース上に、レーシングスーツを着た京一が立っている。
その声にひかれて、瀬名もコース上に歩いていく。
「キミの実力はすでにプロでも戦える…というかもう上位クラスだよ。」
「でも…」
「でも、何かがひと味足りないと思っている。」
今度は富士スピードウェイのホームストレートに移動している。
二人の目の前には、S耐を戦っている瀬名のフィットがある。
見た目はほとんど同じ。
だが、マシン上部に刻まれた『For Kyoichi』の文字が『For Sena』へと変化している。
「乗って。走るよ。」
瀬名と京一はいつの間にかヘルメットを被っていた。
京一が運転席、瀬名が助手席に乗り込み、マシンが発進する。
不思議な感覚だ。
「亜紀とは仲良くやってる?」
京一が横で話しているし、その内容も集中してよく聞いている。
なのに、マシンの動きや路面状況のフィードバックが、普段運転しているときよりも明確に伝わってくる。
瀬名はこれまで二つのことを同時に、これほどまで集中してこなせたことは無い。
当たり障りのない会話をしながら、コースを周回する。
一周、二周と、とても時間が早く流れる感じがした。
そして、とても寂しいような、それでいて全く悲壮感や辛さは感じないような。
とても独特な雰囲気が辺りを包み込んでいた。
五周ほどコースを回った。
京一はコントロールライン上にマシンを停める。
「分かったよね?」
何が分かったのかは分からない。
けれど、何かが分かった気がする。
きっと、確かに何かが分かった。
気づいたときには瀬名は首を縦に振っていた。
「よし。ならもう大丈夫だね。」
そう言うと京一は瀬名の顔を覗き込み。
少し寂しそうな表情をしながら瀬名の額を中指で弾いた。
「じゃ、また今度。僕もやれることはやるよ。」
辺りは何もない、白く輝く空間になっていた。
京一はこちらに手を振りながらまばゆい光に呑まれていく。
瀬名も、笑顔で手を振り返していた。
「…な。おい、瀬名。」
ピットガレージ奥の部屋に琢磨の声が響く。
「起きたか。そろそろ出番だ。準備してくれ」
瀬名はその言葉を理解するのに少々時間を要した。
時計を見ると、針は午前5時13分を指している。
「ああ。すぐに行く。」
「二度寝するなよ。」
そう言うと琢磨は部屋から出て行った。
それを確認して、瀬名は背もたれを起こす。
自らの両手に目線を移し、握ったり開いたりしてみる。
先ほどまでのおかしな感覚はもうない。
「夢か…。」
瀬名はゆっくり立ち上がると、両手で自分の両頬を叩く。
「さ、気合入れていくか。」
その表情は少し穏やかで、リフレッシュできたように見えた。