六話⑪
「うっ……」と男が声を漏らして空気がしんと静まった瞬間があった。
もうその時には何かが定まってしまっていた。ミーシーは左足の踵を軸に体を少し回転させ、ビニール袋を持っていた右腕を肩の運動のように回し、肘で、掴み掛かった男の腕を押し下げた。
それだけで男は握り込んだはずの指を簡単に引き剥がされてしまった。
続けて次の一瞬で、ビニール袋を持ったままの右腕を外側から男の脇の下に通し、加えてこの時ビニール袋もぐるりと男の腕を一周して巻きついていて、その体勢のまま、キャスター付きの椅子に腰掛けて左足だけで後ろへ移動する時のようにぐぅっと、ミーシーからすれば後ろ側へ、それを引き下げていく。
俺にはそれほど、強い加重には、見えなかった。
だが、男は必死に堪えようとしながらも引き込まれ体を傾けて膝を少し曲げた、その膝の少し上へ、かなり鋭く、真上から真下へ振り下ろすようにミーシーの右足がドスンとめり込む。
はっきりいってもうこの時点で男は大腿を抱えてうずくまりたかったに違いない。勝敗も明らかに決していて、例えば俺がほんの一瞬前に目を瞑ったとしても、音の響き方であったりとか、しゃっくりのような男の悲鳴であったりとか、そんなもので事態を察することはできた。
だが、男がまだ意地を見せたのか、あるいはミーシーがそれを許さなかったのか、おそらく後者だとは思うが、男はまだ倒れなかったし、ミーシーが振り下ろした蹴り足は地面に戻されることなく男の骨盤辺りに添えられたままだった。
男は引き倒されまいとしてか鈍い痛みから逃れようとしてか、……おそらく、……おそらくも何も、確実に後者だとは思うが、若干のけぞるように上体を起こした。
左手はいまだにビニール袋とミーシーの右腕で『今にも負けそうな腕相撲』の形にロックされていて、そのままミーシーは掛けた右足を支点にし、ふわりくるりと逆上がりように動いた。
ただでさえのけ反っていた男は不自然な形に固められた肩の関節の稼働限界とともに中空に浮かび上がり、ミーシーが軽く膝を曲げて地面に着地した瞬間には、地面から一メートル少しくらいの辺りで頭を下にして浮いていた。
ゆっくりと、まるでスローモーションのように、ミーシーが肩を回し、男は浮かんだ後に、ズシンと受け身も何もないまま地面に叩きつけられる。
それはまるで重力が、ちょっとの間だけ仕事をサボっていたかのような、不思議な光景だった。落下の瞬間に男は風船から空気が抜ける音を出して、そして身動き一つしない。
数秒遅れてミーシーがこちらへ歩いてくることに気づいた。俺は男がああして地面に叩きつけられるまでをじっくりと眺めていたようでありながら、全てのアクションはほぼ同時に起きていて、一体それが何秒での決着だったのかはっきりと断言できない。
五秒に、満たなかったように思う。
「死ん……、で?」
「ないわ、ないでしょう。頭から落としたら死んでたかもしれないけど、背中で落ちるようにしてたから死んでないでしょう」
「……ないでしょう、て。そんな、多分みたいな言い方するなよ」
「下が土だから死なないわ」
「うっ。うっ」と小刻みなうめき声が聞こえてきた。確かに生きてはいるようだ。地面がコンクリートだったり、あるいは少し手元が狂って頭から落ちていたら……、そうそう生きていられる人間などいない。クマとかだったら生きているかも知れない。
背中から落として貰えて、分厚い服と脂肪と土がクッションになってくれて、それでももう、呻くことしかままならない。立ち上がろうとさえできないでいる。
「調子乗ってろくに予知せず新技試したら重過ぎて足捻ったわ」
「足、捻ったのか……。大丈夫か?」
「警察来るかも知れないからさっさと逃げましょう。静かにしてたら大分先まで来ないとは思うけど」
「……足は大丈夫か?」
「…………。聞こえてるわ、大丈夫じゃないわ」
「なら、まあ乗っかれ。ありがとな。助かった……。悪かった、ごめんな……」
なんとも不甲斐ない結末を迎えてしまったのは確かだ。
「こちらこそ。どうも、ありがとう。帰ったら帰ったでストレス溜まってたと思うわ。あなたの勇気を湛えましょう。そして私が足捻ったのはあなたのせいじゃないわ。そこで寝てるのが元凶で、私がちょっとした気晴らしで危うく殺しそうになったのが原因でしょう。目茶苦茶痛いから少しここ離れるまでおぶってくれたら許してあげるわ」
俺がミーシーの近くまで歩くと、ミーシーも片足でケンケンしながら近寄って、俺がしゃがむ前から首に腕を回してきた。お互い割と気まずいものかと思ったが、足をしっかり抱えて揺れないようにして欲しいわと、そんな注文が遠慮なく聞こえてくる。
俺だけか、この微妙な空気に言葉が出てこないのは。
「私はアンミ連れて帰ったら良いかニャ?」
「そうだな、とりあえず俺はミーシー家まで送ってまた交番方面まで歩いてくことにする。か、タクシー拾えそうなら途中で拾う」
「アンミはどうするのよ……。なんか今から向かってみると交番にいないわ。昼くらいには家には戻ってるみたいだけど」
「交番にいない……?アンミは、とりあえずミーコに探して貰おう。ミーコはそもそも、ん?あいつは一緒に交番行ったんじゃないのか?」
「……あぁ、なんか役に立たない感じがすごいわ。ちょっと悪いけど一旦ここ離れてちょうだい。私は全然動いてないのに予知する度にズレて……、アンミが?私のこと避けてないかしら、これ。逃げられてる?そんなことさすがに……。アンミ以外は変わってないから、大丈夫そうだとは思うけど、多分場所が悪いわ。予知の……、電波状態とかが悪いわ」
「電波式、だったのか」
ヒントなしの状態でミーコがアンミを見つけてくれることを期待するしかない。電波状態の悪いミーシーを連れ回しても時間の短縮にはならないし、できることなら早めに手当てして休ませてやりたいし、必要そうなら医者へも行く必要がある。
まさか本当に電波式なんてことはないだろうが、例えば痛くて集中できないとか、場所が関係あるのかどうか知らんが本当に場所が悪いとすれば、一旦連れて帰ってからミーシーを中継係にした方が捜索は楽になるはずだ。
その間ミーコが探してくれているのなら、そのまま見つけて連れ帰ってくれる可能性だってある。
交番方面にはいるだろう。見つからないようなら俺がもう一度ここまで出向いて、ミーシーの予知を頼りに公衆電話使って自宅に掛けてみれば良い。
「早く動きなさい。何が悪いか分からないわ。アンミだけよ、なんかあっちこっち消えたり出たりしてるのは。こんなの初めてだから原因は分からないけど、場所を変えてみましょう。場所を、ほら、変えてみましょう」
「やめろ、首を絞めるな。怪我人は大人しくしていろ、何もそんな焦ることはない。そして意外と重いな、お前は。もっとふわふわしてるかと思ってたら修行のように重いな」
「余計なこと言わなくて良いわ。私の勘では駅と反対へ行ったら、……治りそうな気がしてるわ」
◆
駅から反対方面に戻れば治る、というのはどんな根拠だったのか。まずミーシーは俺がほんの数分歩いただけで「今治ったから交番に行きましょう、アンミもそこにいたわ」と言った。
だが、俺が頷いて踵を返すとしばらくして「治ってなかったからもう一回離れてちょうだい」と言った。
……それを三度繰り返して、ミーシーはついに、何も言わなくなった。
嫌がらせというわけではなかったと思う。何故ならミーシー本人も完全に首を傾げて頭を抱えていたし、行ったり来たりする度に「やっぱり悪いから歩くわ」と俺から降りようとした。
俺が歩いていて少し揺れがあると痛みを堪えてかミーシーの左足の筋肉が微かに動いて反応する。ミーシーもさっさと休みたいことは間違いないだろう。
「じゃあ、もっかい離れるぞ?」
「もう一回離れる、というより、多分私が近づくとアンミが行方不明になるんでしょう。一旦離れた場所に私置いて、あなた一人で探せば多分見つかるわ」
「ああ、じゃあ、それで良いか?そんながっかりするな。ミーコも探してくれてるし、俺も家についてお前の手当てだけ済んだらまた探しにくる。戻ってくるのは戻ってくるんだろう?」
「そうね。戻ってくるのは戻ってくるわ。……若干時間差はあるけど。疲れるでしょう、降りるわ」
「無理をするな。俺が降ろさないことすら分からないか」
商店街から公道へと抜け、いくらかは走っていく車もあった。残念ながらタクシーは見つからないし、しおらしいミーシーとの会話も弾まない。俺は張りのない静かな声に戸惑っていた。
ミーシーがこうまで気落ちするなど今まで考えてみたこともない。
「なんか悪いことしたわ。でも、予知できないとか思ってなかったのよ」
「元気出せ……。びっくりするだろう。まさかお前のことを責めてると思ってるのか。しっかり敵討ちして取り返した……。脅威は排除されてる。お前が、というのはあんまり俺の活躍がなくて心残りではあるが、ケガも、骨折とかではないだろう。腫れはまだ少ない。俺も結構骨折とかの経験は豊富な方だ。まあお前の辛抱強さのせいではっきりと断言はできないが、指ならともかく、腕とか足とかだともう普通、動けたりしない」
「でもおんぶされて帰ると思わなかったわ。いくつになったと思ってるのよ」
「いくつになったんだ?そして仮にいくつになったとしても俺の歳を越えることはないだろう。ここはお兄ちゃんに任せておけ」
「お兄ちゃん、私、十八にもなったのにおんぶされて恥ずかしいわ」
「嘘つけ……。無理のある年齢設定をするな。十八歳というのはな、中学生などが憧れる数字だ。逆に低く見られるぞ。恥ずかしいなんてこともない。いや、俺とお前のこの気恥ずかしさみたいなのはあるにしても、八十になろうが九十になろうが、足を捻挫したらおぶって貰って帰るものだ。恥ずかしいことなんてない。お前はよく頑張った」
「そう、おんぶされて恥ずかしい上にアンミもいないわ。……頑張っても。いっつも、いっつも、アンミは……、思い通りいかないのよ」
ミーシーの予知の中で、何故かアンミの所在だけが飛び飛びに移動する、らしい。おそらくミーシーはそのことに不安を感じていて、こんな無力感に満ちた声を出している。
ミーシーが言うには予知できない環境というのは極々稀にはあるらしい。
ただ、今回に限って、どうやらそれでもない。予知はできるのに、俺たちが近づく度に、ことごとくアンミは予知をかいくぐるかのように移動先を変えている。そうなるとアンミはミーシーから見つかりたくないのではないかと思った。
だがそうでもない。これも違うらしい。アンミは交番を探して走り出したが結局交番がどこにあるのか分からなかった。だから、俺たちとの合流を目指して、『俺たち』を探している。
だから見つけた途端ホッとした表情でこちらに駆け寄ってくる、まあ、予知の中では……。
そもそもアンミがミーシーの予知を変更することなどできない。
「アンミも、いや、今回は俺のせいだし、……お前を困らせようとしてるわけじゃないだろう。不満があるなら俺がそれとなく何気なく伝えてみても良い。少なくとも悪気があってあれこれというわけじゃないと思う」
「そんなつもりで言ってないわ。アンミが私の思い通りにならないのは……、今回こうやって見つからないのも……、意地悪されてるのよ、神様みたいなそういうのに。上手くいかないように、上手くいかないように、そういう意地悪をされてるわ」
ミーシーの認識でいうところの予知は『未来を確定させる能力』であるから、それを上書きするにはもう一度予知をするかミーシーが予知の行動から外れることが絶対条件になる。
それをできる人物となると、せいぜい、ミーシーの知る限りでは、お父さんくらいとのことだ。だがまず、ミーシーのお父さんがわざわざそんなことをする意味がない。そしてこの場にいもしないのに、そんなことをできるようにも考えられないから、そうなると原因は不明で、
……その原因不明というのをミーシーは、『神様が、意地悪をしている』のだと、言い換えた。
これが偶然には起こらない出来事だとミーシーは決めつけているし、誰かの意思によるものだとはっきりと言い切った。
ただし、誰の意思なのか全く見当がつかない場合、これはもう神様とかのせいにするしかない。結果的にアンミが無事に戻ってくることが分かっているとはいえ予知の不調はミーシーを致命的に弱気にさせている。
ぎりぎりまで下着泥棒の存在に気づけなかった。ミーシーは予知していたはずなのに。
予知万全であれば俺を止めることも可能だったろうし足を負傷することもなかった。そして今アンミを見つける手立てを失っている。




