二話④
「猫……。なあ、飼って良いんだよな?ちょっと脱走癖があるが、餌とか与えてればその内懐くようになるだろうし」
「好きになさい。割ともうあなたには懐いてるでしょう」
「そうか?そんなこともないと思うが……。じゃあ、名前を決めよう。猫が猫がというのもなんだろうし、ミーコとか、そういう名前で良いか?」
「…………。寅吉にしましょう。もし寅吉というのが気に入らないなら寅吉エースというのでも良いわ」
「ん……。まあ、ちょっと待ってくれ。意見があるなら聞くが」
ミーシーに首根っこを掴まれてアンミに頭を掴まれている猫の様子を観察する。続けて左足を指で引っ掛けて持ち上げてみる。微かにぴくんと反応はあったが、抵抗する気力はもう失われているようだ。
「いや、メスだ。仮にオスだとしても、寅吉というのは……、かわいい感じの名前じゃないだろう」
「じゃあ寅吉エースでも良いわ」
「それはお前……、本質的に何も改善してないし、呼ぶ時どうせ寅吉って呼ぶだろう」
そもそも猫の名前に対立候補が出るなどと思っていなかった。なんとなく自然にミーコで良いだろう、じゃあそうしましょうというスムーズな決定を想定していたのに、あんまりかわいくない名前を横に並べられてしまった。
困ったな。寅吉なんておっさんみたいな名前だが、そういうこと言うと怒るかも知れん。だが寅吉はちょっと嫌だな。
「でもトラ柄でしょう?」
「まあ……」
暫定ミーコということにしたいんだが、アンミが味方してくれたりしないだろうか。猫は耳をぴくぴく動かして「フニャ!」と不機嫌そうな鳴き声を上げてまたジタバタと動き始めた。
アンミがまず頭を掴んでいた手を離し、ミーシーはわざとなのか、ぶらんぶらんと腕を揺すって猫を俺の方へと放り投げた。俺の腕の中にすとんと収まる。一応、逃げ出そうとはしなさそうだが、俺の手の甲に爪を立てている。乱雑に扱われて警戒しているところなんだろうか。
引っ掻かれている方の手をどけて頭を撫でながらまたひっくり返してメスであることを確認する。まあ、間違いない。腹を撫でるついでに肉をつまんでみたが、少し痩せてるかな。野良だとこうなるもんかも知れんが。
「虎子というのはちょっとダサイでしょう?」
「そこは同意するんだが……、無理にトラを引きずるからだろう。どうだ?アンミはなんか意見はあるか?」
「えっ?私?」
「ああ」とだけ答えた。アンミははっと顔を上げてぱちぱちと瞬きを繰り返した。ついさっきまで触っていた猫のことにも拘らず、アンミは特に名付けに関心はなさそうにしていた。
「名前……。じゃあ、クマ」
「…………。クマではないな」
期待していた通りにはならないもんだ。対立候補が増えてしまった。そもそもクマというのが名前のつもりで挙げられているのか確信がなかった。仮に茶色の猫だったとしてもクマと名付けんだろう、普通。
「クマはダメ?」
「アンミ、実はな、これはな、猫なんだ。クマじゃない。どこら辺にクマの要素があるんだ?」
「そう?雰囲気?小さくて丸いのは大体クマ」
「アンミの場合は名前がというより種類がクマなのよ」
「いや、種類が猫なんだ。雰囲気……、というのなら、まあ、百歩譲ればあり得ないことはないかも分からん。内面的なことまでは分からんから……」
「じゃあクマスケ。健介もスケがつくから」
「…………いや、ミーコが良いな、俺は」
「ええと、……ミーシーは?寅吉が良いんだよね。ジャンケンする?」
まずこの二人の残念センスに平等に機会が与えられることに反発心が芽生えた。猫の名前がクマやトラでは呼んでも返事しないんじゃないだろうか。そしてだ、割と自然に提案されてはいたが、ジャンケンが公平だなんてのもとんでもない誤解だ。
「まあ、意見割れたら仕方ないわね。私もジャンケンで良いわ」
「いや、通常ならそうかも知れない。ジャンケンが公平なのかも知れない。だがな、……よく考えてもみろ。予知能力者が相手だぞ。俺が絶対勝てないだろう」
「手加減してあげるから大丈夫よ」
「どうやってだ、手加減も何もないだろう、ジャンケンで……」
「じゃあどうするのよ、なんなら別にみんな好き勝手呼ぶのでも良いわ。野良猫とかは元から割と好き勝手呼ばれてるもんでしょう。どう?それなら公平でしょう?」
「それはそれでちょっと嫌だ。こう、しよう。名前というのはな、呼び掛けるためにつけるものだ。だからまあ、返事をするかどうかで決めよう。公平にというよりは、ほら、本人が気に入るかどうかという、そういう解決でどうだ?」
これが一番、スマートな解決策になる。三人平等に機会が与えられているようには見えるが、実のところ勝算があっての提案だった。クマだのトラだの言われたところでこの猫には意味するところなど分からない。
人間的感性で反対意見を出してくれたりはしないわけだが、逆にいえば、なんと言われようがどれも同じに聞こえるはずだ。その中でミーという響きは、おそらく猫の耳によく届くことだろう。それらしく猫の鳴き声のように呼び掛ければ、当然こいつは猫なんだからそれに何らかの反応をしてくれる。
「じゃあそれでも良いわ。というか、正直なんでもいいのよ。滅多なことで猫呼んだりしないわ、私は」
……なら辞退して欲しいところだが、ミーシー本人はそこまで譲ってくれるわけでもなさそうだ。俺が言わなきゃ多分辞退してくれないんだろうし、先の流れや救助での活躍を考えると俺などあまり強いことを言える立場にない。
「そんなこと言うなよ。まあ、名前を決めてな、わだかまりはなしで、決まった名前で呼んでやってくれ。じゃあお前からな。返事しなくても拗ねるなよ?」
ミーシーはフンとつまらなさそうに顔を一度背けてから、中腰になり猫と目線を合わせた。
「ほら、寅吉、こっち見なさい」
やはり寅吉はないなと思いながら猫の様子を確認するために目線を落とした。というより、今明らかに反応した。もそ、と腕の中で体をうねらせて猫は目をぱっちり開けてから耳を動かした。挙げ句に、「ニャー、ニャー!」と息を詰まらせたかのように低く二度鳴いた。
「返事してる感じはしないわ。あなたの判定で良いわよ、もう」
「ああ……。まあ」
ミーシーは一歩引いたような感想を口にしたが、これを返事なしとするのは明らかな不正行為だろう。トラか……。まあ、トラ柄だし、多分トラはネコ科だし……、だからまあ、当人が気に入るなら、やむを得ないのかも知れない。あんまり俺好みではないが。
「じゃあ次、アンミかあなたか呼び掛けてみなさい」
「そうだな。次は、アンミ呼んでみてくれ」
まだ、焦るような段階じゃない。クマならどうだろう。いくら猫でもクマは違うと思ってくれるかも知れない。あるいはもし、クマでもお返事するのなら、もうこいつは何であろうが呼び掛けられたら反射的に返事する猫だ、きっと。実際思った通り、アンミが一歩こちらへ出て「じゃあえっと」と言った時点で猫はもう「ニャー!」と鳴いた。
「えっと、クマ?お返事して?」
「ニャー!……ニャー!」
びっくりするくらい反応している。アンミに飛びつこうとしているのか、腕から逃れようと暴れ始めた。押さえて抱え直すが、どうやらこの猫、お返事は得意なようだ。抱え直すついでに仰向けに転がして逃げ出さないようにしてみた。
「ううん……。あんまり?」
「まあちょっとマシになった方でしょう。逃げるだけならまだしもソファ引っ掻いて破ったり棚に登ろうとして物落としたりで元はかなり暴れん坊だったのよ。ある程度慣れてたらそれで支障はないでしょう」
「じゃあ次、健介?」
「ああ、そうだな」
一応お返事が得意な猫ということは明らかになったながら、いざこうなると少し身構えざるを得ない。二人の呼び掛けにはばっちり返事していたわけだから、ここで頑張って一番のお返事をしてくれないとまた話し合いに逆戻りになってしまう。
「おい、ミーコ。俺にもお返事してみせてくれ」
仰向けの猫は、一度ぱちりと瞬きをして、口を少し開けた。
「…………」
……ちょっと揺すってみる。……え、どういうことだ。
「ミーコ?ミー……、ほれ、おい、どうした……?」
猫は口を半開きにしたまま首を少し傾けて、こいつは何言ってんだろうというような顔をしていた。おい、馬鹿なんだろうか、この猫は。
背中とかをつねってみるべきか。揺すってみるがせいぜい瞬きをするくらいで声を出さない。故障したのかも分からん。
「…………。寝てるのかな。ほら、寝てる時は返事はできないから」
「いや、起きてるのは起きてるでしょう」
「じゃあその……、もしかすると、ほら、さっきのニャーというのは、この猫なりの、なんていうんだろうな。反対の意を表明したという可能性もあるし……、そういう意味では逆にな?俺の命名については意義なしと、そういう受け取り方もできなくはない、だろう?」
「そんな面倒くさいこと言ってないで、じゃあその猫に決めて貰いなさい。どれが良かったのか言いなさい」
「……ニャー、ミーコ」
「?」
「ミーコで良いですニャ」
空気が凍って、ぞわりと背中に悪寒が伝った。腕を解いて後ろによろめく。猫は、猫らしく、くるりと回ってちゃんと足から着地した。トラ柄の、黄色い猫はこちらをじっと見つめている。俺はもう一歩下がって、猫を見つめるのが耐えられなくなって、ミーシーの顔を見つめる。
「どうかしたの?」
「…………」
言葉が出てこない。俺の聞き間違いに決まっている。俺の願望が幻聴を生み出してしまったに違いない。あるいはこの中の誰かが、器用に腹話術をしてみせたのかも知れないが、……さっき、とても奇妙なことに、俺の腕の中から、聞いたことのない声が響いた。
「じゃあ、そっちに置いて、誰のとこに行くかで決めましょうか。というか、返事してるでしょう?」
「返事?おい、待ってくれ。本当に待ってくれ。猫が喋ったのか、今?」
「猫は喋らないわ。喋るわけないでしょう」
「いや、……いや、だってお前、じゃあ誰だ、今のは」
「ミーコが良いですニャ。クマでもトラでもないニャし」
「…………。おい、やめろ、寄るな。なあ、おい、説明してくれ。魔法生物が生まれてしまってないか?人語を操る猫が目の前にいるように思えてならない。喋らないんだよな、猫は」
猫が、口をパクパクさせながら、話しながら、俺の方へとちょっと進み出た。俺はとりあえず三歩ほど下がってアンミとミーシーを交互に見る。
これはだって、今までと比較にならないくらいに、この上ない不気味体験だ。喋る猫が愛らしいなんてことを過去考えていたかも知れない。だが、実物がもし目の前に現れたら、足に力も入らない。視界の端に捉えるのが精一杯で、真正面に向き合うことさえできない。大きく何度も深呼吸をして、両手のひらを猫に向けた。
「猫は喋ったりしないでしょう。ちょっとお利口になってるだけよ」
「返事はしてる。ミーコが良いって」
「腹話術とかでは……、ないんだよな」
「言っても聞かない阿呆だと困るでしょう。ちょっとコミュニケーション取れた方が良いとは思うのよ」
「確かにそうだ。コミュニケーションを取れた方が良いかも知れない。魔法か?これはお前、なんかこの猫にやったのか?何故相談をしなかった?ヤバイ猫になってしまってるだろう……」
「毎度毎度脱走されたら困るでしょう。一緒に住むなら躾も必要でしょう。相談しなくても良いでしょう、これくらい。阿呆になるわけじゃなくて賢くなってるのよ?」
心臓がドクドクと脈打っているのが分かる。ちらりと猫の方を見た。そして一瞬で目を背ける。見た目は猫のままだ。俺がビビっていることを察してなのか、その場に座り込んでこちらをじっと見ている。
確かに逃げ出そうとしていないし、なんなら俺のことを心配そうに見ているところから考えるに、場の空気を読める賢い猫になったのかも知れない。……がだ、それをすんなり受け入れられるほどの器量が俺にはない。
「賢く……、人語を操るほどにか?」
「お行儀良くできるくらいにはなったでしょう。でも別に中身は猫のままよ。そんなにビビらないであげなさい。あなたに懐いてたのに可哀相でしょう。寂しい時話し掛けたらお返事くらいしてくれると思うわ」
ゴクリと唾を飲み込んで、またちらりと猫を見た。……しょげてる、んだろうか。人並みに傷ついたりするんだろうか。そうなると、この猫は人語が理解できるわけなんだから、あんまり下手な発言をすべきじゃない、気もする。
「喋ると気味が悪いかニャ?」
からりとした、声色だった。まあそんなにお気になさらずといったような、あっけらかんとした様子だ。これはまあ、ファンタジー映画の世界でなら、かわいらしい生き物だとは思う。
「……いや、そんな、ことはないぞ」
「まあ無理しなくても良いニャ。なんならちょっと喋らないようにもしてられるニャ」
「どうしよう、……気遣われた、猫に」
「気味が悪い子は棄てるかニャ?」
陽光の差す中で問われて幸いだった。これが夜だったら身震いを隠しきれず腰を抜かしていたことだろう。それか、声色の加減のお蔭かも知れない。呪うような、祟るような響きはない。なんにせよ、冷静に考えて、ここで『棄てる』を選ぶことほど恐ろしいことなんてない。
だが、大丈夫なんだろうか。俺の精神はこの喋る猫をずっと相手にしていて正常さを保っていられるんだろうか。
「高橋、健介だ。……よろしく、な?」
「高橋ミーコですニャ」
「猫は元からちょっと気味悪いもんでしょう。飼うんでしょう?責任持って世話しなさい。さすがに今更放り出すとか言い出したらちょっと引くわ」
「俺の性格の問題じゃないだろう、……これは」
魔法使いにとって、動物が喋るというのは、特段不思議なことじゃないんだろうか。平然とこの状況を受け入れている。……というより、平然とこの事態を引き起こした。
おそらく、ちゃんと躾ができるか分からないからという、ふんわりとした理由で、特殊生命体を生み出してしまった。それは根気強く、諦めずに取り組めば良かったんじゃないのか。一般的な感性からいって、これは化け猫だろう。ビジュアルが普通の猫だからまだファンタジー生物っぽさがあるが、これの世話を……、するのか、俺は。……戸惑うな。