六話②
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ああ、そんなこともあった。せいぜい何時間か、待ち合わせ場所に誰もいなくて、俺の場合は落ち着きなくうろうろしていたわけだが、結局諦めて家に帰ったその時、俺は果たして、……心細かったり寂しかったり、焦ったりしただろうか。
いいや、多分そんなことはなかったはずだ。
内心、十分な諦めはついていて、そう至るいくつかの推測も抱えていた。着信が怖くて寝つけなかったのは嘘じゃないが、別に大した不安もなく、特にそれほどの不満もなく、どうせ翌日には大学で事情を聞いて文句を言えば片づくことだと思っていた。
その程度のことだった。ただ……、もしもそれがその時じゃなく今だったら、俺はそんなに気楽に構えていられただろうか。
『俺は』、『ミナコのように』、何事もなかったかのように振る舞うことはできなかったろう。文句は言ったはずだ。文句を言うべきだと思った。
許す許さないを論じているわけじゃなく、あくまで儀礼的な、わだかまりなく仲直りするための謝罪の場が必要だと思う。俺が約束をすっぽかしたことについても、もちろん、文句を言ってくれることを期待していた。
怒ってくれたら良かった。不満そうにしてくれたら良かった。それすらもまるでなく、どうしてミナコは、ああしていられるんだろう。
俺はおそらく、講義室を出たばかりの、寝ぼけていた時の方が、幾分かは正直だったろう。責任の所在を確認したかったわけでもなければ、ルールを付け加えたかったわけでもない。
ただ単に、俺たちの関係が壊れていないかと聞いた。
壊れるはずがないだろうという笑い声が一瞬で吹き消すための小さなろうそくの火を、お前の前に置いた。
案の定、そんなことは不安に思う必要などないことを、証明して欲しかった。だからもし、ミナコも、少しでも不安に思ったなら、俺にそうして欲しかった。
少し不安に思ったと言葉にしてくれたなら、『壊れていないか』と聞いてくれたなら、『そんなことはない』と、言った。
◆
「ふぁ…………。すごいな。寝起きが良い。あぁ、しかもこれは結構奇跡的だな。六時、十秒前か」
鳴り掛かった目覚ましの頭を叩いて一秒に満たない電子音を止めた。ミーコも多分起きてないだろう。飯を食いにいこうか。本当ならもう少し前に起きて内臓の準備が整うまでの時間も必要なんだろうが、今日に限ってはぐっすり眠れて目覚めも良い。
「よっ、と……、あれ、起きてるのか。おはよう、ミーコ」
「おはようニャ、健介。今日買い物だから私も早起きしてるニャ」
「んぅ……、買い物の?買い物いつ行くか分からんぞ。昼からかも知れんし」
「念のため起きてるニャ。まあ、健介、私のこと置いて買い物行ったりしそうだし、健介起きる辺りから見張っておこうと思っただけニャ」
「あ、そうなのか?ついてくるつもりでいたのか。いや、どうだ、それは……?」
「ついてくつもりでいるニャ。一応健介側の買い物の方を優先してついていくから、そのつもりしててくれたら良いニャ」
寝起きにそんな問題を用意されるとは思ってもみなかった。すぐにクリアな判断をできるような準備がない。そもそも行きたいと言い出すことなど想定していなかった。
そりゃあ、別に猫を連れて歩いていること自体には不自然さなどはない。だが……。
「……だが、店は入れんし、……そして、喋るな。極力人目に触れるな。無理か?無理だよな。だったら家で待っててくれたりしないか?」
猫が喋るという奇妙な出来事を、人通りの多い場所で披露するわけにはいかない。喋るなというのはひどく意地悪な響きではあるが、他人の前で、ミーコが、喋ると大変なことになる、その程度は、さすがに分かってくれてるはずだ。
「…………。店の外でうろうろしながら待ってるニャ。それに健介、私がその注意受けるのはなんか違う気がするニャ。私はバレないように話せるけど、健介が変に話し掛けたりして頭がおかしい人みたいに見えるだけだと思うニャ」
「それも嫌だ。だからな、ミーコ。家で待っててくれたりしないか?」
ミーコの言う通り、俺自身の注意深さも心配にはなる。俺が迂闊に話し掛けてもニャーと猫っぽい声を出して場を誤魔化してくれるだろうか。いざミーコが何気なく言葉を話してしまった場合など、俺は『腹話術ができるんですよ』と周りの人間に自然な説明ができるだろうか。
これは正直、買い物にわざわざハードルを置いて難易度を上げているだけに思えてならない。猫がショッピングを楽しく思うようなこともないだろう。
「ペット同伴で買い物、悪くないと思うニャ。というか、もしついてくるなと言われても閉じ込められたりしない限り私も散歩がてらそっち方面出てくニャ」
「……ほお、もはや、どうしても行きたい体勢なんだな」
「ま、私のための買い物でもあるわけニャし、そして、私の首輪買うのに、私の好みとかそういうの必要だと思うニャ。今回はさすがにどうしてもついていくニャ。たまには私のわがままも聞いてくれて良いニャ」
「そうか。そんな、楽しみか?装備増えても連れ去り防止の効果しかつかんぞ。首輪がお楽しみなら朝から行ってくるが、ただ、……好みがあるなら今聞ける。なんなら何種類か買ってやっても良い」
「ついていくニャ。そういうことニャ。一緒に行くのを楽しみにしてるから、健介見張って勝手に出てかないようにしておくニャ」
「ああ……、ま。ああ、分かっ」
俺が部屋のドアを開けると、ミーコはぺたんとその場で床に座り込み、
「分かった、そうか、おやすみと、言って、私が外に出る前にドアを閉めると、私はトイレに行けませんニャしかし、それでも良いというのなら……」
「…………」
そのまま閉めるつもりなら何かしら、悲惨な出来事が起きると念仏調子で唱えた。俺はノブに手を掛けたまま、動きを止める。ミーコも俺から視線を逸らすつもりはないらしく、お互い硬直して何秒も過ぎた。
「……やめろ。分かった。いや、そんなつもりはない。閉めようとしてないだろう。ほら、出れるぞ?外出れるぞ?トイレなら、ほら、お前の自由に出掛けてくれて構わない」
「健介は買い物に出掛けるまである程度私がぎりぎりの均衡を保っていることをしっかり認識しておかないと、後悔することになるはずニャ。健介は後悔するニャ。後でこうしておけば良かった、ああしておけば良かった言っても遅いニャ」
俺を、脅すようになったか。
一刻も早く首輪が欲しいのかも分からんし、遊園地行っている間ちょっと寂しかったりしたのかも分からん。とにかくここまで言うからには譲るつもりはなさそうであるし、好き勝手なお散歩コースに出るより、俺の周りをうろうろさせていた方が安心は、できるかも知れん。ただ……。
「ただ……、普通に喋っちゃいそうなんだよな。俺は頭のおかしい人間で通用するし、たまたまご近所さんに見られても変な噂が立って集会の議題にされるくらいで済むかも知れんが、お前が喋ってるのを誰か他人に聞かれたらその時点でアウトだ。猫好きが連れ去る分には手分けして探してやるし、ミーシーが協力してくれれば高い確率で発見することはできるだろう。が、人語を完璧に使いこなす猫などいることが発覚したら多分……、普通であればな、テレビ局に町全体を包囲される。偉い学者が大挙して中身がどうなってるのか開けたがるだろう。科学の発展のためにその猫を渡せこの国賊が、と罵られたら、さすがに俺もすみませんと言ってお前を渡すしかなくなるかも知れん」
「……開けたがってる学者には渡さないで欲しいニャ。それは健介のこと祟るニャ」
今回、出掛け先が無人である可能性はゼロだ、少なくとも店員はいるし客もいくらかはいるはずだ。ミーコのおしゃべり機能が露顕するとどうなるか考えてみると……、もういっそお出掛け自体が禁止なんじゃないのか、この猫は。
「祟るな、祟るところまでいくな。だからその前段階で気をつけてくれ。俺は平穏無事に過ごしていたい。猫が喋る理屈が科学的に解明されたところでちっとも面白くなどない。猫は、喋るな、普通喋らない。それが守れないのなら、ここは閉める。お前のためだ。お前を奪われるわけにはいかない。そのためなら部屋がどうなろうが構わないし、枕がうんこまみれでシーツやカーテンがビリビリになっていてもまあ、仕方ない。ちょっとは嫌だが、仕方がない。今後お前が顔を合わせる度に俺を引っ掻くようになってもそれも仕方ない。それでもお前を失うよりはいくらもマシだ」
「十分、健介の言いたいこと、分かってるニャ。私は絶対に他の人間に気づかれない自信があるし、そんな大事になるならミーシーが私を止めるはずニャ?仮に健介が考えてるみたいに二、三人が気づいたとして、普通だったらそっちが頭がおかしいグループになるだけで、誰も猫が喋るとか本当に信じたりはしないニャ。そういう不安なら私が一緒に出掛けるのを止める理由にはならないと思うニャ」
そう、なるのか。俺が例えばこの状況を知らない一般市民だとして、猫が喋っているのを目撃したとする。その場合、……まあ、まず自分の頭を疑うことにはなる。幻聴が聞こえたと思うはずだ。
加えて複数人の証言が一致した場合であっても、テレビ局などは証拠映像がない限りまともに取り合うこともない。撮影されたとしても、合成かどうかなんて他の人間には分からないだろうし、まあそもそも最悪の事態が重なるとすれば、ミーシーが事前にそれを注意勧告する可能性は、高いだろう。
「……まあ、論破された、のかな。なるほど、まあ、それなら、……安心だな。分かった、すまん、不毛なやり取りだった」
猫の外見が愛らしいせいでか、ちゃんと考えて話してるのかまですぐには分からない。多分ヘマしないしボロを出さない。その辺りは分かっているつもりだったが、俺自身のアドリブ能力が不安なのか、ミーシーに対する信用度がいまいち低いのか、ひとまずの問題がクリアされていると言われてもちょっと心許ない。
「ついてって良いかニャ?喋らない約束はできないけど、喋ってもバレない約束はできるニャ」
頭で納得できる理屈があっても不安の根っこが完全に消えたりはしない、わけだが。仮に騒ぎの火種がある場合、木登りミーコを一日放置していたミーシーが気を使って事前に食い止めてくれることを期待しなければならない、わけだが……。
部屋の真ん中にすとんと座ったまま、こちらをじっと見て、俺が納得するのを待っているミーコに、『理屈じゃないから待っていろ』、とは言えそうになかった。
『代わりにどっか連れてってやる』、などと誤魔化せない。
本来ならこいつは、買い物の話題など最初から俺に振らず、素知らぬ顔で家を出て、ついてきちゃったとかそんなわがままで希望を叶えることができたはずだ。
ミーシーがいるからなどと言わず、絶対に喋らないと口先で約束を済ませてドアから出て行けば良かったはずだ。
喋ってもバレない自信があると言いこそすれ、喋らない約束はできない、というのは、俺の譲歩が必要な微妙な線引きではある。律儀なことに、俺の了承を、わざわざ求めている。
それをどう評するべきなのかは難しいところだが、俺はその正直な相談事に、一応耳を傾けてやるべきではある。
「とりあえず、今日は、一緒に行く予定ということにしよう。だが、例えばな?お前がスーパーに食材買いにいく時もついていく、俺の大学にもついてくるとなったら、それはちょっと話が別だ。それはその都度、個別に話し合いをする。で、この件もだ、一応ミーシーに確認はしてみる。何も言われてないが、もしだ、ミーシーがダメだと言ったら、それはな、なんだ、埋め合わせだけは約束してやれる」
「引き止めて悪かったニャ。健介、ご飯食べてくると良いニャ」
「ああ、食べてくる」
猫は普段、……何考えてるんだろうな。俺が猫だったら首輪なんていらないし、実際つけたら鬱陶しいだけだろうに、その買い物についていっておそらく口出しするつもりでいる。
結局ドアは半開きのまま、ミーコを閉じ込めることはせず、階下へと下って朝食準備の整った食卓へ向かうことにした。
「おはよう、アンミ。そして、いただきます。若干遅刻気味だが間に合って良かった」
「おはよう、健介」
「おはよう、ミーシー。今日は買い物に行くことになってたが……」
「おはよう……、分かってるわ」
階段を下りて早々席に着き、食事中の二人へ合流した。遊園地前の再来とでもいうのか、ミーシーはまるで溶けたアイスのようなやる気のない生返事を面倒くさそうに短く切って、そのままモグモグと食事を続けた。




