絵心
ピピピピッ!ピピピピッ!!!
「…朝か。」
早朝6時、ホテルの一室に目覚まし時計の音が鳴り響く。
「…瀬名くん、何をどうしたらその寝癖がつくの???」
「丸まったハリネズミかと思った」
寝起きでポワポワしている、というのは意識の話ではない。
物理的に頭がポワポワしている。
「…風呂行ってくる」
「その頭で外出んの!?!?」
ロビーと同じ階層にある大浴場に向かおうとした瀬名だったが、流石に頭を直してから行けと指摘が入った。
「琢磨…髪整えてくれ…」
洗面所から櫛を持ってきた瀬名が、琢磨のベッドの前に座った。
「自分でやんなさいよ…」
そう言いながらもなんだかんだ言う通りにしてしまう琢磨。
「硬った!お前の髪はハリガネか?」
「粉落としだよ…。」
「ラーメンの硬さの話してねえよ」
二人の掛け合いを横から見ていた亜紀は、心底羨ましそうに。
「いいなー。琢磨くん私よりも瀬名くんの恋人向いてるよ」
「いいえ、お断りします」
「ひでぇな…」
午前9時。
ピットガレージ内から金属音やモーターの駆動音が聞こえるようになってきた。
グランドスタンドを見てみてもまだ観客は少なく、作業をしているクルーの声が聞き取りやすい。
「瀬名、瞑想中すまんがちょっと手伝ってくれんか?」
「…。」
椅子に座り、目を閉じている瀬名に可偉斗が声を掛けるが…
「おーい?」
返事がない。
「可偉斗さん、多分コイツ寝てるっす。少々お待ちを…」
琢磨はそう言うと、おもむろに瀬名の耳元に口を寄せた。
目を閉じ、ゆっくりと息を吸うと…。
「ッスゥー…わッ!!!!!!」
「わァ!!!!!!」
瀬名、横転。
それを見て琢磨はゲラゲラ笑っている。
「お前さあ!鼓膜破れたらどうすんの!!!無線聞こえなくなっちゃうでしょうが!!!」
琢磨は顔の前で『イヤイヤ』と手を振り。
「破れない破れない。ほら、作業呼ばれてんぞ」
瀬名の手を引っ張り、起こす。
二人はマシンの方へ歩きだした。
「調子は?」
「良いよ。とりあえず第1スティントはトップでバトンを繋ぐさ。」
「簡単そうに言うなぁ。信じるぜ?」
「ああ、二言はねえ。」
エアジャッキで持ち上がった車体に手を置き、屋根に刻まれた『For Kyoichi』の文字を眺めながら。
「勝つさ。」
もう、これしかやれることはないのだ。
「お、瀬名くんから『本日はよろしくお願いします!』ってメールが来てる」
「それ私にも来てましたよ。良い子ですよね、ホントに」
ピットガレージの外、ピットレーンで談笑する二人がいる。
人手不足からレーサーもメカニックとして働かなければならない光岡大と違い、名門チームの二人は時間にも余裕がある。
「しかし…初めて会った時にこんなことになるなんて思いましたか?」
「全く。長生きはしてみるもんだね」
「貴方まだ30代でしょう?」
30代で長生きっていつの時代だよ、というツッコミは置いておいて。
「開幕戦は完全に俺らの負けだ。油断云々じゃなく、実力的にもな。」
「今日、明日の天気は晴れの予報です。開幕戦の時のようなオーバーテイクが見られないというのは、残念なようなホッとしたような…」
空は雲一つない快晴で、淡い水色が一面に広がっている。
「とにかく、最初から全開で行きましょう。」
「だな、三つ巴のバトルってのは久しぶりかもしれん。楽しむぞ。」
「ご武運を」
「うい」
両者は拳を合わせると、それぞれのピットへ戻っていった。
「これでレース前の作業は全部終わりか。」
「どうか、最後まで走り切ってくれますよーに!!!」
マシンに懇願するように、瀬名は顔の前で手を合わせた。
それを見た他のメンバーも真似して祈る。
「あ、あとそうだった。」
瀬名がガレージ奥の壁に向かってタタタッと走る。
「おまえも、できたらでイイからヨロシクな。」
そう言って壁に掛けられた琢磨作の逆さまてるてる坊主をつつく。
「琢磨、お前絵心あるな。めっちゃ可愛いじゃん」
「てるてる坊主に絵心もクソもあるかよ。さあ、マシン出すぞ」
少し耳を赤くして照れながら琢磨はマシンの方へ戻っていった。
瀬名もてるてる坊主に手を振り、その後を追う。
椅子に引っ掛けてあったヘルメットを小脇に抱え、琢磨に追いついたところで被る。
今日のレース前の練習走行は瀬名が走ることになった。
少しでもエースに練習時間を…とのこと。
ジャッキを降ろし、ボンネットを閉める。
車内に瀬名が乗り込み、シートベルトを琢磨に締めてもらう。
ガレージから出るところまでは後ろから押してもらい。
ピットロードまできたところでエンジンをかける。
レギュレーションの中で最大限チューンされたフィットの咆哮は、今やレーシングカーとなんの遜色もない。
ピットロードから走り去っていくその姿には、観衆の期待すら乗せられている気がした。