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カムバック・ホーム  作者: 扇谷 純
灰色の街
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第6話

 藤沢は感情を顕にする僕をどこか困惑した表情で眺めていたが、すぐに考える素振りを見せ、納得したように何度か頷き始めた。


「そっか。夏目はばあちゃんのこと、ほんとに好きだったんだな」


 グラスを手にした彼は、それをわずかに傾けながら僕の瞳を覗き込んだ。


「まぁ、色んな考え方があるもんだ」


 その落ち着き払った表情は、先程までの軽薄さとはまるで印象が違っていた。彼は続けて笑みを浮かべ、「でも、お前は潔癖すぎるね」と言った。


「もし俺なら、『大好きだったばあちゃんのそばに最後までいてやろう』って、それくらいしか思わないけど」


「……潔癖なもんか」


 空になったコップを握りしめ、僕はカウンターに置かれた銀色の灰皿を睨みつけた。


「自分が間違ってることくらい分かってるよ。けど僕は、そんな簡単に割り切れるタイプじゃないんだ」


「そうか? 夏目の考え方も別に間違いではないだろ」


 残りを一息に飲み干した藤沢は、空になったグラスをカウンターに置き、「だからって、葬儀から抜け出すのはかなりユニークな発想だと思うけども、大事に想ってなきゃ、そんなこともしないだろ」


 彼はよく通る声で店員を呼びつけると、追加でウイスキーを二杯注文した。


 まもなくして新しいグラスが手元に届くと、彼は一つを僕の前に、そしてもう一つを自身の胸の前で掲げながら、「それじゃ、こっちは勝手に乾杯といこうか」と言った。


 僕はグラスと彼を交互に眺め、「何に、乾杯なんだ?」と尋ねた。すると彼は、「そりゃあ、ばあちゃんを想ってだよ」と笑顔で答えた。


「は? お前に何が――」


「残念ながら、俺は夏目のばあちゃんのことは何にも知らんよ。それこそお前にとって、どれほどの存在だったのかもな」


 僕の言葉を遮った藤沢は、静かにこちらを見つめた。


「でもさ、死者を送り出す夜っていうのは、きっと膨大なエネルギーが必要なんだよ」


「エネルギー?」


「そう」と答えて頷いた彼は天井を指差し、「送りだす側は相手が天に昇るまでの間、これ以上ないくらい賑やかな時間を過ごしてやる義務があるんだ。間違っても、寂しさなんてものを微塵も感じさせちゃいけない。それは想いが深い奴ほど、特にだと思う」


 彼は手にしたグラスをほんの少し前に突き出すと、僕の前に置いたグラスにちらりと視線を遣り、また笑顔を寄越した。


「だから俺は、夏目の友人として一緒に騒ぐ必要があるわけ」


「…………」


 彼の言葉を聴きながら、僕はその瞳から目が離せなかった。なんとも眩いばかりの光に溢れているものか。


 そこには未だ僕が知り得ない、人にとって不可欠な何かが浮かび上がってくるように思えた。


 ――いや。それだけではない。


 幾重にも折り重なった光のカーテンに覆われた彼の瞳の奥には、何かが隠されているように思えた。それは闇の中に眠る、深い孤独にも似た影か。


 底抜けに明るい表情を浮かべる彼の本音は、ひどく深いところを漂っている。この瞬間、どうしようもなく僕が彼に惹かれてしまったのは、そういった部分によるものが大きかったのかもしれない。


「ずいぶんとユニークな発想だね」


 僕がそう答えると、彼はすかさず、「でも、悪くないだろ?」と答えた。


 目の前に置かれた琥珀色の液体を見つめた僕は、しばらくしてグラスを手に取ると、彼と同じようにそれを掲げ、「……悪くない、かもね」と呟いた。


 音を立てて僕らがグラスを交わした瞬間、店内の空気が妙に明るくなったように感じられたのは、単にレコードが変わっただけなのかもしれない。


 ニューオーダー、レッチリ、ビースティ・ボーイズ――。僕にとっての懐かしい顔ぶれが続き、それらは騒ぐべき夜にはとびきりお似合いな選曲に思えた。リストやモーツァルトでは、こうはいかない。


 藤沢はカウンターに置いた煙草の箱から一本取り出すと、それを口に咥えて火をつけ、続けて大きく二口吸い込んだ。『ラッキーストライク』というおよそ脱力感溢れる響きは、この男にはうってつけだった。


「吸うか?」と問いかけながら、藤沢は煙草の箱をこちらに向ける。


 半年ほど前から、僕は禁煙を続けていた。といっても吸い始めたのがそもそも大学一年の始め頃で、ある日の昼下がりにどこかのベンチでうっかり煙草の箱を置き忘れると、そのまま何となく習慣から外れてしまった。まるで朝食をふと食べ忘れるみたいに。


「じゃあ、一本貰おうかな」


 なぜだか今は、身体がそれを欲しているように感じられた。差し出された箱から一本取り出して口に咥えると、藤沢はあたかも呼吸をするような自然さでライターの火を目の前に用意している。


 僕は空気を吸い込み、肺の中に煙を招き入れた。久々の侵入者にいささかの拒否感を示す身体は、早くも頭をふらつかせ始めている。


「とはいえ――」


 藤沢は煙を輪っかの形にしながら数回に分けて吐き出しつつ、「騒ぐって、具体的になにすれば良いんかね」と言った。


「そんなの僕に聞かれても」僕は彼の吐き出した輪っかを目で追い、「そっちこそ、ついさっきまでエネルギー云々語ってただろ?」


「だって、あれは受け売りだし」と答えた藤沢は、ため息を漏らすように煙を吐き出し、「俺も周りに合わせてきただけで、実際は結構暗い奴だぜ?」と言った。


「藤沢が暗い奴なら、僕は深海魚かもね」


「おでこに電球とか付いてる感じのやつ?」


「それに引き寄せられた餌が君だ」


「なるほど」


 僕らはしばしの間、互いの吐き出した煙がゆらゆらと歪曲しながら天井に向けて浮遊するさまを眺めていた。


 重苦しい色のスーツを身に纏った僕と違い、藤沢は涼しげなリネンのワイドパンツを履き、真っ青なシャツを緩く着こなしている。それでもだらしないという印象は受けず、むしろ爽やかな好青年といった趣が彼にはあった。

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