アイルトン
夏の早朝の空気というのは、どうしてあんなにも清々しいのだろうか。
湿気も感じず、暑さも控えめ。
そんな空気を全身で感じようと、ホテルの露天風呂へ向かう男が一人。
早朝4時に起床済みの瀬名である。
現在時刻は午前5時。
夏の陽はもうすでに顔を出している。
ちなみに、瀬名と添い寝していた亜紀はいまだに爆睡中である。
瀬名が自主的に起きなければどうするつもりだったのだろうか。
「ふぃ~」
瀬名はボディタオルを頭に乗せて一息つく。
この早朝に露天風呂を利用する客はおらず、貸し切り状態となっていた。
瀬名は周りに人がいないことを確認すると、湯舟に肩まで浸かって手を握ったり開いたりを繰り返す。
これは彼が自宅の浴槽でいつもやっている簡単な握力トレーニングだ。
人が大勢いる旅先の風呂では周りの視線を気にしてしまうが、今ならできると判断した。
彼は星野に負けてからというもの、ひたすらストイックに自分を追い込んでいる。
思えば、亜紀のハートを射止めたのもそこだった。
両手200回ずつ開閉を繰り返したのち、湯舟から出て脱衣所へ向かう。
服を着て、テントへの帰り道。
ホテルのロビーに展示されている一台のF1マシンが彼の目に留まった。
「1989年・マクラーレンホンダMP4/5…アイルトン・セナ。」
自らと同じ名を冠する伝説のドライバーが搭乗したマシン。
かつて音速の貴公子と呼ばれたそのドライバーに思いをはせる。
アイルトンは自分が生まれた時には既にこの世にいなかった。
それでも今もこうして伝説として語り継がれている。
「俺はあんたみたいに忘れられないドライバーになるよ。同じ名前を貰ったときから、それは決定事項だ。」
白とオレンジのマシン、その空っぽのコックピットに向かって宣言する。
「俺は音速の貴公子を超える者、伏見瀬名だ。」
テントに戻ると、仲間たちはまだ眠っていた。
「おっ。これはチャンス」
瀬名はリュックの中をゴソゴソとまさぐり、小さなシンバルを取り出す。
「このためだけに持ってきたからね。」
この男、余計なものを持ってくる能力は琢磨とあまり変わらないのではないだろうか。
辺りに『ジャーーーン!!!』と安っぽい爆音が響く。
「!?!?」
「なんだァ!?」
「敵襲か!?!?」
「京一さん敵襲って何!?」
全員が飛び起きる。
「おはよう!!朝だよ!!!」
その瀬名の言葉と手に持ったシンバルを見て、真っ先に状況を把握した琢磨がベッドから飛び出して瀬名に飛び掛かる。
「テメェふざけんなよ…オレの快眠を邪魔しやがって…!」
琢磨は睡眠の質が点数化されるアプリを使用している。
点数ダダ下がりである。
「待って、絞まってる。絞まって…」
消え入りそうな声で瀬名が琢磨の腕をバンバン叩く。
彼の腕には別の怨念も篭もっていそうだが。
瀬名は力なく倒れ込み、やっと手を離した琢磨の腕を京一が持ち上げる。
格闘技のジャッジのように。
「勝者、TAKUMA…SAGAWA!!!」
「言うてる場合か」
悪ふざけをする子供たちをお父さんがペシっとはたく。
「大丈夫か、瀬名。そしてふざけるな、瀬名。」
「はいすみません」
せき込みながら応答する瀬名。
反省してほしい。
「で、今日はどうするんでしたっけ」
「特には考えてないな。またカートでもやるか?」
朝食を食べながら本日の作戦会議中である。
「それならモトレーサーやりません?」
モトレーサーというのは、バイクのアクティビティだ。
タイムアタックをして、ベストタイムに対応した種類のライセンスが貰える。
「え?あれって子供向けじゃないの?」
確かにモトレーサーは小学3年生から遊べる、小さなバイクを運転するアクティビティとなっている。
「ところがどっこい、案外奥が深いんですよ。Sライセンスとかけっこうムズいですし」
瀬名は小学生の時に一度もてぎに来ている。
その時は身長制限でカートに乗れず、狂ったようにモトレーサーに乗っていた。
「俺はAライセンスまでしか取れてないんですよ。そのリベンジがしたいんです」
持ち前の負けず嫌いを発揮する瀬名。
一行はモトレーサーの乗り場へ向かうことにした。
「あ~れ~~~」
「京一さーん!!!」
「京一…イイ奴だったよ…」
コース前半のヘアピンカーブでイン側を攻めすぎた京一が、面白いくらい綺麗に後に続く仲間の視界から消えていった。
「瀬名!確かにこれ面白いな!!」
「でしょ!!俺もうコース覚えてますもん!!!」
このバイクはモーターで駆動しており静かなため、大声を出せば前後の人間と会話することも可能だ。
最高時速は15キロほど。
素人でも落ち着いてラインを攻められる丁度いい速度だ。
「それにしても可偉斗さん、身体とバイクの大きさ違いすぎますね」
「じゃかあしいわ。お前も似たようなもんだろ」
自動車部の中でもひと際体が大きい可偉斗は、脚が若干窮屈そうだ。
「さて、アタックラップだ。集中するぞ…!」
このアトラクションは1回あたり3周し、2周目でタイム計測をする。
最初のS字カーブを抜け、一番ブレーキを要するヘアピンへ。
「怖がるな…思いっきり体を倒す…!」
瀬名は膝が地面にくっつきそうな勢いで車体を倒す。
バイクのレースではどれだけ体を倒せるかが勝負と言っても過言ではない。
1周200メートルの短いコース、すぐに次のコーナー、また次のコーナーが現れる。
そうこうしているうちに最終コーナーを立ち上がり、コントロールラインを通過。
Sライセンス基準タイムは35秒999まで。
前回来場時の瀬名のベストタイムは36秒846だった。
コース脇に建てられたリーダーボード(タイムが表示される看板)に視線を移す。
34秒165。
「あれ、思ってたよりも楽勝だった。」
若干の拍子抜け感を感じつつも、幼い頃の自分に確実に勝ったのだ。
自分は成長できる。これまでも、これからも。
そう思うことができた。