起動
世界で最も速い20台のマシンが、一斉に前へ前へと弾かれたように進んでいく。
静止状態から3.5秒で100キロへ到達、その後1.5秒でスピードメーターは200キロを示す。
ブラックアウトから0.1秒で各ドライバーは反応し、その踏みしめたアクセルが動力へと変わる。
人間が反応できる最短速度。
もはや情報は脳まで届いておらず、脊髄反射と言った方が正しいだろう。
脳を介さずともアクセルを踏めるほど訓練された者しか、この場で走ることは許されないのだ。
今日この場で最短の反応速度を発揮したのは、ポールポジションのルイス・ウィルソンだった。
1コーナーまでに二番手、ジャンニとの差を0.2秒ほど広げる。
反応速度の差はルイスが0.103秒、ジャンニは0.122秒と、0.02秒ほどの差だった。
これが長いホームストレートを走る間に、10倍に膨れ上がるのである。
低速の1コーナーを抜けると、そこには更にストレートが待っている。
ジャンニは0.25秒先を行くルイスを追いながら、サイドミラーをチラリと見る。
…すぐ後ろにいたのは、赤いマシン。
カレルだった。
もう一台いるはずのマシンが見当たらない。
真横に、並々ならぬ気配を感じる。
「『おいおい瀬名…そんなにぼくが乗れてないように見えるのかい…?』」
いる。
白と朱のトヨタのマシンが。
「『協力する気は無いってことか…困ったねえ、争ってたら2周で1秒以上離されちゃうぞ…?』」
「違いますよ、ジャンニさん。」
瀬名の行動に対するジャンニのその受け取り方は、少し間違っている。
後ろで見ていたカレルは、瀬名の意図に気が付く。
「『…瀬名は…ルイスに勝つ気だ。』」
「ここは、俺にやらせてほしいってだけです…!」
上位4台は、縦一列でホームストレートを通過していく。
首位ルイスと二番手瀬名の間には0.6秒の差。
ジャンニをオーバーテイクしたことによる、若干のロスが離される原因となっている。
しかしまだスリップストリーム圏内。
ストレートのノビは瀬名のマシンの方が上である。
だが、コース内に4本あるロングストレート。
そこでは差は詰まるものの、間に挟まるコーナー区間で少しずつルイスの黒いマシンが離れていく。
「『瀬名、無理は言わない。あと1周、1秒圏内で耐えてくれ…!!!』」
もう、ジャンニが仕掛け返すことはできない。
それをやってしまったらルイスが逃げる。
「『…瀬名なら、いける。』」
レースが始まってから2周、4位を貫いているカレルは信じている。
ジャンニの走りと瀬名の走りを後方から見た結果、瀬名の方がチャンスがあるということが分かっているからだ。
1周1分半。
すぐに車列は、運命の3周目に入っていく。
ルイスと瀬名の差は0.8秒。
DRSゾーンは1コーナーのすぐあと。
そこまで、1秒圏内を維持すれば。
ギリギリ届くスリップストリームを活用し、かろうじてルイスのマシンについていく。
1…234といった形になった車列は、グランドスタンド前を爆音で通過。
ストレートエンドでの最高速度は310キロであった。
1コーナーに入る。
また、ルイスとの差が少し開く。
0.9。
DRSゾーンまで残り50メートル。
0.95…。
「『…でかした、瀬名。』」
DRSゾーンに到達。
「『行くぞ、3台で!!!』」
各ドライバーはステアリングに搭載されたDRSボタンを押し込む。
「Attivazione del DRS!」
「…Activer el DRS.」
「DRS、起動!!!」
3台のリアウイングが開き、空気抵抗を削減する。
空気の通り道が確立され、リアウイングが寝た形になる。
3台の加速は更に鋭く、そして伸びやかに。
通常加速が鈍る250キロを超えてもまだ、加速する。
ルイスとのギャップは、0.9から0.8へ。
時速300キロを突破。
0.8から0.5へ。
みるみるうちにそのギャップは、限りなく0に近くなっていく。
ストレートエンドでの最高速は、325キロを記録。
コーナーが迫り、減速へ転じる。
瀬名がルイスの横へ並びかけようとしたその時。
瀬名の視線の先はルイスのタイヤへと吸い込まれていった。
タイヤの側面に、白い帯。
これは、ルイスがハードタイヤを履いていることを示していた。
そう、『絶対的な速度が遅く、長持ちする利点がある』ハードタイヤである。
瀬名やフェラーリ勢が現在履いているのはソフトタイヤであり、ルイスよりも確実に速いタイムを叩き出せるポテンシャルのあるタイヤだった。
完全に失念していた。
まさか、ハードでここまでとは。
「『…ここで抜いても、か。』」
「『後半スティントで彼がソフトタイヤを履いた瞬間に巻き返される…!』」
「おいおい、マジかよ…」
絶対王者は、『絶対的』な『王者』であるからそう呼ばれるわけで。
生半可な作戦で通用する相手ではない事を、再確認しただけであった。