赤熱
レース開始から30分が経った。
トップ3台の順位は2周目以降変わっていない。
3台全てが1秒差以内に固まり、トップグループを形成している。
4位以下は大きく離れ、前半戦の勝負はこの3台に絞られた。
このまま膠着状態が続くかと思われた。
しかし。
15時36分、周回数で言えば17周目。
状況が動き出す。
『ホームストレートでクラッシュ発生!セーフティーカーが入るぞ!』
レースにおいて通常のイエローフラッグやFCYでは危険と判断される特に大きなクラッシュやアクシデントが起きた際、セーフティーカーをコースに投入し、レースマシンを先導させる『セーフティーカーラン』が行われる。
FCYと比べても全体のペースはガタッと落ちるため、後続のマシンとの差も縮まりやすい。
「クラッシュの程度を教えてくれ。赤旗になりそうなレベルか?」
セーフティーカーランを導入しても状況が一定時間変わらない場合、事故後の処理の効率化を図るためにレッドフラッグを出してレースを一時中断する。
現在コースの反対側にいる瀬名たちからは状況が分からない。
ピットから身を乗り出して、琢磨が直接状況を確認する。
「上位クラスのマシンが下位クラスを追い抜こうとしたっぽいな。横に並んだ時のタービュランスでバランスを崩したんだろう。」
高速で走行するマシンの周囲には、複雑な乱気流が発生する。
時速200キロを超える領域での空気の力は、我々が普段感じるそれとは別次元のパワーを持つ。
1トンの金属の塊である自動車でさえ、バランスを崩しその力に抗えない。
「パーツがコースの幅いっぱいに散らばってる。これはもしかすると…」
琢磨がコントロールライン脇の一段高い場所にいる旗手に目をやると。
「やっぱりだ、赤旗が出たぞ!多分グリッドに待機することになるからそのまま徐行しててくれ。」
『OK、Copy!』
レースが一時中断する。
琢磨は自分の席に戻り、一息つく。
「クラッシュしたレーサーさんには悪いが、こちらとしては休憩できる。少なくとも悪影響はなさそうだ。」
自らの目で、事故を起こしたマシンから自力でレーサーが出てくるのを見届けた。
これで一安心だ。
赤旗が出たことによってマシンたちも着々とグリッドに戻ってくる。
その中にはもちろん、瀬名のマシンの姿もあった。
『先頭の景色はどうだ?瀬名。』
「最高だぜ。特にこのコースはホームストレートの爽快感がヤベ―な!」
若干興奮しながら瀬名は言う。
「ただ、後ろの2台のプレッシャーもヤベ―。なあ、バックミラー捥いでいいか?」
『ダメに決まってんだろ』
瀬名のバックミラーには、常に大きく2台の影が映っていた。
近年はバックミラーがモニターになっているクルマも街中で見かけるようになったが、もしこのフィットもそうだったとしたら画面焼けを起こしているだろう。
そう思えるほどに、不気味なほどにピッタリと張り付いてくる。
「逃がさん…少なくとも路面が乾いているうちはな…」
「もう一度、前に出る…!」
今一度グリッドに停車し、一時休戦のはずなのだが…。
3人の闘争心は留まるところを知らず。
アクセルを踏まずとも前へ前へと進みだしそうだ。
『なあ瀬名、明日の夕飯は何がいい?レースが終わった後のさ。』
その3台が演じる不動の争いに横やりを入れたのは琢磨だった。
「は?今それ関係ねーだろ」
『いいから、答えろ。何食いたい?』
5秒ばかりの静寂が流れる。
「…居酒屋に行きたい。松田さんと約束した、あの居酒屋に。」
「よし分かった!勝ったら奢ってやるよ。」
『マジか!ぜってー勝つわ』
これは琢磨の戦略だった。
あえて一度集中力を切らせ、リフレッシュさせる。
瀬名はスタート時に力を発揮するのが上手い。
逆を言えば、長く力を発揮し続けることは難しいのだ。
それを分かっていてのこの作戦である。
ちなみに瀬名と琢磨は今年の5月に誕生日を迎えているため、お酒が飲める。
ハンドルキーパーを誰がやるかの争いは、レース後も激化しそうだ。
「よし、赤旗が解除された。もう一度セーフティーカーランの後、レース再開だぞ。切り替えていけよ!」
「おう!Copy!!!」
ゆっくりと、各車が動き出す。
スタート時のように、蛇行運転をしながらコースを1周回る。
セーフティーカーがピットに入り、再スタート。
特にミスをしたマシンは無く、順調な滑り出しに思えた。
瀬名はスタート時に、油断している相手の隙を突いてトップを奪取した。
しかし今、そのことが頭の中で薄れ始めていた。
というよりも、長く1位に居続けたことで『勝てる』という慢心に繋がっていたという方が正しいだろう。
琢磨の『リフレッシュさせる』という作戦が裏目に出た、危機感の欠如。
車列から2台のマシンが横に逸れる。
「ブレーキングが甘い!イケる!!!」
「油断大敵、ですよ。瀬名くん…!」
1コーナー、ブレーキング。
安定を取ろうと少し早めにブレーキを踏んだ瀬名。
横に逸れた2台のマシンが仕掛ける。
『ギャリギャリギャリギャリ…!!!』
赤熱したブレーキの悲鳴が響く。
瀬名の内側に長谷部が。
そのさらに内側に桑島が、マシンの鼻先を潜り込ませる。
3台横並びではコース上にもう居場所はなく。
コーナー立ち上がりで瀬名のマシンはズルズルと後退。
依然として横並びの2台。
その争いからはじき出されたのは今までずっとトップを守り抜いてきた伏見瀬名。
光岡大、首位陥落。