時速309キロ
翌日、午前10時。
瀬名らチームMAXWELLは、決勝前の最終調整を行っていた。
昨日起きた裕毅のクラッシュを受けて、マシン状態のより詳細な安全確認を遂行する。
「瀬名くんのグリッドは12番手です。昨日のQ2進出者からクラッシュが出ているので、実質的には11番グリッドということになります。」
Q2を辞退した瀬名は、Q2進出者の中では最後尾のグリッドとなる。
「ん?瀬名くん、何ですかそれ?」
尚貴は瀬名の右手に握られた布を見て反応する。
「…オーストリア国旗です。昨日亡くなった方の出身国だそうで…俺が優勝したらコックピットから振ろうかと思って。」
スーパーフォーミュラは日本のレースイベントだが、ドライバーは世界各国から参戦してくる。
…異国の地で、全く本望ではないだろう。
せめてもの弔いである。
瀬名はマシンに乗り込む。
いつもの習慣で、無意識に行っていたことがある。
鞄から紅いお守りを出し、コックピット内にくくりつける。
いつもと変わらない動作のはずが、なぜか今日だけは違った。
無意識にできるはずなのに、毎回やっているはずなのに。
初めて行ったかのように、一つ一つの動作を意識しながらでないと動作を完了できなかった。
お守りの紐を結ぶ動作一つ取っても、結び方を頭の中で反芻しないといけなかった。
このお守りが何であるかを思い出せと言わんばかりに。
事実、瀬名はこの動作が日常化しすぎてこのお守りが誰に貰って、どういったものであるかを意識してはいなかった。
でも、今日は思い出さずにはいられなかった。
「京一…さん…。」
遠い昔にこの世を去った師を、友を。
空はいつ雨が降ってもおかしくないほど黒く、暗い。
しかし、雨雲レーダーが反応することは一切なかった。
予報でも今日いっぱいは曇りとなっている。
『マイクテスト、マイクテスト。』
「OKです。」
グリッドに着いた瀬名は、目を閉じる。
が。
すると途端に怖気に襲われた。
怖くて目を閉じることができない。
「ふっ…ふっ…大丈夫…大丈夫…。」
小刻みに息を吐きながら、震える手でハンドルを握る。
死を身近に感じたのは、いつぶりだろうか。
それこそ、彼がいなくなったとき以来だろう。
スタート10秒前。
いつもは目一杯上を向かなければ見えないシグナルは、今日はかなり余裕をもって眺めることができる。
それだけ、これほど後方からのスタートは久しぶりであるということだ。
シグナルがオールレッドになる。
エンジン回転数を上げ、スタートに備える。
「…。」
ブラックアウト。
全車が一斉にスタートする…かと思えば。
「うわッ!!!!!」
瀬名の真正面、10番手のマシンがエンストで動かない。
間一髪で瀬名は避けるも、瀬名の後続14番手のマシンが突っ込んでしまう。
パーツが飛び散り、蜘蛛の子を散らすように後ろのマシンたちがそれらを避ける。
当然、イエローフラッグ。
そしてセーフティーカーが入る。
「ハァ…ハァ…マジで勘弁してくれ…」
追い越し禁止、徐行が命じられた瀬名はアクセルから足を離す。
片手をステアリングに添えたまま、もう片方の手で頭を抱える。
セーフティーカーに先導されている間も、恐怖に苛まれ続けた。
ゆっくり、ゆっくり走るセーフティーカー。
だが、瀬名の鼓動は留まるところを知らずに速く、速くなっていく。
自らの耳にも、その音が聞こえてくる。
いつしか、その音はエンジン音よりも大きく、聴力の容量を圧迫していく。
セーフティーカーがピットに入った。
レースが再開されると、瀬名はもはや何も考えずにアクセルを全開にする。
次第に前のマシンとの距離が縮み、脊髄反射でオーバーテイクを仕掛ける。
しかしそこは圧倒的な実力を持つ瀬名である。
別のことに脳内を侵食されていようと何だろうと、速いものは速いのだ。
各周一台のペースでオーバーテイクを成功させていく。
「よし…俺は大丈夫…大丈夫だ…。」
極度の緊張。
視界が狭まり、行く先をただ見つめる。
違う。
これは彼が言っていた『ゾーン』とは違う。
これはただ、周りが見えなくなっているだけだ。
いつしか視界のみならず聴覚も、自らの鼓動が大部分を占めるようになっていく。
神経を情報が伝わっていく耳鳴りのような音。
血液が巡る濁流のような音。
聞こえてくる音の全てが、自分の身体由来になっていく。
目をつぶり、耳栓をして時速300キロで疾走することを想像してみてほしい。
どうしようもない恐怖が伴うだろうが、この恐怖がその不自由な視聴覚由来であるのかすらわからない。
しかし、瀬名のポジションは上がっていく。
既に2位を陥れ、1位まで残り0.6秒。
コース後半の高速コーナー・130R。
そこで仕掛けられるはずだ。
1位のスリップストリームに入り、加速していく。
鈴鹿サーキットで最もスピードが乗るこの区間。
最高時速は、309キロに達した。
『…周回…車両…る…!!!』
うるさく鳴る自らの心臓の音をかき分け、何者かの声が聞こえてきた。
『スロー…遅れ…いる…!!!』
その声を解読するより、瀬名は1位に仕掛けることを優先とした。
その判断が間違っているということは明白だが、優先順位を考えるほどの余裕はもはやない。
130Rに差し掛かる。
瀬名が1位を奪い取ろうと、横に並びかけた瞬間。
『スローダウンしている周回遅れの車両がいるんです!!!!!!』
一台の車影が、狭くなった視界に大きく映し出された。