推し
「裕毅はさ、なんでレースやってるの?」
「え、普通に楽しいからですよ」
ホテルの一室から、隣接する遊園地を眺める。
大きな観覧車がライトアップされており、東京の夜景にも匹敵するほど美しい。
「いや、違うね。」
「違いませんって」
瀬名は裕毅に背を向け語りかける。
「去年のお前の走りは『下心』が抜けきっていなかった。」
「下心?」
裕毅は心底意外だった。
物心がついたころからサーキットで走り続けていた自分には、欲や邪な感情が入る余地はないと思っていたからだ。
しかし、だからこそ。
「お前は記憶が形成される以前から走り続けてる。自分の意識の外で、『その努力を認めてもらいたい』『人気者になりたい』と思ってしまっているんだよ。」
「そう…なんですか?」
いまいちピンと来ていない様子の裕毅。
「かく言う俺も、F4時代は邪念や下心が多かったと思ってる。少しでも人気になりたかった。」
懐かし気に目を閉じる。
「そこで。俺が考える下心を消す方法がある。」
瀬名は裕毅の方を振り向くと、人差し指を立てた。
「で、その方法とはなんですか?」
「『推し』を作ることさ。」
これは完全に瀬名の持論である。
推しを作れば、周りの目を気にせずに走ることができるという。
「俺の推しは富岡さんだった。スーパーGTではほとんど彼のことだけを考えてた。」
彼に勝ちたいという純粋な気持ちだけを表面化させ、レースに臨む。
それが瀬名の『推し活』だった。
「だが、これには欠点がある。」
推しとは、憧れである。
富岡を推していた瀬名は、最終的に敗戦を喫した。
「『推し』には、基本的に勝てない。推しと『勝負』をしたいなら、その考え方を見直さなければならない。」
「なんで勝てないんですか?」
「推しになら負けてもいいと思ってしまうからさ。お前も一昨年のF4の最終戦、似たようなことしただろ?」
勝ちたい、だけど彼になら負けてもいい。
瀬名がF4に参戦していた年の最終戦、裕毅は1位への望みを捨てて、後方の聡を徹底的にブロックする戦法を取った。
「だから、俺を推すのは明日1日限りにしておけ。その分、明日はお前の純粋な走りを期待してるぞ。」
「推すも推さないも、ボクはずっと前からあなたの目の前でペンライト振ってるんですよ…!!!」
瀬名の走りは容赦も情けもなかった。
隙あらば裕毅を引き離そうと、置いていこうとする。
しかし、裕毅も裕毅であった。
「1セクはボクの方が速い…残りのセクターはラインをコピーしてやればいいんだ…!」
「裕毅のヤロー、この領域でついて来やがるか…伊達に1年追加で聡さんと遊んでねえな…」
「ヘックション!…オレ、花粉症だっけ?」
「手足が軽い…ボクがボクじゃないみたいだ…!」
「それがお前の真の力だ、裕毅。効果てきめんじゃねーか。」
『このコンディションの裕毅なら、予選でポールポジションを奪われていたのでは』と、一瞬頭を掠めた。
でも、それはなんだか負けたような気になるので口には出さない。
瀬名は前を向き、自分のアタックに集中しなおした。
日本で最も長いコース全長をもつサーキット、鈴鹿サーキット。
とは言っても、走行しているマシンはF1に次ぐサーキット巡航スピードを持つスーパーフォーミュラである。
およそ5800メートルのコースを、1分35秒で駆け抜ける。
すぐにピットイン予定の15周目を迎えた。
『瀬名です。ピット入りますよー』
「了解、了解。こちらも準備できてます。いつでもどうぞ。」
瀬名は後続の裕毅に合図をするように手を上げ、ピットロードに消えていく。
その指の先はコース本線の方へ向いており、まるで『お前はこっちだぞ』と言っているかのようであった。
「もー…瀬名さん、ボクってそんなに頼りないですか?言われないでも分かりますよぅ…」
そんな中、裕毅のもとに一本の無線が入った。
『裕毅くん、聞こえてますか?尚貴です。』
「はい、どうかしましたか?」
『瀬名くんのピット作業でタイヤを固定するナットを使い切ってしまったので、ピットインを16周目から1周ずらして17周目にしてください。その間は1人で走ることになりますが、安全第一でお願いします。』
その言葉を受けて、裕毅はニヤリと口角を上げる。
「よーし…この1周、スパートかけてみよーっと…!」
話を聞かないところ、本当にこの師弟は似ている。
前が空白だ。
瀬名さんが前にいた時は安心感があったが、これはこれで気持ちがいい気がする。
裕毅はこの1周、キャリアハイのパフォーマンスを見せる。
16周目のラップタイムである1分35秒162は、現時点のファステストラップとなった。
「気持ちいいー!!!」
裕毅は満面の笑みでピットへ入ってきた。
話を聞かないところまでは同じだが、そこから熱暴走を起こさないあたり弟子の方が優秀かもしれない。