最後の授業
レース当日。
大きな山場を乗り越えた瀬名は、ホテルを出てサーキットへ向かう。
今日の決勝はトワイライトレース。
日没直前にレースが始まり、完全に陽が落ちたころにゴールする。
まだレースまでは時間がある。
サーキット周辺を散策しながら、気持ちを整えることにした。
ヤス・マリーナサーキットには小さな港が隣接している。
レースを見に来た富豪のプライベートボートやヨットなどが停泊していることが多い。
そんな港をボーッと流し見していると…。
「色んなボートがあるんだなぁ…あっジャンニさんだ。本当に色んな…ん?」
二度見、三度見。
自分の目に間違いがなければ、ボートの上でくつろぐジャンニ・ルクレールの姿が見えたような気がする。
「『あ!おーい、瀬名―!!!』」
間違いない。
ジャンニさんだ。
瀬名も声を張り上げて返答する。
「『何してるんですかそんなところでー!誰のボートですかそれ!!!』」
まさか人のボートに勝手に乗り込んでるわけじゃないだろうな。
「『大丈夫―!これぼくのだからー!!!』」
その大声を聞き、船の操縦席の方からこれまた見知った声をした男が一人出てくる。
「『…なにが『ぼくの』だ。これは私の船だぞ』」
「『マスクとサングラスしてるともはや誰かわかんないっすよ!カレルさんで合ってます???』」
「『…いかにも。』」
完全に不審者の装いのカレルだった。
「『瀬名もこっちおいでよ!ピザあるぜピザ』」
レースの当日だってのに、この人たちは自由だな。
「『こんな船持ってるなんて、やっぱりカレルさんも稼いでるんですね』」
「『…飛行機よりかは安いからな。ルイスは桁が違う』」
船に乗り込んだ瀬名は、ジャンニがくれたピザをつまみながら雑談に応じる。
「『…瀬名が今年稼いだ金は大切な人のために使うといい。我々は金なんか有り余っている。富豪ごっこをしたくなったら連絡をくれて構わんぞ』」
「『そうそう、余らせてても何の意味もないからね。子供ができたら連れてきなよ。可愛がってあげるからさ』」
船の中を物珍しそうに覗き込む瀬名に、2人は暖かい言葉をかけた。
「『…そうですね。いつか、そんなときが来るといいなぁ…いや、きっと来ますよね』」
なんだかしんみりしたムードになってしまった。
「『…ん。レース前に闘争心が下火になるのは良くない。』」
「『お、じゃあアレ行っとくか!』」
「『アレ?』」
ジャンニ先生の分かりやすいモータースポーツ講座
【レース前の気持ちの作り方編】
皆さんこんにちは。F1ドライバーのジャンニ・ルクレールです。
「『アレってコレですか…』」
瀬名、メンタルはパフォーマンスに直結するって話を昨日したばかりじゃないか!
これ、めっちゃ大事なんだぞ!
ちなみに、今回は特別講師にカレル・サインツさんをお呼びしております。
「『…どうも。』」
さて、カレルさん。
あなたはいつもレース前、どうやって気持ちを高めていますか?
「『…私の場合は音楽を聴くことが多いな。テンションが上がる、アップテンポな曲だ』」
えっ意外。
カレル、いつもテンションっていう概念がないぐらいダウナー系じゃん。
「『…ほっといてくれ』」
「『ジャンニ先生はいつもどうやってるんですか?』」
ぼくはねー、とにかく身体を動かしてるね。
何度もジャンプしてみたり、急に腕立てを始めてみたり。
身体を動かすと脳から何らかの物質が分泌されて気持ちが高まるんだよ。
「『先生とは思えないレベルのふんわり説明』」
「『…レース後半でペースが落ちるのはそのせいじゃないのか…?』」
カレル、それは違う。
ぼくは体力が切れてるんじゃなくて、集中力が続かないんだ☆
「『自慢げに言うことじゃないでしょ』」
とにかく自分に合った気持ちの高め方やテンションの上げ方を模索するべきだね。
「『すいません、俺今日でキャリア最終戦なんですけど。引退するんですけど。』」
…ごめん。
まあ、ぼくたちに教えられることはもうこのぐらいだ。
瀬名は強い。
この講座ももっと沢山やるつもりだったけど、結局2回きりだったしね。
あとはもう自分の力を信じて、実力を出し切ること。
それに尽きるんじゃないかな。
その100%を出し切るための講座が、今回の授業だったってわけ。
「『あー、でもそれだったら俺、いつもやってる事あるかもしれないです』」
ん?なになに?教えてよ。
「『瞑想するんです。今までお世話になってきた人たちや、友達のことを思い浮かべながら。そうすると心がスーッと透明になっていく感じがする。それと同時に思い浮かべた人たちが俺の力になってくれる気がするんです。』」
…なんだ。
もうできてるじゃんか。
じゃあ、今回の授業はここまでだね。
最後に、瀬名。
キミは免許皆伝だ。
これからは、キミが後輩たちに教えていくんだよ。
歩けなくなった後も、死ぬまでずっとね。
それがキミに与えられた使命なんだ。
選ばれし者ってのは大変だけど、とても名誉なことだ。
誇りを持って、この先も生きていくといいぞっ。
もう次回の『ジャンニ先生のモータースポーツ講座』はありません、最終回です。
お疲れ様、瀬名。
では、ばいちゃ。