五話㉗
「あ、そうだ。ついでといっては何なんだが」
「今……、ついでって言ったニャ」
「勘が良いなミーコ。ついでって言ったか。いや、買わなきゃならないものが他にもある。キャットフードとかも希望があるならそれも買わなきゃならん。だがまあ、何より散歩趣味の猫を首輪もなしにしておくわけにはいかないことにも気づいた」
「野良猫だと思われて攫われたり駆除されたりするかも知れないニャ」
「そういう場合は必死に逃げろと言いたいところだが、首輪程度でリスクがなくなるならそんな高いものじゃないし買っておくべきだろう」
「あっ、首輪?ミーコ、かわいい首輪が良い?」
「普通の首輪で十分ニャ」
「猫から首輪の希望出たりしないでしょう。首輪って名前で売ってるのなら何でも良いわ」
「あんまり変なのもないと思うけど、その辺は健介に任せるニャから、良さそうなの探して欲しいニャ」
アンミは自分の服よりミーコの首輪の方が食いつきが良い。ミーコの方へとくるりと振り返って指で輪を作り、どうやら首輪をつけたらどうなるかでも考えているようだった。
じぃっと、アンミはミーコの様子を見つめている。ミーコも見つめられていると食べづらいのか、その間微動だにせず、俯きがちにこちらの様子を窺っていた。
その間にミーシーは食事を終えたらしく、「ごちそうさま」と流し台に皿を重ねて二階へと上がっていってしまった。一応、食事中に必要な打ち合わせは済んだということになるんだろうか。俺も食事の方へ意識を戻して口を動かす。
「最初は三人でペット用品の店ということにしよう。で、俺はその後個人的に買うものがあるからそれを探しにいく。その間に二人で服を探してみてくれ。そういう感じだな」
「うん」
出掛ける時間なんかはミーシーが考えてくれるだろうか。まあそれこそ、きっちり固めておく部分というわけでもないし、二人の都合に合わせよう。
「ごちそうさま。美味かった。さてと、アンミは何か質問はあるか?」
「ううん、私は明日、みんなで出掛けることだけ分かってたら良い?」
「まあそうだな。時間はいつでも都合が良い時に声を掛けてくれたら良い。ミーシーがその辺は決めてくれるかも分からん。特に準備しておくものもないだろう。午前か午後かで済む話だから、飯は普段通り作ってくれて問題ないはずだ。まあもし、服選びに時間を掛けるつもりなら、出掛け先で軽く食事しても良い」
「じゃあそこはミーシーに任せる。良かったね、ミーコ。首輪買って貰える」
「まあ、良かったニャ。……アンミも買って貰えるニャ」
「良かった。ミーコ喜んでる。ミーシーも多分喜んでる。ありがとう、健介」
「どういたしまして。こちらこそ、毎日飯も洗濯もしてくれてありがとう。俺の生活水準も確実に向上したな。なかなか面と向かって感謝する機会はないかも知れんが、ありがたく思ってる」
「うん。でもそれはね、健介とミーシーが少しずつ手伝ってくれるようになる。今日は多分ちょっとそういう話もしてた」
「そうだな。今日はミーシーが風呂の準備をしてくれてるはずだ。ちょっと俺が確認をしておこう」
俺も皿を重ねて台所を後にし、風呂場の様子を確認してみる。もうついでに入浴も済ませておくか。伸びをしながら服を脱いで浴室へ入り、一応念のため指だけ浴槽に沈めてみた。
問題なくお湯が張られている。よく、疲れが取れそうだ。ミーシーを誉めてやるべきかな。それともこんなことくらいでいちいち礼を言われるのを嫌がるだろうか。
体を沈めてなんとなしに百数え、熱めのシャワーを浴びて洗髪して、石鹸を擦ってシャワーを浴びて、再び浴槽に潜って再び百数える。ふらふらと浴室を出て歯磨きうがいを済ませたら、後はテレビでも眺めて時間を潰そう。そして、明日の予定に備えて今日も早寝を心掛けて布団に入ることにする。
「…………」
でも、ダメだった。テレビを点けた途端に、ミーコがソファの隣へ歩いてきてぷいと俺に尻尾を見せた。猫も賢ければ、テレビを眺めるようだ。それはともかく、それ以降、まるでテレビの内容が頭に入ってこない。
もちろん、テレビの内容がまるで理解できないわけじゃなく、面白い場面では笑うし、悲しい場面では切なさを感じている。
だが、心はまるでそこから引き離されたままで、どこかから、朝の続きをしましょうと心の声が聞こえている。
俺はまた静かに静かに、笑いながら悲しみながら、思い出を掘り起こす作業へ連れ去られてテレビの場面とはまるで無関係に色々なことを嬉しく思ったり、切なく思ったりする。
でもまあ、この作業は、さして進展しないだろう。
俺はせいぜいミナコのことを思い出していたい。せいぜい半年かそこらが、色の残った思い出なのだから、それを光に透かしてみたり、端の途切れ方を見て同じ種類のものを揃えてみたり、そんな遊びをするのが精一杯だった。
アンミは皿を手早く片づけた後、風呂へと向かっていく。途中で、俺の様子を覗いたりも声を掛けたりもしなかった。
俺は一人で、まあミーコもいるにはいるが、テレビの前に腰掛けながら、また、思い出の発掘作業を再開しなくてはならないようだ。
誰かが声を掛けてくれたら良いなと思った。
誰か俺を現実へ引き戻してくれたら良いなと思った。
眠くて仕方なくてそうなのかも知れないし、もういっそ眠さとはまるで関係なくたまにこういった病的症状を引き起こすようになってしまったのかも知れない。ああ、もう、テレビに出ている人間の顔すら分からない。
テレビの音が甲高い笑い声なのか、それとも場面に合わせての効果音なのかすら判別がつかない。ゆっくりとゆっくりと、俺に届くテレビの音量が下げられて、映像は荒く滲んでいって、最後にはもう、赤や青の点のように見えた。
ああ、ミナコという人物を知らせるために、どれを選べば良いだろう。どれを選んだところで大差などない。それくらいに毎日というのは他愛なく過ぎ去っていて、きっとその価値というのは他人には分かりようがない。
これはそもそも、俺は誰かに、説明を、したいんだろうか。もしもそうなら、あまりにも、無価値な行いに思われる。
◆
『例えば峰岸ミナコは、自転車に乗れない女の子だった』
『でもそれを大して重要なことだとは思わない』
「道路交通法というのを詳しくは知らないので、中高生を対象にした自転車教習所というのがあるのだと思っていました。ありますか?と聞きました。多分ないですと答えられました。しかしそれを疑ってググったところ、検索結果が全て自動車教習所でした。逆にそれは不自然なのでは?一件もないなんてことがありますか?検閲を受けているのでは?政府が自転車教習所の存在を隠そうとしているのでは?」
それに俺はなんて答えただろう。それになんて答えていたら、意味がある出来事だったんだろう。
ミナコは自転車に乗れない女の子だった。それを今は、もしかしたら少しだけ自転車に乗れるようになったのかも知れない。俺の家に残されていた自転車一台を犠牲にして、少しはミナコの役に立てたのかも知れない。
俺はそれを大切に思っているだろうか。捨ててもいい思い出だろうか。
いっそ別に、こんなの覚えていなくても良い台詞だろう。どうせミナコはまだ十分に自転車に乗れるとは思えない。自転車に乗りたいと言い出したりなんてしない。
さあどうだ。こんなことを聞いたところで、俺がそんなことを話したところで、何も、何一つ解決したりなんてしない。何一つ明らかになったりもしない。一つ拾い上げたごみくずのような感想のないミナコの台詞は、一体何と繋がったんだろう。
ああ、だから俺は、『自転車に乗れないのか』『自転車に乗りたいのか』と聞いたのかも知れない。そうだったのかも知れない。果たしてそうだったとして、どうしてこう、こんなものを、手放すのが惜しいのか。
その価値や意味を、他人には説明できない。ただもしも、……もしも俺の心をそのまま載せて綴じられるのなら、確かにそれは一つ、大切な思い出の一部だった。
ザルで濾せば残らないであろう、ともすればしばらくすると思い出せなくなるような、そんな、それでも大切な思い出の一部だった。
ミナコはどうせもうとうの昔に、そんなこと諦めてしまっただろうに、俺はまだそれを諦めきれずにいるわけだから。これはつまり、俺の今抱く気持ちの一部でもあるんだろう。誰が一体それを分かってくれるだろう。これは、意味のない記憶だ、でも、それでも良いんだと言う。
◆
『ミナコはその癖、子供嫌いだった、嫌いか、苦手らしかった』
『それも大して重要なことじゃない』
「小さい子が相手なら叩いて言うことを聞かせます」
「叩くな……。口で言って聞かせろ」と俺は至極真っ当な反論を口にした。一体何を発端にしてただろう。
陽太が小さい子のように駄々をこねた時のことだったか、多分陽太が小さい子はこうして駄々をこねれば大抵意見を押し通せると実演した時のことだったように思う。
もちろん大人である陽太を叩いて言うことを聞かせられるのならそうすれば良いが、ミナコはあくまで小さい子を前にしたシミュレーションで叩くべきだと言った。
「もちろんまずは口で言う。けれどももしもその子に信念があって言うことを聞かなかったら叩いて言うことを聞かす」
「例えばな……、お前がその小さい子だったとしていきなり叩かれたらどうだ?どんな気持ちになる?」
こうしたところで、ミナコの人間的な幼さが露顕する。
「?叩かれたくないので言うことを聞くしかないな、という気持ちになります」
「まあ……、そうだが。うん……、話が通じなさそうだしな」
それはいくらか克服されたんだろうか。どうせ変わったりなんてしないだろう。俺は危ないなと思えば間に入るし、極力は子供とは接触させないよう努めている。
どうしてそうなってしまったんだろう。どうしてかそうなる理由がちゃんとあったとして、それを今更どうにかしてやれたりするだろうか。
どう続けて話をしていればそれが和らいで、俺の声がちゃんと届いただろうか。
誰にも敵意など向けて欲しくなかった。できることなら、ミナコの不満のない塩梅で、人間関係を広げられたら良かった。でも、そうはならなかった。
嫌いなものは嫌いで苦手なものは苦手なままで、どうしてか俺と陽太だけは気に入ってくれているようだった。それすらいつか、気が変わってしまったりしないだろうか。いつの日か、飽きてもうどうでもよくなったりしないだろうか。
俺が手を差し伸べた時、一体どうしてミナコがそれを取るのかが分からないままだった。普通、人と人とで、それが自然なことだったとして、俺とミナコの繋がりは多分少しだけそれとは違う。
どれほどそれを正してやることができただろう。俺は今になってそれを後悔している。ミナコの人格的な欠点は確かに目につく。けれども、それ以上に、……いや、それを差し置いて、どうしてか、どうしてという部分が重要なのにそれが掘り起こされることなく俺は、ミナコのことを好きでいる。
◆
『ミナコのことが造形的に好きだったろうか』
『いいや、別にそうじゃない』
『心の広さが好きだったろうか』
『おそらく大抵の場合そうじゃない』
◆
結局いくら考えたところで、人の心なんて、俺の心など、上手く整理されたりなんてしないだろう。気持ちというのはあくまでその瞬間ごとに抱くものであって、それがもし連続しているように見えたとしても、必ずしもそのまま続いていくとは限らない。
全てが偶然のように気ままに、俺の心を決めている。にも拘らず、どうして俺はそれを大事なものだと決めているんだろう。
なあ、むしろ、俺に教えてくれ。俺がそれを大事だと決めて、俺がどうしてもそれを手放す選択ができない理由を教えてくれ。
どこにあるんだろう、どの部品がその決め手になっているんだろう。最終的には、もうそれら全てが俺の心を作り出している。たった一つを抜き出すことに意味なんてない。
けれどたった一つを捨ててしまった時に、それが成立するのか分からない。積み重なった地層はその全てを丸ごと拾い上げて精査して、綴らなくてはならない。そうしないと多分、俺は何が幸福だったのかが分からなくなってしまう。
一つ明らかなピースもないままに、幸福を描けるようには思えない。そう、だから俺が、全てを掘り起こすのを待っているんだろう。
こうしてまた一つを綴じる。
続けてまた一つを綴じる。
その時の感傷のままに、その時の理性のままに、心の重しを載せて一つ一つを丁寧に綴る。ステンドグラスの破片のように、一つずつには大した感想なんてない。
それでも繋ぎ合わせれば、何か俺の欲しかったものが、そこに現れるはずだから。
ああ、なんて疲れるんだこれは。
俺はもうテレビを見る気力もない。ぐっすり眠ろう、今日は。ぐっすり眠れそうだ。
焦点も定まらないままに手すりに寄り掛かりながら階段へ踏み出して、それを何段踏んだかも分からないまま自室へ入り、電気を消した。いつまで、これが続くんだろう。
第五話『ただあなたが、どう思うか』
Es ist vollkommen zwecklos, es auf Erde oder Sonne zu schieben.




