常識
「こちら瀬名。無線聞こえてる?どうぞ」
『問題ないよ。どうぞー』
スタート5分前。
セーフティーカーを先頭に各車がずらりと並んでいる。
瀬名は無線の確認をした後、目を閉じて精神を統一する。
すると、左斜め前から『ヴォン…ヴォン…!』とエンジン音が聞こえてきた。
何事かと音のした方に目線をやると、ポールポジションの長谷部尚貴がこちらを向いてサムズアップしていた。
『楽しみましょう』というサインだろう。
それを見た瀬名は、返答としてアクセルを目一杯踏んで空ぶかしをする。
レッドゾーン付近まで全開で回すと、グランドスタンドからどよめきが起こる。
『おい瀬名。燃料がもったいねーからそれはやめとけ』
「へーいすんませーん」
お叱りを受けてしまった。
「さて、集中しますかね。」
もう一度目を閉じ、頭の中を整理する。
必要な情報とそうでない情報を取捨選択し、視界は闇に落ちていく。
暗く、さらに暗く。
最終的に達するのは無の世界。
無?無ってなんだ?
宇宙が始まる前は無だったとか、死んだら無になるとか…。
死んだら…死んだら、か。
『スタート1分前だ、瀬名。そろそろ起きとけよ。』
「別に寝てるわけじゃねえんだよ…。」
瀬名はゆっくりと目を開く。
「気持ちは整った。勝ちに行くぞ。」
『もちろんそのつもりだ。サポートは任せろよ』
全車エンジンには既に火が灯っている。
スタートの時間だ。
フォーメンションラップ、各車蛇行運転でタイヤを温める。
「なあ琢磨、こうやって蛇行運転でハンドルを左右にしてると心休まるんだが俺だけかな」
『重症だなお前』
笑いながら琢磨は返す。
『絶対に公道でやるなよ?フリじゃねえからな?』
「流石にそれは無いから安心しろ」
緊張もほぐれて、少々余裕が出てきたようだ。
最終コーナーを立ち上がり、ゆっくりとおよそ1.5キロの長さを誇るホームストレートに入る。
『セーフティーカーがピットに入った。始まるぞ。』
「Copy。準備はできてる。」
アクセルを踏む右足に全神経を集中させる。
そして目線はコントロールライン上にあるシグナルを凝視。
一列、また一列と赤いランプが点いていく。
最後の一列が点いたとき、会場の熱気とドライバーの緊張は最高潮に達する。
そして次の瞬間、全てのランプは消える。
スタートを意味するその消灯に合わせて、日本各地から集まったマシンたちが一斉に解き放たれるのだ。
今、途轍もなく濃密で、様々な人物の様々な感情が渦巻く24時間が始まった。
スタート直後というのは、動乱に乗じて追い抜く、追い抜かれるといったことが一番起こりやすい時間帯である。
下位にいるチームやドライバーが大幅に順位を上げるためにはこの時間を使わない手は無い。
逆に、上位のチームはこの時間帯を守り抜けばとりあえずは安寧を手にすることができる。
特にトップスリーなどはこの時間は安定を取り、後半で勝負をするのが王道だ。
そのはずだった。
いたのだ。
常識が通じない者が一人。
全車スリップストリームを使うべく車列は整然と一列に並んでいる。
その中でただ一台だけ、横に逸れた者がいた。
オープニングラップの1コーナー。
ブレーキングで伏見瀬名が仕掛ける。
「ウソでしょう…!?」
「おいおいおいおい…!」
下手すれば開始10秒でリタイアになりかねない行為。
『お前ならミスらんさ。なあ、瀬名。』
「当たり前だろ。何回ここを走ってると思ってんだ?」
走行回数は本当の意味でThousand timesを超えているだろう。
完璧なブレーキングポイントで、マシンの鼻先をイン側に捻じ込む。
「かつて正治は抜かれました。でも…私は一筋縄ではいきませんよ…!」
長谷部も外側で粘る。
両者横並びのままコーナーを脱出。
次のコーナーは左。
インとアウトが逆転し、今度は長谷部が有利なポジションに立つ。
「ここを耐えれば私が前に行けるはず…!」
長谷部も熱くなっている。
だが少々、熱くなり過ぎたのかもしれない。
左コーナーの進入でほんの0.05秒、ブレーキタイミングが遅れた。
これにより、わずかながらオーバースピードでの進入を余儀なくされる。
ブレーキングポイントが遅れたことにより、長谷部のマシンが前に出る。
長谷部がわずかに先にコーナーに突っ込むが、スピードが高すぎるが故に脱出で外に膨らむ。
一方、しっかりと減速を行った瀬名は脱出重視のラインを取る。
一瞬長谷部の真後ろを通過し…。
ラインが、クロスする。
脱出の速度は瀬名が上。
外側に膨らんだ長谷部を横目に、瀬名がもう一度横に並ぶ。
この時点での両車のスピード差は10キロにも上っていた。
ゆっくりと、でも確実に瀬名のマシンが前に出てゆく。
その次に待ち構える右の高速コーナーを曲がりながら、完全に前に出た。
伏見瀬名、1周目にしてオーバーテイク完了。
レースの主導権を握る。