最終戦
『『ピットより瀬名へ。聞こえてるかい?』』
閉じていた瞼が、ゆっくりと開かれる。
辺りは、昼間かと見紛うほど明るい。
照明に照らされたホームストレート。
ただ、スタートを待つ観客たち。
そして、今瀬名がいるのはグリッドの一番前。
真正面に見えるのは、自分のマシンのヘイローのみ。
「『…問題ありません。』」
いつも以上に低く、威厳のある返答に聞こえた。
その声を聞いてピット陣にも緊張感が漂う。
『『今日はキミにとってスペシャルな人にもピットに来てもらってるんだ。』』
瀬名の眉がピクッと動く。
無線から、ヘッドセットを誰かに渡しているであろう雑音が聞こえてくる。
『よう。なんか喋るの久々じゃねえか?瀬名。』
突然聞こえてきた日本語は、瀬名が最もよく知っている声色だった。
『オレに『F1のピットにはお前が必要だ』とか言っておきながら、ドライバー同士で楽しく交流しやがって、羨ましいぜ』
「それはマジですまん、琢磨。もう少し時間を取るべきだった…」
『冗談だ、バカ。オレはそんな面倒くさい彼女じゃねえ。』
琢磨は一呼吸置くと、瀬名に語りかける。
『こう言っちゃなんだが…お前、よくここまで来たな。少しは世界を騒がせるだろうとは思っちゃいたが、まさかここまでとは…』
「レース人生の最期だ、こんくらいやらなきゃ楽しくねえだろ」
『…フッ。そうだな。』
そして、最後にこう締めくくる。
『お前の人生最後にして最高、そして最大の舞台だ。持てる全てを出し切れ。』
「了解。」
『オイ、返事が違うぞ。レース用語使って、カッコつけんのがお前だろ』
「…あーね。…Copy。」
その返事を聞いて琢磨は満足げにヘッドセットに手をかける。
『よし。悔いのないようにな。』
その返事を聞くこともなく、琢磨は無線をチーム監督に手渡した。
『『では、今回の戦略を説明する。』』
舞台はアブダビ、ヤス・マリーナサーキット。
全長5281メートルのコースを、58周で戦う。
瀬名やフェラーリ勢はハードタイヤスタート。
ルイスと周はソフトタイヤスタートの戦略である。
『『29周目でピットインの指示を出す。それまではソフトタイヤ勢が前に行くだろうから、無理にブロックしなくていい。』』
前半スティントで有利となるルイスたちソフト組。
あわよくば周がルイスの足止めをしてくれれば…。
「『彼の手助けは『あったらいいな』ぐらいに考えておきます。性格的に期待できなさそうなので』」
『『すまないな。ワールドチャンピオンが懸かってるというのに…』』
一度抜かれた後、後半セクションで畳みかける。
最終ラップの最終コーナーを立ち上がるまで、勝負は分からない。
「『いずれにせよ、俺らの運命は二時間後には決まってます。それまで全力で頑張るだけって考えたら、楽なもんですよ』」
各車のエンジンに、続々と火が灯っていく。
フォーメーションラップを終え、今一度グリッドに着く。
スタートシグナルも、この位置が一番よく見える。
先頭で走るのは嫌なものだ。
世界で最も速い19人を後ろに引き連れ、そのプレッシャーに耐え続けなければならない。
最初はとっととルイスに行ってもらって、その後ろで彼のラインをなぞるように走ろう。
シグナルが、一列ずつ灯っていく。
最後の1つが灯り、消えた。
その瞬間、空間が歪むかのような轟音が、アブダビの地にこだました。
『『各車綺麗にスタートを決めた…が、ジャンニルクレールが少し遅れているか!?』』
ジャンニの反応速度が、他の四台に対して0.05秒ほど遅い。
『『すかさず周冠英がポジションアップ!三番手に上がります!!!』』
ソフトタイヤは絶対的なグリップ力が高いため、スタートでも有利になる。
周とルイスがロケットスタートを決める。
二台が瀬名まで喰おうと追いすがるも、すぐに1コーナーへのブレーキングが始まる。
コーナリングスピードは当然、ソフトタイヤ勢の方が速い。
しかし、ルイスがインに滑り込むほどのスペースはもうなかった。
同じようにして最初の2周は瀬名が抑えきることになる。
そして、DRSが解放される3周目。
ルイスが動く。
セクター2、コース内最長のロングストレート。
DRSゾーンに、トップグループが入っていく。
「『Activate the DRS.』」
黒鳥が、翼を広げる。
追突寸前までスリップストリームに入ったまま。
瀬名との距離が10センチを切った段階で横にマシンを振る。
DRSとスリップストリームが掛け合わさり、二台のスピード差は20キロを超えていた。
ルイスは楽々、オーバーテイクを成功する。
そして。
「『…激活的DRS。』」
ルイスに追随するようにして周もオーバーテイクへ。
並びかける際、周はマシンの中にいる瀬名を見つめていた。
瀬名は、抵抗しない。
自分にオーバーテイクされることに何の頓着もない。
それが、なんだか腹立たしかった。
周のノーズが先行する、その瞬間。
瀬名は周にむかって、右手の親指を立てた。
なんだ、その余裕は。
お前はワールドチャンピオンを懸けて戦ってるんじゃないのか。
周は気づく。
瀬名の目が、1時間半先の未来を見据えていることを。
自分が表彰台のどの位置に立っていようと、あるいは表彰台に立っていなかろうと。
1時間半後に笑えるような、そんなレースにしたいと思っていることを。
…ああ、そうかい。
初めてだよ。
オレがここまで他人に心揺さぶられたのは。