六話⑥
「じゃあ……、そのぉ、私のはミーシーが選んでくれて、私が選ぶことになってたミーシーの服は健介が……」
「うぅん?……あれ、ダメか。ミーシー、お前はどう思うんだ」
「こっちの買い物はこっちの買い物で……、厚意に甘えて。でも、仕方ないからなんか雑貨屋さんでちっちゃい雑貨か日用品でも私に買ってきてちょうだい、あなた枠で。アンミもそれで良いでしょう。この男は服の善し悪しが分からなくて困ってるのよ。服を買えというのはアンミのポケットが破れてるからだし、私が短いスカート履いてて寒そうに見えるからでしょう。だから気に入る服を選びたいわけでもないわ。そもそも人間、中身が大事でしょう。一応、適当に雑貨買って貰うわ。それで良い?」
「うん。なら、それで良いかも」
「あ、ああ、それで良いのか。なら、楽しんで買い物しててくれ。じゃ、……またな」
立ち止まり、二人が店の中に入ることだけ確認し、ホッとため息を吐く。
中身が大事、で納得されては本末転倒な感は否めないが、今回この場合に限って、二人のための、俺の役割は、ちゃんと終えた。最悪気晴らしさえできたなら栄一は貯金されても構わん。
「まあ良いとは思うけど服買うかどうか分からないニャ、これは」
「結果までついてくるかどうかは微妙だが、当初の目的の半分までは終わった。二人の気晴らしは二人に任せるしかない。買わなかったら買わなかったで、別日にまた別方面に出掛けて貰うことだってできる。ここからは俺の買い物だ」
ところで、と話し掛けようと思ったら足元に何も見当たらない。ミーコは俺の買い物などどうでもいいと言わんばかりに既に俺から数メートル離れた場所を歩いていて、歩きながら何かを探すかのように首を左右に往復させた。
さすがにここまでの距離の散歩はしてないであろうから、店の立ち並ぶ景色なんてのが物珍しく見えるのかも知れない。
「お前は首輪だけで良かったのか?他にも気づいたものがあったら一応言ってくれ」
「いらないニャ。健介あんまり話し掛けないで欲しいニャ」
一応水を向けてみたが、まるで釣れない様子で冷たい対応をされた。
俺からミーコへの『喋るな』は、ミーコから俺への場合、『話し掛けるな』になるわけだが、いざそう返されるとつらい。ついさっき、首輪を買ってやったのにとか、そんな恨み言が出そうだった。
「…………そりゃ、その、なんというか、誰もいない時は、喋っても良くないか?」
「向こうに二人と、…………後ろの方に一人と、あと、店の裏の方歩いてく人がいたニャ。あんまり人はいないニャけど……」
返事として成立してないことはないが、話をするつもりは全然ないようだった。ミーコがいうその何人かは明らかに会話が聞き取れる範囲の外にいる。
俺が慎重にしろと言ったからそうしているのかと思ったが、どうやらそんなふうでもない。常にきょろきょろを繰り返していて、人を見つける度にそれを視線で追っている。
突然くるりと後ろを見ることもあるし、人の姿が見えなくなってもしばらくの間はそちらをじっと凝視していた。店や商品を見るなら、まだ理解できる。景色とかあるいは猫が興味を持ちそうなオモチャや食べ物を見ているなら、特に違和感はない。
だが何をそんなに、人を見ているのか。さすがに警戒するにしたって範囲があまりに広過ぎる。そもそも、猫の視力でそんな先の人を、正確に視線で追えること自体が不思議だ。随分遠くの人物に対しても、その動きに合わせて首を動かしている。
「人を?探してるのか?まさかとは思うが」
「そういうわけじゃないけどニャ」
ならどういうわけか考えてみたりもする。
大勢の人がいるわけでもなく、ちらほら歩く人に目立った共通点もない。手芸店は随分先ということだったから、ミーコのペースに合わせて歩いていくが、他の買い物客も別にミーコのことを見つけて寄ってくるということもなかった。
であるから、その過度な警戒姿勢というのは俺にとってはかなり奇妙に思われる。まして、大事件が起こるならミーシーが止めるはずだと言った張本人がこんな様子なのはおかしい。
「……トイレに行きたいとか、そういう話か?そういえば、トイレも買うか、トイレの砂と、猫の餌とかおやつ。ずんどこ見て回ってこれば良かったかもな。まあ、最初に買うと相当荷物が邪魔にはなるが、見るだけなら」
「トイレじゃないけどニャ、トイレはちゃんと土に還りそうなところに、……あ」
と、ミーコは何かに気づいた様子で突如尻尾をピンと立て、それはもう完全に迷いなどなく相当な素早さで、俺を置いて走り出した。
「ん?あっ、おい、待っ……、だ、えっ、……嘘、ど」
すぐに止まってくれることも期待したが、明らかに戻るつもりのないスピードを維持している。
慌てて後を追ったもののスタートの段階で出遅れた俺はたった五十メートルかそこらの全力疾走で追いつけないことを確信して目でだけ向かう方角を確認した。
「っ、はぁっ、あんな速いもんか、追いつけるはずがない、ふっ、はあっ……、うっ、はあ、はぁ」
ご丁寧なことに、ミーコは俺が全く追いついていないにも拘らず一度フェイントのように曲がり角を右折する素振りを見せつけ、バッと横跳びだけをしてそのまままっすぐ走り去っていった。
まるで挑発するかのような動きだが、俺などは遥か後方で膝に手をついてぜえはあやってる最中だ。仮にその場で十秒待って貰っても追いつくことなど厳しい。
「はっ……、はっ、はぁ、いらんだろ、あのフェイントは……。どこ行きやがる、あいつ……、んく」
買い物予定を一時中断して、まずはミーコ捕獲作戦に取り組まなくてはならないのか……。
なんだ?そもそもなんで急に走り出した?魚……、屋?そんなのあったか?
いや、そもそもそんなに理性が吹き飛ぶものか?猫の行きそうな場所?
分からん……。とりあえず息をまずは、整えて、端まで探して……、一生懸命探して……、何周か巡って……、それでも行方不明のままなら、最悪ミーシーを頼る他ない。
「犬用の、リードを買うべきだった……。まさかこんなに、早速いなくなるとは思ってなかった……。ミーコ……」
ある程度の距離早足で進んで、きょろきょろと地面を探す。裏道を覗き込んで踵を返しまた地面を探す。事情を知らない買い物客に俺はどんなふうに見えるんだろうか。
どうすれば自然に見えるだろうか。落とし物を、してるんです。落とし物を、探しているんです。これは、そういうことだから、どうか、変質者だとは思わないでくれ。
ミーコ捜索に難儀する理由の一つに、なんとも言い難いが……、人目があった。
すれ違いざまに俺のことを不思議そうに振り返る買い物客が何人もいた。堂々と見るわけでなくそれとなく、一瞬だけこちらへ視線を向け、目が合ってしまったりなどすれば、『何か用かい?』といった様子で微笑みを向けられる。
なんとも言い難い微妙な距離の遠さで、頼ってくれても構わないといった素振りを何度も見せられた。俺はその度にぎこちない微笑みを返し軽く会釈して足を早める。
天気の良い日に商店街に買い物に出掛ける高齢者などは、割合、見ず知らずの俺などに対しても目を配って、それでいて優しいようだ。
落とし物などであれば、その優しさに甘えることはできた。だが、あいつは、自由意志を持って高速で移動する高度知的生命体だ。多人数で取り組んで効率化できる見通しが立たないし、何故発射されてしまったのか、その理由だって謎のままだ。
姿を見つけたら、話し合いを、しなくてはならない。話の分かる猫だったはずだ。というより、少ししたら、戻ってきてくれるはずだ、俺の元へ。
「…………」
そんな期待も空しく、結局商店街の端まで進んでみてもミーコの姿を確認できなかった。途中で横に抜けてどこかに隠れているかも知れんが、念のため商店街より少し先の方も見て回っておくか。
やれやれどうすればと途方に暮れつつふとため息をついて顔を持ち上げると、例のごとくきょろきょろする俺がお困り事中なのを察してなのか、こちらの方へ視線を向けた……、背の高い、スーツ姿の女性がいた。
目が合ったりはしない距離だったが、長い黒髪、すらりと長身でスーツを着た、美人であることはまあ間違いない。
俺はすっと視線を落として単に伏目がちに歩いている買い物客ふうの男を何気なく装って、すれ違う際には距離を取れるようそれとなく右へ舵を切り歩き続けた。
商店街は抜けたにせよ、その女性は他の買い物客などとは年齢はもちろん服装も違っていて、何をそんな電柱の陰に隠れるように佇んでいるのか、どういう事情でそこにいるのか、下手をすればきょろきょろしている俺よりもよほど人目を引くだろう。
何よりもまず、美人だった。途中また伏目がちをやめようと顔を少し持ち上げた時、まだ、ぞくりとする、何故か、その女性は、俺の方を見ている気がする。
余計なことに俺の困り事を見透かしてしまったのか、こっちを見ている……、いや、見ていた気がする。今も見ているかどうかは微妙だが、できることなら親切な人間でないことを望む。
通り過ぎなければならない。
まずは、その女性の立っている場所を通り過ぎて、そして、ミーコの捜索を、そこから再開する。一歩一歩その場所に近づく度に、その『見られている』という感覚は大きくなっていった。
また、顔を上げたら、こちらを見ているような気がする。
……自意識過剰だ。気のせいだ。だが、少なくともさっきは見ていた。今は見ていないかも知れないが、俺が立ち止まったら見るかも知れない。ふとした拍子で目が合おうものなら、多分俺は凍りつくことになる。
そのくらいに、やはり美人だった。
二十歩、いや、十歩そこを過ぎたら、買い物客ふうの男が何気なく、今通り過ぎたビルの名前でも気になったかのように振り返ってみようか。
おそらく横顔も美人だろう。そっぽ向いてて後ろ姿だったとしても美人だろう。黒スーツをぴったりと着こなした、佇まいが凛々しく思えたし長い黒髪がよく似合っていた。
結局俺が通り過ぎるタイミングでその女性が動く様子はなさそうであったから、俺は数歩も歩かない内に何気なさげに振り返ってもう一度その姿を確認しようとした。
「…………」
「…………」
その女性は、両手の指を絡めて胸元に置いていた。口元は少し微笑んでいるように見えた。
両目ともしっかりと開いていて、だが、まるで笑っていない。
左右のどちらに体重を傾けるでもなく、爪先はしっかりと並行だった。
じぃと、じぃと、つまり、……その女性は、俺のことを見ていた。
その女性はやはり美人で、俺はやはり凍りつくことになったわけだが、それはその、つい先程まで抱いていたはずの僅かな胸の高鳴りをかき消すに十分なほど、とにかく強い視線だった。
俺の後方を見ているわけでなく、完全に俺だけを、まっすぐ、見ている。
例えばだが、目が合えば風鈴が鳴るはずだった。風鈴が風になびいて微かな音を鳴らすはずだった、とする。
それが……、その女性は、じぃと、見過ぎている……。
俺の心の風鈴はあまりの強風に引きちぎられて壁に叩きつけられて粉々になりそうな、要するにこちらの想定を遥かに超えてじっと見過ぎている。
幸いなことに俺の足はその時ですら一歩ずつ前に進んでいて、首をゆっくり前方に戻してからも、その女性が俺に駆け寄ることも何か語り掛けることもなかった。
ただ、危うく吸い込まれるところだった。目はこれ以上ないほど見開いていた。薄い唇が少しつり上がって、するりと指が動いた。俺があと一秒硬直していたら、何かしらのアクションが引き起こされていた可能性はある。
探し物を手伝ってくれそうというような、今まで見てきた種類とは違う。むしろ俺という獲物を見つけたかのような表情だった。獲物を見定めるような見開いた目、警戒を与えないように作られた微笑みらしきもの。
おそらく宗教か、宗教でないにしろ何かしらの勧誘だったり、あるいはデート商法のような類だろう。
あまり高価な物を買えなさそうな身なりが幸いして見逃して貰えたのかも知れないし、あるいは全て俺の邪推で単に親切な人だったのかも知れない。声を掛けて貰えなかったから、酸っぱいブドウだということにしたいだけかも分からん。
まあ……。なんにせよ、その女の素性など知る必要がないことだ。俺はこんなところで油売ってる場合じゃない。そのまま早足で立ち去った。
ミーコを見つけるか、あるいはミーコが見つからなかった時のための言い訳をなんとかひねり出さないとならない。
どうしたって二人からの失望を買うことにはなるが、あんまりに間抜けな実態が見抜けないようには工夫をしたい。いや、下手な勘繰りを生むかも知れない事態を回避することに全力を向けようか。
ミーコが悪いのは間違いないが、俺への懐き具合を気にされる可能性がある。俺がミーコへ嫌がらせをしたかのような印象を与える可能性がある。
それは事実に反する想像であるから、そうでないことを示すための根拠が欲しい。だが俺本人がミーコの唐突な裏切りを説明できない。結局ミーコを捕まえて説明を求めるのが一番だろう。ミーシーの買い物の邪魔をするのも悪い。なんとか自力で、ぎりぎりまで粘ろう。きっとなんとかなる。
ミーシーが注意喚起しなかったということは、俺はそれを、自力で解決してこの騒動を秘密にしたまま買い物を終えたということだ。
なら、希望はある。
その希望が、歩いた距離に比例して失われていき、焦りに置き換わっていく。結局うろうろ横道を見て回ったところで、ミーコの気配もないし、痕跡も見つからない。猫の足跡らしきものがわざとらしく用意されていたなら俺は迷わずそれを辿っていっただろう。
それくらいに焦っていたし、冷静な判断力も失われていた。まずは魚屋を探すべきだと思いついて商店街方面へまた早足で戻ることにした。が、その思いつきがひどく間抜けなことにはすぐに気づいたし、商店街の中央付近まで歩いてもなお、魚屋というのがそもそも見つからなかった。
深呼吸をしてよく考えてみると、最初に行方不明になった辺りで、聞き込みをすべきだった。猫が走り去るのを見ていた人間がいるはずだし、ヒントを得てから捜索範囲を絞り込む。
そうしよう、と、探すのをやめた時、見つかることもよくある話のようで、遠くの店先の地面に希望の尻尾が揺れているのが見えた。
汚名返上の足掛かりがくるくる輪を描くように行ったり来たりしている。




