悪夢・序
振られていたイエローフラッグが、セッション中止を意味するレッドフラッグに変わる。
1コーナーでバランスを崩した22号車は、290キロ以上の速度を維持したままタイヤを跳ね上げ横転。
3、4回転した後に壁に激突。
「ッ裕毅!!!!!!」
モニター越しに裕毅の走りを見ていた瀬名は、立ち上がってコースの方へ走り出す。
その際通ったピットガレージでは、大人たちがせわしなく動いていた。
「ドクターヘリですかね…」
「多分出るでしょうね。彼が無事ならいいですが…」
スタッフのその言葉の通り、頭上から『バラバラバラ』とけたたましい音が聞こえてくる。
サーキットにはレースイベントの際、ドクターヘリと呼ばれるヘリコプターを配備している。
端的に言えば空飛ぶ救急車で、治療をしながら病院へ運ぶためのものだ。
瀬名は偶然通りかかったオフィシャルカーへ強引に乗り込み、事故現場へ向かうように強く説得した。
到着した現場は、この世の地獄であった。
散らばったパーツ、タイヤ、壁に取り付けられていたであろう緩衝材。
裕毅がブレーキを踏んだあたりから事故現場まで、生々しく残っているタイヤ痕。
瀬名はオフィシャルカーを乗り捨て、裕毅の救出作業に参加する。
裕毅のマシンは壁に深くめり込んでおり、救出は困難を極めた。
やっとの思いで引きずり出された裕毅の身体は、力なくだらりと垂れ下がっている。
「大丈夫です、息はあります」
救急隊のその言葉に安堵するものの、まだ不安定な状態だという。
「ヘリに乗せます。下がって」
「俺も乗ります。乗らせてください…!」
「ですが…あなたはまだQ2があるでしょう?」
「そんなこと言ってる場合ですか!!!」
担架に乗せられて運び込まれた裕毅と共に、瀬名はドクターヘリに乗り込む。
ヘルメットを脱がされた裕毅の表情は、落ち着いていた。
本当にただ眠っているように、スースーと寝息を立てている。
外傷もほとんど見当たらない。
手足が変な方向にネジ曲がったりもしていない。
大丈夫だ。
これなら助かる。
「びっくりしましたよ。骨にも全く異常はありませんでした。ただの打撲と脳震盪です。」
医者の診断は何とも拍子抜けするものであった。
病院に着いた瀬名は、事故当時の事情を医者に説明する。
恐らく300キロ近く出ていたと言うと、驚愕していた。
「発見時意識がなかったとのことですが、本当に寝てただけかもしれませんよ」
「そうだったら俺引っぱたいてきます」
医者のジョークに笑うこともなく、真顔のまま返す瀬名。
「病室はそちらです。チームメイトさんでしょう?」
医者はそう言って院内の一室を指差す。
案内された病室に入ると、裕毅らしき人がベッドに横になっているのが見えた。
顔の方は死角になっていて、部屋の入口からだとよく見えない。
裕毅のベッドの方へ歩いていくと、次第に顔が見えてくる。
意識が戻ったようで、なにやら動いているのが分かる。
その全貌が見えたとき、彼はなにをしていたかというと…。
「あ!瀬名ふぁん!Q2はどうしふぁんでふか!?」
バナナ食ってた。
すかさず殴り掛かろうとすると、ナースに羽交い締めにされる。
「伏見さん!!!彼、怪我人ですから!!!」
「いーや、アイツは一回引っぱたかないとダメです。離してください看護師さん!!!」
瀬名とナースの取っ組み合いを見た裕毅は、バナナを飲み込むと瀬名に向かって頭を下げた。
「心配かけてごめんなさい、瀬名さん。」
その言葉に瀬名は動きを止める。
「瀬名さんに、今シーズン中にどうしてもちゃんと勝ちたかったんです。でも、ダメでした」
下げていた頭を上げると、裕毅は目をこする。
「ボクには、まだ早かったみたいです。」
その表情は悲しそうで、どこか寂しげだった。
「…看護師さん、頭撫でてやるぐらいならいいっスよね?」
「え?あ、はい。」
ナースの腕から解放されると、瀬名は裕毅に歩み寄る。
右手を裕毅の頭にポンと置くと、優しく語り掛けた。
「なあ、お前の言う『勝利』とか『リベンジ』ってなんなんだ?」
「…そう言われると、分からないです。」
「そうか。」
頭から手を離すと、ベッド脇にしゃがんで裕毅に問う。
「お前、今年楽しかったか?」
「はい。すっごく。」
「じゃあ、それでいいじゃねえか。お前の今シーズンはこれで終わりだが、また来年も走ればいい。体も、問題ないんだろ?」
裕毅は目線を自分の両手に持ってきて、握ったり開いたりしてみる。
感覚はクラッシュ前と何ら変わりはなかった。
「じゃ、俺はそろそろ行くわ。あ、そうそう最後にひとつ。」
瀬名は裕毅の額をパチンとはじくと。
「お前、石頭だな。」
半笑いでそう言った。
裕毅が無事だったことは、瀬名の心境に大きなゆとりをもたらした。
…かに思えた。
Q1を1位で通過し、Q2を辞退していた瀬名は、12番手スタートが確定している。
そのQ2で事件は起こっていた。
事故を起こしていた裕毅のマシンの撤収作業を行っていた、1コーナー。
そこに、1台のマシンが同じく300キロに迫る速度で突っ込んできたのである。
そのマシンは裕毅、瀬名に続くランキング3位のマシンだった。
撤収作業用のクレーンに291キロで激突したマシンは大破。
そして。
これが、スーパーフォーミュラ史上初めての死亡事故となった。