スパ・ウェザー
ザーザーと降りしきる雨の音が響いている。
この時期の雨は、瀬名にとって慣れたものである。
今、日本は丁度梅雨であろう。
7月8日。
F1グランプリ第12戦。
ベルギー、スパ・フランコルシャン。
決勝レースの直前になっても、雨脚は弱まることはなかった。
「『今日もお前はポールポジションか…羨ましいぜ、全くな。』」
「『周も5番手じゃねえか。上々だよ』」
「『黙れェ。上から目線で喋んじゃねェ』」
あれから少しだけ喋るようになった、トヨタの2人。
彼らは雨から逃げるように、パーカーのフードを深くかぶってピットロードを足早に駆けていく。
このコース周辺は『スパ・ウェザー』と呼ばれる、目まぐるしく天候が変わりやすい地域となっている。
これから雨は上がるかもしれないし、強まるかもしれない。
とはいえ昨日の予選から降り続いているため、上がることはないだろうという予想が各地でなされている。
以前、レースに使うタイヤにはドライ路面用と雨用があるということを説明した。
F1などで使われるドライ用タイヤはスリックタイヤと呼ばれ、溝がない。
そのため、雨が降った場合は排水ができず滑ってしまう。
そこで使われるのが雨用タイヤなのであるが…。
F1では二種類の雨用タイヤが使われている。
比較的軽い雨の時に使われる『インターミディエイト』。
豪雨時に使われる『ヘビーウェット』。
だが、近年のF1でヘビーウェットが使われることはほとんどないと言える。
なぜなら、レース走行が安全な範囲の雨であれば排水機能はインターミディエイトで事足りてしまうからである。
逆に、ヘビーウェットが必要となってくるような雨では、レースの継続自体が危険と判断され、レース中断を意味するレッドフラッグが振られるのだ。
この状況は実質的に雨用タイヤが一種類しかないのと変わらないとして、インターミディエイトの排水機能を落としてヘビーウェットの活躍の場を増やすようなことも議論されている。
今日のレースも、全車スタートタイヤにはインターミディエイトを選択。
戦略面で奇策を仕掛ける選手はおらず、純粋な速さでの勝負となる。
レースが始まると、瀬名はいきなりルイス以下後続を引き離しにかかる。
『雨のセナ』の本領発揮。
「『…速いな。ルイスがついていけていない。』」
ドライでは圧倒的なスピードを誇るルイス・ウィルソンであったが、実は雨はあまり得意ではない。
とは言っても、続くジャンニ、カレル、周を抑えるだけの速さは持ち合わせている。
状況的にはルイスが後続を抑え、瀬名を逃がしているようにも見えかねない。
後続がルイスに詰まっている間に、瀬名はどんどん離れていく。
5周目、状況が動く。
『『北西からデカい雨雲が接近してきてる。注意してくれ』』
「『Copy。』」
各チームに無線が入る。
雨雲レーダーの左上から、赤色の表示が迫ってきたのだ。
すぐに雨雲はコース上まで到達。
その割を食った者がいた。
「『くッ…無理だ…制御できない…!!!』」
コース前半の上り坂、高速コーナー『オールージュ』。
強まった雨脚と、スリップストリームに入っていることによるダウンフォースの低下。
それにより安定感を失った5番手、周冠英がスピンアウト。
壁にマシンがヒットし、パーツをまき散らしながらコース脇に停止。
『『周、身体は大丈夫?』』
「『ああ…だが…』」
周の目線の先には、イエローフラッグとSCの表示。
全体のペースが落ち、瀬名の築いたギャップが0に戻る。
「『瀬名にすまんと伝えてくれ。』」
「『周が謝るなんて、アイツ相当落ち込んでますね』」
『『彼はヘビーウェットに変えた方がいいとも言ってたが…どうする?』』
ピットと連絡を取る瀬名。
「『いや、このままで行きましょう』」
瀬名の脳内ではこんな展開が予想されていた。
今ピットに入り、タイヤを変えればその後の安定性は確かに高まるかもしれない。
だが、確実にポジションを落とすことになる。
そのタイミングでレース継続が危険と判断され、レース自体が中止されてしまえば、瀬名はピットに入り損となってしまう。
ここはインターミディエイトで耐えて、レースが中断されるのを待つしかない。
レッドフラッグを、待つしかない。
周のクラッシュによるセーフティーカーランが明けると、瀬名は今までと変わらないスピードで1コーナーに飛び込んで行った。
「『お帰り、周。』」
「『アイツは…?まだ入らないんですか?』」
救助され、オフィシャルカーに乗ってピットに帰ってきた周は、チーム監督に問う。
「『瀬名は、インターミディエイトで耐えるみたいだ。』」
「『アイツはバカなのか!?この雨で無事で済むはずがないでしょ!』」
「『…コレ、聞いてみろ。』」
監督は、無線が繋がっているヘッドセットを周に渡す。
そこから聞こえてきたエンジン音は、なんとも奇妙なものだった。
『ヴーン…ヴァヴァヴァヴァヴァヴァ』
「『なんだこの音…?マシンが壊れてるのか…?』」
「『違うよ。』」
エンジン音が非常に短いスパンで途切れて聞こえる。
「『これは…『セナ足』だ。』」
かつて、アイルトン・セナが得意とした技法。
右足を痙攣させるようにして、アクセルを高速で開閉。
そのペース、1秒間に6回。
エンジン回転数を上げてペースを向上させると共に、ホイールスピンを防ぐ。
往年の技術を、現代に舞い戻らせた。
2位以下は強まる雨にこらえきれずにピットイン。
その直後、レッドフラッグと共にレース終了が言い渡された。
瀬名は、耐えきったのだ。