早朝
季節が過ぎ去るのはとても早い。
みんなで戦った軽耐久レースが昨日のように感じる。
実際にはもう1年以上も昔のことだ。
僕が病に伏したのはあの後すぐだった。
世の中にはお金じゃ買えない大事なものがいっぱいある。
当たり前だと思っていたことが次々とネジ曲がっていく。
窓から差す光が眩しくて、目を覚ます。
もう朝か。
僕はあと何回朝を迎えられるのだろうか。
…いや、そうじゃないな。
逝ってもいいと思うまで、死んでなんかやるもんか。
11月7日。
今日は24時間レースの予選日だ。
「…頑張れよ。みんなも。」
声は出ないが、そう呟いた。
口、鼻に酸素マスクを被せられ、身動き一つ取れない僕だけど。
祈ることしかできないのなら、祈ればいい。
僕は右手の手のひらに乗せられた、瀬名からもらったお守りを強く握り込んだ。
午前8時、富士スピードウェイ。
予選に向けた準備が着々と進んでいる。
「明日、明後日の天気ってどうなってる?」
「めっちゃ晴れだな」
「めっちゃ晴れかー…」
瀬名が得意とする雨のレースにはならなそうだ。
「そんなことを話してる場合じゃないぞ、瀬名。明日より今日、予選の準備をしておけよ。」
そう星野に言われ、やっとこさ瀬名はレーシングスーツに袖を通す。
今回のレースも開幕戦と同様、予選では2名のドライバーが走ることになる。
今回選出されたのは可偉斗と瀬名。
この2人の合算タイムでスターティンググリッドが決まる。
と、そこでガレージの半開きになったシャッターがコンコンとノックされる。
瀬名が応答するためガラガラとシャッターを開けると、見慣れた二人の顔がそこにはあった。
「よう、瀬名くん。」
桑島と長谷部。
この二人にもよくお世話になったものだ。
「ウォーミングアップにサーキット1周ランニング、ご一緒しませんか?」
富士スピードウェイの全長はおよそ4.5キロ。
ランニングには丁度いい距離だ。
瀬名は快諾し、三人横並びでピットロードを出ていく。
心拍数もあまり上げない、ゆったりとしたランニング。
瀬名は片耳にイヤホンを突っ込み、音楽を聴きながら会話に参加していた。
「調子はどうですか?」
「いや~、まあぼちぼちっすかね」
「今日はまだいいが、レース本番は体調にだけは気を付けろよ。24時間戦い続けるっていうのは、生半可な体力と覚悟じゃできないぞ。」
桑島は笑いながらではあるものの、心底その通りであるように語った。
「『オレたちを倒せ』とは言ったが、あくまでこれは耐久レース。完走を第一に考えろ。」
「攻めすぎて途中で散る、というのが耐久レースで最もやってはいけない行為ですからね。」
「肝に銘じます。」
ランニングもコース後半に差し掛かってきた。
ここからは上り坂が続く、少々キツいコースになっている。
「…私たちは片山京一さんに会ってきたんです。」
少しの間流れていた沈黙を破って、長谷部がそう切り出す。
「えっ!本当ですか?いつの間に…」
「キミたちともニアミスしてたみたいだよ。彼、『忘れ物を取りに来たのかと思いました』って言ってたもん」
「礼儀正しくて良い子でしたよ。」
笑みを浮かべて長谷部は言うが、その笑みは次第に消える。
「貴方たちは…余命のことを彼の前では話していないんですよね?」
その言葉を受けて瀬名も真剣な表情で。
「はい。希望を失ってほしくなくて。」
「彼は自分の死期を悟っていました。長くとも今月中には…とのことです。」
瀬名としても考えたくはなかった。
ここ一ヵ月ほどはお見舞いにも行けていない。
どんどん弱っていく京一さんを見たくなくて。
見舞いに行くたびに見せてくれる彼のチャームポイントの笑顔も、引きつって見えて仕方がなかった。
身近な人がいなくなってしまうというのは悲しく、そして怖い。
瀬名は幼い頃、母親を亡くしている。
交差点を突っ切って歩道へ乗り上げたトラックから、自分を守って。
もはやその当時の記憶は無いが、大切な人が一人、この世界から消えてしまったという喪失感と恐怖は、今も深層心理に根付いている。
「でも、『このレースは見届けるんだ』と言っていました。どうか、いいレースを見せてあげて欲しい。」
期待は度を過ぎるとプレッシャーとなり足かせになる。
しかし、この言葉にプレッシャーは含まれていなかった。
京一の純粋な瀬名を想う気持ち。
そして、彼もまた自らの夢を瀬名に託したのだろう。