六話①
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心細かったり、寂しかったり、焦ったりしただろうか。その時の俺は。
徹夜をしたって平気な時は平気なもんだが、その日は俺の眠気に追い打ちを掛けるかのように曇天で薄暗くて、……挙げ句、完全に履修登録を誤った、外れ曜日だった。
一般教養のなんとか文化論とか、なんとか概論とか、なんとかの歴史とか、……あるいはまあ、なんとかAというのは比較的単位を取るのが簡単だったりして、ただし、そんな基準で申請をすると、こんなふうに、特に興味もない講義が並んだりする。
ただまあ、俺がこうまで眠いのは講義の内容とはあんまり関係がない。
堂々と寝ているのも教授に悪いし、正々堂々潔く、残りの授業はサボることにしようか。そう思い立って講義室を出た。
そして少し歩いて本当に何気なく顔を上げたところで、ちょうどばったり、寝不足の元凶と、顔を合わせる。
「…………。詳しく、状況を、説明してくれないか?俺は昨日、……いや、日付としては今日なんだけどな、なんか嫌がらせを受けたのかな?」
「どうしましたか?嫌がらせを受けたのですか?誰からでしょう」
「嫌がらせ受けたのかと聞かれてもな?嫌がらせされたかどうかなんて俺が知るはずないだろ。なんか眠そうだな、寝ぼけてるのか?」
「なるほど……」
全く悪気がなくてああいう事件が発生するのか。『そういえば』というくらいのことを言うならせめて不親切の重なりが引き起こした事故ということになりそうなものだが、どうやら二人ともまるで思い当たる節がないようだった。
頭がはっきりしてれば俺がどんな被害に遭ったのか簡潔に伝えられただろうが、俺はこの時、そんな反応をされてようやく、説明が必要だということを理解した。
「何がなるほどですか?犯人に心当たりがありますか?それならば人物像を教えてください。健介に嫌がらせをするに至る経緯などを推測します」
「人物像だと……?犯人はお前だ」
「僕が犯人、だとするとですね、犯人の気持ちで考えてみましょうか。おそらく傲慢な気持ちで嫌がらせをしました。驕り昂り、そして……、ついに嫌がらせを、します。あるいはついちょっとした出来心で?という可能性もありますが、それは嫌がらせの程度にもよります。軽度の嫌がらせであれば出来心によるものかも知れません」
全然本気で考えたりしていないであろうことが表情からすら分かる。記憶を辿るどころか思いつきの空想で回路がショートしているようだった。
「いや、軽度の嫌がらせというのはどの程度が軽度なのか。ティッシュの続きが出てこないのはどうですか?そうするとティッシュが犯人です。僕ではない。どうですか?」
「どうですか……?」
「ふふふ、その推理はまるで的外れですね。私が真犯人を言い当ててみせましょう。犯人はおまだあーっ!」
「な、なんだと。僕が犯人だと、決めつけるのはまだ早いのでは。僕は何かと犯人に仕立て上げられがちですが、しかしここでは公平な判定をするべきである。陽太が犯人なのでは?投票する権利を求めます」
「投票だと?とぼけるのも大概にするのだ峰岸は。警察が多数決で犯人決めてるとでも思ってるのか?堅実な捜査によって検挙するのだぞ」
「まあ、待て……」
本当に、心当たりがないようだった。
「まず、……増えるな、増えないでくれ。二人してあっちこっち話を飛ばされると何から間違ってたか追い掛けようがない。説明をしよう。俺は昨日な、いや日付としては今日だが、夜中に、深夜公園付近を一人徘徊していた、何故だか分かるか?」
陽太がまずそれを考え始めたようで、親指と人差し指をちょこちょこちょこちょこくっつけては離してというのを素早く何度も繰り返し、二秒ほどしてからパンっと壁を叩いた。
ああ良かったと、ホッと息を吐いた。そうだ、その通り、思い出すのにまあ二秒くらい掛かるだろう。
「徘徊老人っ」
「ああっ、……早押しだったのか。これはあれですか?陽太が不正解の場合はちゃんと僕に解答権は移りますか?」
「…………。徘徊老人じゃない。じゃあお前にも解答権をやろう。問題文の続きだ。夜中の二時過ぎに俺の携帯電話が鳴り響いた。どんな用件だったと思う?」
「徘徊……、夜中の、二時に電話ですか?ヒントはありますか?」
俺はその質問を受けるつい一秒前にはヒントを述べている。それがどうしてつい昨日の自分自身の行動と結びつけられないのかがむしろ不思議だった。
「ああ、今ので分かったのだがあ、峰岸はもう、そこまで言われて分からないのか?」
俺はまだ、二人の内どちらかが正解が出してくれると期待していた。というよりも、そもそもクイズを出しているわけじゃない。ただ単純に、自分の胸に手を当ててよく思い出してみて欲しいだけだ。
『そういえば昨日、こういうことがありましたね。もしかして』と、言ってくれたら、そこが俺の話したいことのスタートラインだ。
「じゃあ陽太でもいいぞ、答えはなんだ」
「徘徊老人っ」
「それはさっき間違いでした!解答権の乱用である。もう陽太は失格にしてください。僕は真剣にヒントを得ようとしているというのに。制限時間などはありますか?」
「……そうだな。あることにしようか、全然話が進まないからな」
「ええっと、徘徊老人は正解に近かったでしょうか?どうでしょうその辺りは……」
「俺が何に気づいて欲しかったかというと、深夜二時に、電話してきて、星を見にいきましょうと言ってきた奴がいる」
「あっ、それは僕です。ん?どういうことだ?いや、まだ僕だけとは限らない」
「いやお前だ、お前しかいないんだ。今日の午前二時に星を見ようと電話してきた奴は」
「はい、ではなるほど。僕が電話をしました。しかしそれは当初の話からするとどう嫌がらせと繋がるのでしょう?嫌がらせではありません。それをこう、例えば電話がですね、聞き取りづらくされたとかであればNTTが犯人という可能性があります」
そういう認識であろうことは察していた。こうきっぱりと言い切る自信に満ちた姿に圧倒されて話を終えてしまうところだったが、一度頭の中で出来事を整理してみると、やはりその言い分はおかしい。
NTTが俺個人に嫌がらせをしてきたりはしていないし、嫌がらせをされるような心当たりもない。何故その低い可能性を考慮に入れながら、自分が犯人だとは気づけないのか。
「その時点ではな。で、お前は陽太も誘ったと言ってた。そしてしばらくすると陽太からメールが送られてきた。ちょっと待て、……ええとな、……これだ、これが証拠だ。『じゃあ二時半に公園集合な』と書いてある。やたらと楽しそうな顔文字までついている。言い逃れしたいことはあるか陽太」
ミナコがそもそも嫌がらせをしようなどと思っていたはずもないであろうから、俺は事実確認と弁明を求めている。
『小さな手違いでした』『そうだったのか』『あれがこうでした』『なら仕方ないな』『ごめんなさい』『いいや気にしなくて良い』たったそれだけで済みそうなことだったのに、結局俺は証拠を用意して犯人を追い詰めていかなくてはならないようだ。
「何故矛先がこっち向くのか分からないのだが?証拠ですと?ははっ、まさか凶器がそんなものだとでも仰るつもりか、こいつぁたまげた」
「なんだその鬱陶しい小芝居は。お前も犯人だ。ちゃんと書いてあるのが見えるか?二時半に、公園集合だと、メールを送ったのはお前だ。俺はこれを見た時、純粋に、良い奴だなと思った。偉いなと思った。深夜に叩き起こされても嫌な顔一つせずに応じてやる仲間想いな人間だ、すごいな」
「まあそうだな。で、それがどうかしたのか?」
「えっ、どうかしなくて俺がいきなりメールの話し始めたと思うか?俺が二時二十分にだ、深夜の、二時二十分に、公園に行ったら、誰もいなかった。誰もだ、誰一人、いなかった。そして俺はこう思う。ちょっと来るのが早かったなと。そしてだ、二十分が経った。俺はこう思う、お前ら遅いな……、と。……で、そしてそこから五分が経った。お前に電話をした、繋がらなかった。メールもしてみた。全く反応がない。俺はこう思う、あいつ携帯置いて家を出て、待ち合わせ場所から勝手に移動しやがったなと。俺はその後、おそらく一時間くらい、深夜の公園付近をうろうろうろうろ徘徊し続けた。その間に何度もお前に電話をしたが、全く繋がらない上に折り返しの電話やメールもなかった。どうだ、分かったかどういうことか。その後家に帰ってすぐに寝ようと思ったが、お前らからどうして来なかったと電話が掛かってくるんじゃないかと怖くて全然寝つけなかった。それが、寝不足の原因であると共に、嫌がらせかと疑う理由だ。弁明はあるか?」
「ああ……、そんなことになっていたとは。僕は曇ってきたので中止にしましょうと陽太に連絡しました。そしてとても綺麗な星空が見れて良かったなあと思いながらぐっすり眠りました」
「俺への連絡は?」
我ながら情けない泣きそうな声だったろう。
「当然必要ならば陽太が連絡をするだろうと思っていました。というよりも、僕が連絡した時点では健介は行くかどうか悩むなあというような返事でしたので、中止しますという連絡は深夜なので眠っていたら迷惑かなと配慮しました」
「確かに……、俺はまあ悩むなあと返事したな……。だが何故星が綺麗だと思った時にその夜中に連絡で迷惑かもなあという配慮をしなかったんだ……。何故、中止の時にだけ眠っていたら迷惑かなとか思ってしまうんだ……。なるほどな、まあ事情は、お前の言い分は分かった。そうだな、そうなるとお前はそこまで悪くないな」
「異議ありっ、峰岸が誘ったのだぞ?峰岸が連絡するだろ普通は」
「いやでもな陽太、俺はお前のメールで公園に向かったんだ……。お前の言い分も確かに分かる。ただ俺は別に誰を悪者だと決めたいわけじゃないんだ。俺は、嫌がらせを受けたのか?いいやそうじゃない。単に行き違いがあったんだと、それだけ説明してくれたら良いんだ」
俺に苛立った雰囲気があったからなんだろうか。もしかするとそうかも知れない。
そのせいで責任の押し付け合いが始まってしまった。やいややいやと相手の行動の悪い点をあげつらって言い合いをしている。ああ……、別に、そういうつもりじゃなかったんだけどな。
「いいえ、ではでは言わせて貰いますが陽太が悪いのでは?陽太は健介から電話を受けたのでは?にも拘らずそれに応じず健介は徘徊老人でした」
「俺は夜中に起こされて中止だと聞いたからもうぐっすりピーコちゃんだぞ?どうやって電話に出るのだ。俺はもう峰岸から『やっぱりやりたい』とか電話来たらやだなと思ってサイレントモードにしてたのだぞ。というか健介の行動にも疑問なのだが、俺が電話に出なかったら峰岸に電話すれば良いだろ。峰岸に電話したのか?それなら、峰岸も同罪だぞ?」
そうして言い合いになるとどうやら俺にも責任の一端があるらしいような、話にはなった。だが当然俺にも俺なりの言い分というのがあるわけで、こうすると、なかなかどうして、こんな場面で全面的に自分が悪かったとは認められないもんだろう、それぞれ。
「いいやミナコには……、連絡してない。家の電話だろう。ミナコが出掛けてるとしたら、電話に出るのはミナコの家族ということになる。そうか、新事実だな。サイレントモードなら出ないわけだ」
「まあ、僕は携帯電話というのは持っていませんが……。けれども、電話をしてくれたら良かったとは思います。健介が僕に電話を掛けて僕以外が電話に出たことなどありますか?そして公園にいたのなら陽太の家が近いのでは?」
「当然陽太の家にも行った。電気は消えてたから陽太の家に集合してるという線は消えたが、チャイム押しても反応がなかった」
「そんなにぐっすりだったのか俺は。すごいぐっすりだな。峰岸が夜中に起こすからだな」
「……そうだな。まあ分かった。とにかく、そうか。誰も悪くなかった、事故というのは起こる。ただ連絡をな、気をつけてくれ。俺も反省することがあるようだ、ちゃんと極力両方に確認することにするから」
「まったく峰岸には困ったものだ、携帯持ってないとか生きた化石なのだが」
「ひどく陽太は一方的である。生きた化石の反語はなんでしょう?携帯電話はですね、くそぅ、落とすと大変なことになるから持っていないだけです。それをなんだと、化石?馬鹿にしているであろうことは分かります。あっ、そういうことか現代人の化石であれば携帯電話を持っているということですか?」
「携帯を持っていない人類というのはもう三百万年以上前に絶滅したはずなのだが?」
「三百年ならともかく三百万年前?猿人ですその頃というのは。当然携帯電話どころか普通の電話すら持っていません。そんな当たり前のことも陽太は知りませんか?」
「まあ、いや、携帯持ってないのは家の方針なんだろう、ならそれを責めるのは酷だ。解決だ、解決したということにしてくれ。問題はそこじゃない」
落とすと大変なことになるから、持たせて貰えてなかったのか。まあそれだけが原因とは思えない。
ミナコは……、詐欺やら出会い系やら携帯電話にまつわるありとあらゆるトラブルを引き起こす可能性を秘めている。安全性を考えるならむしろ、持たせない方が正しい。例え俺たちが不便だと思ったとしても、その妥当な判断には俺も賛成票を投じざるを得ない。
まあ結局のところ、これを上手く回避できるような建設的な話し合いなどにはならなかったし、上手く謝罪なんかを引き出すことすらできなかった。




