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カムバック・ホーム  作者: 扇谷 純
カムバック・ホーム
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第57話

 三人に見送られ、僕は病院へ向かう傾らかな坂道を下っていた。


 前方には海が見渡せ、道端に生えた草花は風に揺られてそよそよと音を鳴らしている。


 長い一本道の途中、僕は小学生くらいの小さな男の子とすれ違った。


 それは父の隣に並んでピースサインを送っていた、あの少年だった。潮を含んだ泥だらけの衣服からはあの家と同じ磯の香りがした。


 あの子が僕と半分だけ血の繋がりを持つ、歳の離れた弟。彼は父親とどれほどの思い出を共有できただろうか。未だ眠り続ける父をどう受け入れているのか。


 僕は、少年に声をかけなかった。ただ静かに立ち止まり、小さくなる後ろ姿を眺めていた。


 病院の受付に向かうと、名前を告げるだけで事情が伝わっていた。小夜子が事前に連絡をしてくれたおかげだ。


 この病院は家族の宿泊希望者が多いようで、病室に入ると貸出用の布団が運び込まれていた。


 僕は荷物を置き、父の寝顔を眺めた。初めに見た時と変わらず、彼は静かに眠っている。


 空気を入れ替えるため、僕はベッドの奥にある窓を開いた。外にはどこまでも続く海原が見渡せ、水平線に日が沈みかけている。


 海の表面や空、それに白い雲を陽光が淡く温かな色に染め上げており、真っ黒に模られた遠方の山々や水面に浮かぶ船は、その繊細で刹那的な光を一層際立たせているように感じられた。


 僕はカメラを構え、それらの情景を見つめながら無心でシャッターを切り続けた。


 その日の深夜、僕は父の病室で少なくとも二つの不思議な体験をした。


 ひょっとすると、ただの夢かもしれない。けれど夢で片付けてしまうには、それはあまりに出来過ぎていた。とても貴重な時間旅行のように思えた。


 父の傍らに布団を敷いた僕は深夜にふと目が覚めてしまい、気配のようなものを感じて視線を向けると、そこには父のドッペルゲンガーが現れていた。


 彼の身体をしっかりと形作った、というような物ではない。月明かりで仄かに照らされたその物体は、今にも消え入りそうな青白い光を放つ発光体だった。


 煙を纏ったようにゆらゆら揺れるその存在は父の足元に浮かび、彼を見下ろしている。


 まさに今、『父の命を吸い取ろうとしている』と僕は直感した。


 同時にそれは、どう足掻いても止めようのない自然の摂理でもあるとも。


 長い時間をかけ、父はゆっくりと魂を蝕まれている。それは太陽が西へ沈むように、夜明けには必ず朝がやって来るように変えようのない原理と同義だった。


 恐らく僕にできることは、目の前の現象をただ見届けることのみだろう。無意識のうちにそう思わされていた。


「父さん……」


 家族を捨てることで長い間の苦痛から解き放たれた父は、同時に更なる枷を内に秘めることとなった。


 精神病を患って以来、彼は自身の影に怯え続けてきたのだろうか。


 麗子さんが病室であの言葉を聞いた時、父はその存在に恐怖した。遠く離れてしまえば、いずれは消え去ると考えたかもしれない。


 雪山でその幻影は再び姿を現した。仲間と自らの命が危機に晒されている状況下で、その影を見た彼は何を思っただろう。


 単純な恐怖心か、それともすべてを置き去りにして逃げ出したいという衝動か。


 あるいは自らの死期を悟り、限られた命を投げ打ってでも仲間を助けたいと願っただろうか。


 あの時父は、テントを飛び出した。仲間を救いたいと行動に移したのは、身代わりになるつもりだったのだろうか。


 自らを生贄にしてでも仲間の厄災を遠ざけたい。そんな風に思ったろうか。


 自身の腕の中で硬直する仲間の姿を、どれほど嘆いたことか。


 運ばれた病室で三度その存在を露わにした幻影に、彼は絶望的な気分を味わっただろうか。


 魂が徐々に吸い取られることをすんなりと受け入れられたのか。


 それとも抗おうとしたのか。


 妻や息子を残し、別れの言葉すら告げられなかったことを悲しんだろうか。


 悔しかったろうか。


 母を救えなかったことを嘆いただろうか。


 今となっては、全てが仮定の域を出ない。


 透明なループにがっちりと収まった事象はもはやその正体を追求することも、歪曲させることも叶わない。


 もうじき、彼の魂は尽きるのだろう。


 僕はドッペルゲンガーを通し、父への想いを届けなければならない。彼を慕う者、愛する者、後ろめたさを感じる者。そして、僕自身の想いを――。


 僕はそれらの錯綜する想いを言葉に乗せた。


けれどいざ口にしてみると、それはあまりに中間の抜け落ちた極端な台詞のように思えた。


 僕の方へゆっくりと振り向いたドッペルゲンガーは、何事かを囁いた。


 そのように感じられた。


 それは単に痛々しい思い込みに過ぎないのかもしれない。


 実際は月明かりが作り出すただの幻影で、僕は間抜けな寝言を呟いただけなのかもしれない。


 それでも父の姿をしたその影が、『ありがとう』もしくは、『さようなら』などという台詞を木霊(こだま)のように反響させたと感じられた記憶だけは、頭の片隅にしっかりと刻み込まれている。


 さらに、その現象が起こった直後だった。


 気づけば、隣に彼女が立っていた。


 果てしなく続く広大な白い空間で立ち並んだ僕らは、歩き去る父の後ろ姿を眺めていた。


 やがて彼の姿が米粒のように小さくなり、目視が不可能になるまで見送った後、彼女と向き合った僕はその姿をじっと見つめていた。


「…………」


「どうして何も言わないの?」


「……君が、何も言わないから」


「相変わらずね」


 彼女は柔らかな笑みを浮かべ、こちらを見つめている。


 僕は頭の片隅でずっと思い描いていた。


 彼女について。その入り組んだ事情について。僕の気持ち。彼女の想い。僕の衝動。彼女の憂い。そして、僕らのエゴについて。


「僕を傷つけないために、君は姿を消したの?」


「…………」


「それでも僕は、君のそばにいたかったよ」


「他に方法が浮かばなかったの。あなたはあまりに優しくて、頑固で、自分を一番に考えられない人だから」


「僕はそこまで善人じゃない」


 そう言うと、彼女は微笑みながらこちらを見つめていた。


 真っ直ぐな瞳、人懐っこい表情。今にも消え入りそうに脆くて、儚くて、――そして美しいその姿は、紛れもなくナナだ。


「私ね、あなたとの素敵な想い出が綺麗なうちに消えてしまいたかったの。清らかで美しい感情だけを仕舞っておきたかった」


 僕は、とびきり繊麗なアイスクリームを思い描いた。彼女は僕と過ごした日々を大事にしまい込み、そのまま海に放り投げた。


 誰かに食べられてくたびれた姿になることを晒すくらいなら、いっそ……。


 けれど僕は、そんなくたびれた彼女の姿ですら見たいと願ってしまった。


 たとえ地面に落ち、ぺしゃんこになったアイスクリームでも、美しい原風景や、二人で培った記憶を共に思い返せれば、その瞬間がまた再び、最高の瞬間となり得るのではないか。


「たくさん写真を撮ったよ」


 君に見せたくて、美しい瞬間をたくさん探した。たくさん見つけられた。そういうものほど、思ったより近くに転がってるものだね。


 そう言いかけたものの、言葉にしたのはほんの一部だった。


 僕の言葉に笑顔を浮かべた彼女は、瞬きをする間に目の前から消えていた。


 辺りは月明かりに照らされた病室に戻り、横たわった僕の頬には涙の伝った跡があった。

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