ラスト2周
「『監督さん、ルイスとのギャップは?』」
『『…26秒…。瀬名、本当にこれは凄いことだぞ』』
レースは残り2周というところまで終了している。
あれから、ルイスはペースを落とした。
このレースは自分のものではないと、観念したかのようだった。
現状ルイスは3位グループと合流し、その集団は4台絡みとなっている。
集団になってしまっていることもペースダウンの要因だろう。
そして。
『ファステストラップ!!!瀬名が残り2周でまたファステストラップ!!!』
異常なまでのハイペースを記録し続ける瀬名。
ただ、ひたすら前へと進む。
その目は血走っており、大きく開かれている。
極度の興奮状態、ドライバーズ・ハイ。
獣のように各コーナーを抜けていく。
ハードブレーキを必要とするコーナーではタイヤをロックさせながら、白煙を上げながら抜けていく。
この状況は、あまり好ましいとは言えないかもしれない。
本来なら20数秒のギャップがあれば、ペースを落として安全にレースを終えることが一番である。
だが、今の瀬名にはそれができない。
やらないのではなく、できないのだ。
レースにはテンポというものが存在する。
常習的にレースを行うドライバーは意識的にではなく、無意識の領域で走行ライン・アクセル開度などをコントロールしている。
我々が逐一意識して歩くことはない。
それと同じである。
レーシングドライバーにとってマシンとは体の一部である。
歩く速度が日によって変わるように、レースにおける平均的なペースというものは日によって定められている。
瀬名は今日、ノれている。
そう言えば聞こえはいいかも知れない。
だが、逆を返せば。
限界領域ギリギリでしか、クラッシュする寸前の領域でしかドライブができないということになる。
事実、スプーンカーブ前のハードブレーキで今まさに瀬名は白煙を上げて通過していった。
続く全開区間、そして低速のシケイン。
シケインでのブレーキングでも、瀬名のタイヤはロックする。
止まり切れないということはない。
ないのだが。
明らかにタイヤに優しい走りではない。
『『OK、瀬名!ファイナルラップだ、このまま勝つぞ!!!』』
「『Copy。ぶっちぎりま…』」
バン!!!!!!
鈴鹿のグランドスタンド前、ホームストレート。
銃声かと聞き紛う破裂音が、こだました。
歓声が、悲鳴に変わる。
その破裂音の発生源は、瀬名の左フロントタイヤ。
ファイナルラップ開始直後、伏見瀬名のタイヤはバーストした。
「どういうこと…!?瀬名くんのタイヤに何が起きたの!?」
グランドスタンド、観客席のとある一角。
まだどよめきは収まっておらず、観客は総立ちで瀬名を目で追う。
そんな中、腕を組み座ったまま呟く裕毅。
「…フラットスポットです。」
フラットスポット。
タイヤがロックなどで過剰に摩耗し、タイヤ表面の一部が平らになることを言う。
フラットスポットは周りのタイヤ表面よりもゴムの層が薄く、弱くなっているため、高速走行によるタイヤにかかる遠心力で容易に破裂する。
「瀬名さんは先程から、かなりタイヤをロックさせてました。その代償が、こんなところで来るなんて…!!!」
「でも、まだ瀬名くんは走ってるよ…!」
「希望が無い訳ではないです。後ろとは30秒近くありますし、3輪で走り切ればあるいは…。」
「『後ろまでの距離は?』」
『『現時点で28秒。瀬名、走れるか?』』
「『やれるだけ、やってみます。』」
瀬名は冷静だった。
精神がレースモードに入っている。
バーストした左フロントは、もはや全く機能しない。
『『25秒。』』
S字を通過する。
『『23秒。』』
明らかに速度は落ちている。
『『瀬名のタイヤがバーストした!チャンスだぞ、行け行け行け!!!』』
「『今日は俺の日じゃないと思っていたが…違うのか?』」
「『…走るしかないだろう。』」
「『奴からポディウムを奪い取ってやる…!!!』」
「『ついてないねえ…瀬名。』」
2位グループが、ペースを上げる。
『『20秒。』』
「たかがタイヤ1個、されどタイヤ1個、だな。曲がりづらいったらありゃしねえ」
『『17秒。』』
S字を抜け、コース中盤へ。
最高速度も伸びず、かなり苦しい走り。
『『15秒。』』
ヘアピンをクリア。
コースの折り返し。
手負いのマシンを無理やり前へと進ませる。
瀬名が通過し、少々の時間を要した後。
4台のマシンが一斉にヘアピンに入っていく。
「『このペース…追いつくか…?』」
「『…なるようにしかならん。』」
「『流石だぜルイス・ウィルソン…このラップに入ってから明らかにペースが上がった…!!!』」
「『わーみんながんばれー』」
瀬名に追いつこうと追いつけなかろうと、この集団の順位的に表彰台に上がれないジャンニ以外は、闘争心をむき出しにして瀬名を追う。
瀬名は既にバックストレートへ進入。
本来320キロは出るはずのこのエリアを、250キロで駆けていく。
『『10秒。』』
その後ろに小さく、小さくルイスの黒いマシンが見えてくる。
70キロの速度差で、一瞬にしてその差は縮まっていく。
『『7秒。』』
瀬名のマシンは最終シケインへ。
満身創痍で立ち上がり、そのままゴールラインへと3輪でよろよろ進んでいく。
『『4秒。』』
「『…届かんな。これは。』」
ルイスの視界には、最終コーナーを脱出していく瀬名がハッキリと映っていた。
しかし、その差は4秒。
ファイナルストレッチで詰めるには、大きすぎる差だった。
伏見瀬名の初優勝は、母国での、なんともドラマチックな形で収まることとなった。