六話⑩
「健介もしかしてずっと待ってた?だったら一緒に中入れば良かった」
「いや、下着コーナーを物色する男がいると店の迷惑だ。加えて、一応あんまり入りたくない理由が他にもある」
ああ、やはり何も起こらなかった。
何も起こるはずがない。そりゃそうだ。俺はここに立っているだけで別に何かをどうにかしようとしたわけじゃないんだから、……何もしようとしてないのに何かが起こるはずがない。
「えっとね、ごめんね、健介。やっぱりこれで良いって思った。健介は別に何着てないとダメとか言わなさそう。このままで良い」
「ん、ああまあ、そうかもな。逆に好みを聞かれても困ったとは思う。二人がそう言うならそのままが良いのかも知れん。買い物に誘った俺だけ、なんかこんな山盛りの収穫で悪いな。あんまりしつこく言うのもなんだが、単に遠出して日用品買っただけになっちゃうだろう。他にも買ったらどうだ」
「買おうと思えばいつでも買えるわ。今回とりあえず必要な……、ものだけ買えば良いでしょう」
ミーコは腕からぴょんと飛び降りアンミの隣へと並んだ。俺も荷物を持ってその列に加わったが、ミーシーだけはそのタイミングから何歩か遅れて歩き始める。顔は前方を向いているものの視線は右上に行ったり左上に行ったり彷徨っているし、眉にシワを寄せたり口を閉じたり開けたり、そわそわと落ち着きがない。
「アンミ、荷物は私が持つわ」
「え?なんで、あ、ありがとミーシー」
「本屋に行って本買うはずだったでしょう、あなたは。私、予知してたわ」
アンミからビニール袋を受け取ったミーシーは俺に向かってそんなことを呟いた。
「……?いや、本屋に?ついさっき同じこと言ったろう。本屋には行かなかった」
「そんなはずないでしょう。予知してたわ。ずぅっと最初から最後まで予知して、ズレるはずないくらいそのままにしてたわ」
手に持っていた、ビニール袋をミーシーが憎らしげに放り投げる意味がわからなかった。ビニール袋がズサと数メートル後ろの地面に落ちて、そのまま立ち去ろうとする意味が分からなかった。
買ったばかりのものだ。仮に妥協して選んだにせよ、お金を支払って手にしたものであるはずだ。
アンミは何が起きたのかも分からず驚いたまま動けずにいるし、俺もアンミとほぼ同じだった。言葉も出てこない。
「アンミ、また同じのを買ってきてあげるわ。とりあえず帰りましょう。あれは諦めなさい」
「ぇ……、ぇ……?」
「なんで、なんでだ?なんか、不良品とかだったなら替えて貰えると思うぞ?」
「ついてきてるわ。家までついてくるつもりでいるわ。別に私たちに用があるわけじゃないみたいだから、あれくらいは仕方ないでしょう」
幾分かは声に落ち着きが戻ったようにも聞こえたが、この状況については何の説明にもなっていない。
だから俺は放り投げられた袋を拾いにいって、それからミーシーをなだめてやるつもりでいた。
だが、ドタドタと足音が響いたかと思うとそのビニール袋は『何者か』に拾い上げられ、その何者かはあっと言う間に袋とともにUターンして裏路地に消えた。
「下着泥棒かニャ」
「え?……は?な、そ、そんなのに遭遇することなんてあり得るのか?しかも……、白昼堂々?あれ……、あの例のトラブル起こしてた奴じゃないか?もしかしてずっと潜んでたのか」
事件に巻き込まれたという実感が、少しずつ現実を浸食し始める。
家までついてこられたらそりゃ最悪ではある。走って逃げられないこともなさそうだが、もし……そうか。執念深いかも知れないし、そこらで自転車泥棒もついでにしでかしてということになれば完全に撒くのは難しいのかも知れない。
そもそも強引に奪いにこられたら女の子二人は恐怖を感じて当然であるし、ケガの一つもしかねない。
だからそういう意味では、……ミーシーの行動は間違ってはない。
……間違っては、ない。
「急に予知してたのが変わったわ」
「んなことがあるのか……?」
「普通だったらそんなこと起こるはずないでしょう。念のために帰り道はちょっと遠くまで見ておこうと思ったら……。わけが分からないことになったわ」
こんな理不尽な出来事に対する怒りや焦りがある。
……同時に俺はそれよりもずっと強く悔しくも思った。
楽しい買い物がぶち壊しだと、いや、……、それほど元から楽しい買い物だったわけじゃない。別に欲しくてたまらなかった高級品がなくなったわけじゃない。元々、壊れるほどに組み上がってはいなかったんだろう。
でもそれとは別に、俺は悔しく思う。
ミーシーは良くない出来事に最善で処理を済ませる。これがベストな方法だったと俺に教えている。それは要するにだ、情けない話ではあった。
頼るに値しなかったんだろう……、俺が。
「…………。待ってろ、取り返してくる。二人は交番行って警察の人に事情話しててくれ」
「ちょっと、余計なっ、こと、しないでちょうだい。どうして?予知が狂うでしょう、また買えば良いでしょうが。……?どういうこと?おかしいわ」
「買えるけどな、買えることは買えるわけだがっ、お前が悔しそうに投げるからだ!もしひったくられてお前が平然としてたらそりゃお前、面倒事なんかに首を突っ込みたくないが……っ、今回は無理だ。なんだそんな顔するな!今に取り返してお前は俺にありがとうと言えば良い」
「ち、違うでしょう。予知通りいかなくて焦って投げただけでしょう!大したものじゃないわ、また同じものを買えるわ」
「えと、えっと、警察、交番?私そっち行ってくる……」
「行かなくて良いわ、アンミっ」
「じゃ、私はアンミと一緒に交番行くニャ。健介早くしないと犯人に追いつけないニャ」
ミーシーが俺の袖口を掴む気配がした。俺はそれを躱して走り出す。どっちへ?まずは左だ。これは間違いない。あの男がそう長距離を走れるとは思えないし、もう一度見つけさえすれば俺にだって追いつくことはできる。
次は、右……、か?左、右だろうな、多分。
あの男の家がどっちかとか知らんがひとまずは犯行現場から離れようとするはずだ。で、そして更に奥に身を隠そうとするはずだ。するはずだ。あいつは後ろを振り返って俺たちが追ってないことを確認してから細い建物の間を抜けて更に遠く離れようとする。
だから、だから……、この辺り?
ここら辺とりあえず曲がったと仮定して、あんまりこっち方面は交番が近いから、今度は向こうに出て……、冴えてる。合ってるかどうかはともかく、合ってる気がする。
そしてなんと……、自分でも驚くことに、……合ってた。
ビニール袋をぶらさげた小太りの中年男が肩で息をしながらエッホエッホと走っている姿を見つけた。
幸いというのかこちらが追い掛けていることには気づいていないようだが、俺は俺で息が上がって喉が焼き切れそうになる。額から汗が流れ落ちてきたし、上着を脱ぎ捨てたくなるほど体が熱を持っている。
このまま走り続ければ追いつくことはできる。
一つ、まず、下着の奪い合いになった場合に、ノックアウトされて逃げられてしまってはならない。二つ、下着の引っ張り合いになって商品そのものを台無しにしてはならない。三つ、大きな騒動に発展するような重大なケガをさせずに無力化しなくてはならない。
三カ条守れたら、俺の勝利だ。
いや、……違うな。そうじゃない。もう既に負けているからそれをゼロに戻したいんだ、俺は。
見たはずだ、あいつの……、ミーシーのあの表情を。隠しきれない無念の表情を……、いや見てない!
見てないが、見てないことは見てないにしてもだ、無念だったに違いない。
袋を放り投げて立ち去るミーシーを追い掛けて俺はこう聞いた。「本当に良かったのか?」あいつはこう答える。「良いわ」、……良くない!断じて良くない!
実際には真意を確認する前にすぐ犯人を追い掛けたから、そんなことをあいつは言ってないわけだが……、言ってなかったとしても、仮に言ってたとしたら断じて良くない。
俺は立ち向かうべきだ。不安に思うことなど何一つない。ここで立ち向かわないことなどあってはならない。俺は追いつけば良い。とにかくまずは追いついてその下着を返せと至極当然な要求をすればいい。
話が通じない相手だったなら組み伏せる。アンミが交番に行ったはずだから、警官が駆けつけるまでの時間抑え込めば、それだけで良い。それほど難しいことではないだろう。
おそらくミーシーは手間とリスクを避けたんだろうが、俺はそれじゃあダメだ。自分自身のプライドと、……こう、ミーシーの笑顔とかなにやらそういったものをしっかりと取り戻さなくてはならない。
「あんた信じないかも知れんけどね、……御告げがあったんだよ。二人連れの女の子が下着を買うからそれを盗めって……。あれは神様だった。あんた神様に逆らえるかね。無理だよ。俺だってこんな真っ昼間から下着泥棒なんてやらないわ普段なら」
曲がり角の数メートル先、男は俺の姿に驚いた後、そんな言い訳を俺へ放った。俺ほどではないにしろ相当に疲れているようで、まだ肩で息をして、袖口で汗を拭っている。
「……、とりあえず、……その、袋を返せ」
息切れを堪えて迫力がない台詞だったからか、男はうろたえる様子もなく「また買えば良いだろ!さっきお前らが捨てたやつだろ!」と喚く。
確かに……、正論ではある。汗だくになって危険な犯罪者を追い掛けて、わざわざ自分で交渉するべきじゃない。厄介事は警察に任せてせいぜい俺たち一般人は他の被害者が出ないことを祈りつつ、替わりの商品を買えば良い。
それが法治国家の常識的振る舞いだと俺も内心では十分分かっている。多分ミーシーはそうしたかったんだろう。『話が通じない上何をしでかすか分かったものじゃない変態犯罪者に関わることのリスク』をあんまり過小評価すべきじゃなかったかも分からん。
「とにかく袋を返せと言っているだろう。そしてあわよくば自首しろ!」
「す、するわけないだろ馬鹿じゃないのか!だからこの馬鹿、分からんやつだな。神様がこうしろっていってやってるんだから捕まるわけないんだ今日は」
今日は?……こいつ常習犯か。なおさら野放しにはしておけない、が……、自首を勧めて効果がない。
警官はまだ来ないだろうし、相手が襲い掛かってもこないこの段階で俺が迂闊に飛びつくこともできない。体重は俺よりもありそうだし、この男も決して足がすごく遅かったわけじゃない。
普段運動してない俺が比較基準とはいえ、そこそこに体力はあるだろう。不意打ちを受けて馬乗りで殴りつけられたら泣きべそかいてミーシーに報告しにいくことになってしまう。
一瞬たりとも油断するわけにはいかない。今、ここに限って言うなら走れるデブは皆柔道家くらいの偏見と危機感を持っていて良い。体力を取り戻しつつ、仮に戦闘になった場合でも戦闘開始から警官到着までの時間を短く納める。
これが今俺が取るべき最善の策であることは間違いなかった。男はじりじりと後ずさりし、俺が怯んだ隙を見出せばあっと言う間もなくまた逃げ出すだろう。じゃあ、まずは、トークで、時間を消費できないか試してみるか。
「お前は……、あれだろう。ブリリアントピープルのとこにいたやつだろう」
「だったらどうした!」
「どうしたと言われても……。別にどうもしないが。ところで……、お前は例えば、例えばだな……、す、……好きな色とかはなんだ?」
話題を探すのに必死になっているところ、後ろから突然声が聞こえた。
「はぁ……、アンミ、交番行っちゃったわ。さっさとしないと警察来るわよ」と、ため息混じりに。その聞き覚えのある声に、俺だけでなく犯人の男も驚きを隠せないようだった。
タッタ、タッタ、一向にペースを落とす気配もなく何の躊躇もなくこちらに走ってくる。
「あー、もう。こんなの相手してないでさっさと帰れば良いでしょう!」
苛立ち混じりに声を出して、まして全力ではないにしろ体を跳ねさせている最中に、声の揺らぎはほとんど感じられなかった。
「ミーシー、いや、お前は一緒に交番行って誰か連れて来ないとなら……、あ、おい。ちょっと?ミーシー?おい?」
走ってきた……、どころか、ミーシーは俺の横を通り抜け、男の目の前までペースを変えず進み出て、男の手から袋を勢い良くひったくった。
何の警戒もないままきょとんと佇んでいた男も一瞬固まった後何が起きたのか理解できたようで、こちらへ戻ってくるミーシーの右肩を掴み、引き寄せようと……、したんだとは思うんだが。俺は慌てて飛び出そうとしたとは思うんだが。




