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カムバック・ホーム  作者: 扇谷 純
籠の中の少女
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第24話

 藤沢が短期の引っ越しバイトを始め、僕はとうとう暇を持て余すことになった。


 実家のダイニングで母と向かい合う光景など想像もしたくなかったので、昼間はなるべく外出するようにした。


 慣れ親しんだコンバース・ハイカットを履き、意気揚々と玄関を出るとうざったいほどの快晴が僕の出鼻を挫こうとする。


 そこは自らの光合成のためだと暗示をかけ、日差しを避けるように俯いて歩き出した。


 どこへ向かおう。自慢にもならないが、この辺りは超がつくほど閑静な住宅街のため、本当に何もない。


 まれに見かける個人経営の喫茶店へ入ろうものなら、元クラスメイトの親が経営者だったりするような街だ。


 どうせ僕の顔など覚えていないだろうが、そういう場所に足を踏み入れたいとは思えなかった。


 自宅の周囲には古い家屋が所狭しと建ち並んでいる。それらを中央で二分するように汚い小川が流れており、通行人が足を踏み入れないため、両側から挟み込むようにフェンスが張られていた。


 小川に水はほとんど流れておらず、まるで干からびたメロン畑のようだ。この辺りの者は皆これを『川』と呼んでいるが、実際は雨を排水し、住宅地の外へ逃がすための水路である。


 この辺りには傾斜のきつい坂道がいくつも存在し、坂を上るとかなりの高低差が生じる。雨が降った際には大量の雨水が坂の上から流れ込むため、それらを効率よく退ける用途で目の前のメロン畑は存在していた。


 晴れた日は魂の失われた存在でしかない。けれど一度雨が降ると、こいつは生気を帯びたように濁流を垂れ流し、密かに街を救っている。


 坂道を上り始めた途端に息が切れる。運動不足も甚だしい。


 当時はよく自転車を利用したものだが、この一帯の坂道にはおよそ漕いで上ることが不可能な傾斜がついており、大抵の者はおとなしく押して歩いた。


 もちろん僕も例外ではなく、坂の麓まで来ると自転車を押して歩き始めるのだが、これまで手助けをしてくれた相棒は突如反旗を翻すと厄介な重荷として我が軍のスパイに潜り込み、温存していたはずの体力は根こそぎ奪い取られた。


 それゆえ坂の下まで来ると、いつも自転車を放り出したい気分になった。


 上層地へ辿り着くと景色は一変し、緩やかな傾斜から駅周辺のエリアを見下ろせる。正面から駅の看板を眺めるのは何年ぶりだろうか。


 外装はすっかり新調され、周辺にはガラス張りの洒落たカフェテリアまで見られた。


 だがそれも表向きだけで、裏道を覗くと大衆の欲望を満たすべく用意された居酒屋や風俗店などが未だに大半を占めており、物陰には浮浪者がひっそりと寝そべっている。


 夜になると小難しい漢字を並べたグループ名の暴走族が駅前に屯するため、カフェテリアの売上にも壊滅的な打撃を与えることだろう。


 喧嘩、窃盗、交通事故――。


 それら小競り合いが日常的に行われ、夜道を歩くと高確率でチンピラに絡まれる。


 とんだ荒くれ者の巣食う光景を想像してしまいそうだが、この街の住人は良くも悪くも引き際を心得ている。ゆえに表立ったトラブルや、大それた事件は滅多に起こさない。


 日差しに体力を奪われ、たまらず自販機で買った生ぬるい缶コーヒーを手に歩いていると、すらっとした背の高い少女の姿が目に入った。


 この辺りにはおよそ似合わない上品な佇まい、視線を釘付けにするあの雰囲気には見覚えがあった。


 今日はスカイブルーの膝丈スカートを履き、白と灰色の中間のような配色のTシャツに麦わら帽子を被っている。全体的にとても涼しげで、ラフな服装だった。


 黄色いナップサックを背負い、首には一眼レフカメラをぶら下げている。声を掛けようか僕が迷っている間に、ナナは入り組んだ路地の中に入り込んだ。


 この街の路地裏は、思いのほか複雑な構造をしている。建物の間にいくつもの狭い道が直角に交わり、下手に入り込むとどこへ進んでも行き止まりに行き着いてしまう。


 精通した人間ならば街を抜ける近道としての利用価値はあるものの、道を一つ間違えるとかえって遠回りになりかねないというリスクがあるため、住人も基本的にはここを通り抜けたりしない。


 後を追って路地へ入ったものの、彼女の姿はなかなか見つからない。表通りに比べて多量に湿気を含んだここには煙草の吸殻や不法投棄の廃棄物、すでに飽和状態と化したごみ捨て場などが数多く見られた。


 下手な遊園地より巧妙に作られているのではないかと思われるこの迷路で、徘徊する者は僕以外に誰も見当たらない。何度も行き止まりに出会い、その都度引き返さざるを得なかった。


 随分と歩き回ったが、それでも彼女の姿は見られない。すでに路地から出てしまったのかもしれないし、もう探索を切り上げようかと僕が腕時計を眺めていると、視界の端に動く影を捉えた。


 咄嗟に顔を上げてそちらへ視線を遣ると、目に入ったのはナナが路地を横切る姿だった。


 僕は早足に後を追い、角を曲がった。


 遠目に見える彼女は、カメラを構えていた。そこだけビル間から太陽光が差し込み、光の筋が通っている。


 被写体は紫陽花で、すでに全盛期を通り越したスポーツ選手のように老いたそれは、よくよく見ると葉の上に蝸牛(かたつむり)が這っている。彼女は何度かシャッターを押した後、もの珍しそうにそれを眺めていた。


 やがて撮影も一段落し、そろそろ声をかけても良いかと僕が一歩足を踏み出しかけた瞬間だった。


 彼女は二本の指で蝸牛を拾い上げると、そのまま口の中に放り込んだ。それを見た僕は咄嗟に後ずさりし、物陰に身を隠した。


 幻覚? いや、確かにこの目で目撃した。


 あの麗しい少女がぬるりとした生き物を口の中に入れ、じっくりと頬張る姿を……。


 正午に近い時刻、気温は最高点に達しようというのに、僕の身体は奇妙な寒気を覚えていた。冷ややかな汗が頬を伝い、ぽたぽたと地面に落下する。


 呼吸を整えた僕は、意を決して再び路地の向こう側を覗き込んだ。しかしながら、彼女の姿はすでにそこにはなかった。

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