ライク・ア・1994サンマリノ
瀬名のメンタルは、もはや崩れかけていた。
2つの大きなクラッシュの他にも、小さなトラブルが無数に発生していることが、嫌でも耳に入ってくる。
この週末は何かがおかしい。
明らかに今までと雰囲気が違う。
瀬名は病院から、宿泊しているホテルに戻る。
部屋に入ると、意識をせずとも身体がトイレへと向かっていった。
胃の内容物をすべて吐き出す。
特に動揺はなかった。
前に誰かが、吐くほど緊張すれば集中できるとか言ってたような気がする。
でも、今はもうそれが誰の言葉なのかすら思い出せない。
とても大切な人だったような気がする。
だが、今はそんなこと考えられない。
吐いても吐いてもスッキリしない。
ひとしきり戻した後、口をゆすぐこともせずベッドへ倒れ込んだ。
あれからどれだけの時間が経っただろうか。
5時間な気もするし、20分な気もする。
スマホを取って時刻を確認するも、意識が飛んだ時刻が分からないから意味はない。
ひと眠りしたら苦痛は10から8くらいまで減ったように思う。
それにしても、口の中が気持ち悪い。
洗面所に向かい、うがいをして歯を磨く。
鏡の自分と目を合わせることはできなかった。
どんなひどい表情をしているか分かったものじゃない。
ベッドの方に戻ると、ふとスマホが目についた。
…あの人なら、優しい言葉をかけてくれるかもしれない。
今、瀬名に必要なのは叱咤激励ではなく、セラピーだ。
いつもよくしてくれる親友でも、今回ばかりは話す気になれなかった。
瀬名は連絡先から、『三浦亜紀』の文字を探した。
日が短くなってきた11月。
すっかり外は暗くなっていた。
そんな中、普段はめっきり音沙汰の無い私のスマホから震えと共に着信BGMが流れてくる。
音沙汰がないとは言っても、かけてきてくれる人は1人心当たりがある。
今年の後半に入ってからはあまり連絡も取っていなかったけど、何かわけがあるのだろう。
一昨年くらいから本格的に遠距離恋愛になるけど、まだ仲良く続けられている。
彼とは本当に相性が良いみたいだ。
でも、今日は事情が違った。
私も知っている。
ニュースの速報でも流れてきた。
彼が走っているスーパーフォーミュラで、大クラッシュが2つもあったらしい。
亡くなった人も出ている。
私はスマホを手に取ると、応答ボタンを押した。
彼に気を遣わせないように、いつものテンションで。
平静を保ちながら。
「おつかれ、瀬名くん。久しぶりじゃない?」
「…そうですね、最近連絡できなくて申し訳ないです」
明らかにいつもの瀬名くんじゃなかった。
それはそうだろう。
怖くて怖くて仕方がないはずだ。
「なんか大変なことになってるみたいだけど、大丈夫?ほら、私にできることならなんでも言って!」
それから、少しの沈黙が流れた。
「亜紀さん、俺…もう走りたくないですよ…」
いつぶりだろうか。
彼の弱気な言葉を聞いたのは。
私は言葉に詰まった。
肯定も否定も、彼にとって毒になってしまう気がする。
琢磨くんなら、彼にとって最適な言葉をいつも導き出せるはずなのに…。
いや、ダメだ。
瀬名くんは私を選んで、連絡をしてくれた。
ここは私がしっかりと瀬名くんを支えてあげないとダメなんだ。
「瀬名くんはさ、どうして走ってるの?」
何気なく発したその問いが、彼にとってはとても重要だったようだ。
それを裏付けるように、長い静寂が流れていった。
「自分の目標を…目的を達成するためです。」
「じゃあさ、その目的を達成するために、明日走ることは必要なのかな。それが必要ないんだったら走らなくてもいいんじゃないかなーと思うんだけど。」
「それは…」
瀬名くん、私は。
あくまで私はだけど。
キミはもう走らなくていいと思ってるんだ。
もう充分頑張ったじゃん。
これ以上辛い思いをしてまで、走ってほしくはない。
そう思っていたが、口にすることはできなかった。
なぜなら、やっぱり彼自身の判断、決断を一番大事にしてほしかったから。
私がとやかく言う部分ではないと分かっていたから。
そして、私はどこかで『走らない』という答えを期待していた。
この週末、嫌な予感がしていたから。
「亜紀さん。」
でも、彼の返答はこうだった。
「俺、明日最高の走りをしてきますよ。」
「…そっか。頑張ってね!応援してるよ~!」
止めることは、もはやできなかった。
「安心してください。俺、こう見えてすっごい強いんで。」
そう言い残して、彼は電話を切った。
私はスマホを耳から離して息をつく。
ああ、どうか。
誰かが、彼を守ってくれますように…。