五話⑰
しばらく待つ間、陽太は台所に立って鍋を揺すっていた。レトルトカレーを温める作業とはいえ、流し見る分には料理を、しているように見える。料理をして貰っている気分にはなってくる。
饅頭を食べ終えて立ち上がり一応、手伝うことなどないだろうとは思いながらも声を掛けた。
「なんか手伝おうか?なければないで良いが」
「普通に手伝いが必要な状況だと思えないのだが……。じゃあ、机一旦整理して紙皿置いといて貰って良いか?カレーだからまあ念のため二枚重ねとかにしといてくれ」
「ああ任せろ」と、言って机の方に戻ったところで、少し手伝いの申し出を後悔した。
ミナコが座り込んで饅頭を頬張りながら『あっ、なるほど』といった表情でこちらに気づいてしまったからだ。俺が余計なことをしなければ普通に陽太が準備を終えるだろうに、饅頭を飲み込んだ後に『手伝います』などと言い出しかねない表情をしている。
「手伝わなくていいらしいからな」
「んっ、手伝います」
「いや……、必要ない」
「陽太に手助けが必要なのでは?料理は確かにできませんが、皿洗いなどであれば引き受けます」
「紙皿だから……」
「いいえ、しかしですね。不作法なのでは?食べ物を貰うのに何も手伝いをしないというのは。お金を払うのなら別ですが、陽太が一人で料理しているのを放っておくというのはどうかと思います。健介はまさにどうかと思って立ち上がったのでは?」
「いやでも、よく考えるとレトルトカレーの準備にそんな人手は必要ないからな」
「ええ……、いや、僕が手伝うと厄介なことになるとか思っていますか?陽太には必要あるかも知れません」
ちょっと、こじれさせてしまった。別に厄介なことになると思って必要ないと言ったわけじゃないが、確かに手伝いをすると言い出した結果、厄介なことをしでかす可能性はあるなと、思わされた。俺が言葉に詰まったのを敏感に察知したようで、ますますやる気を出してしまった。
「陽太、手伝いはありますか?」
「えっなんなのだ、すごい邪魔なのだが」
「邪魔だと?いいえそんなことはありません。手伝いにきました。何か役に立ちます」
「手伝うこととかないだろ、普通に考えて。峰岸はそもそも料理に関しては何にもできないんじゃなかったのか?」
「できない……、ことはありません。全部できないということではない。では皿を洗います」
「紙皿なのだが」
「ではコップを洗います」
「……紙コップ使うつもりだったのだが?じゃあ、仕方ないな。そこにあるから洗っといてくれると良いのだ。洗剤はそれだからな。他のとこからは持ってこないでくれ。スポンジもそれだからな。他のとこのやつは使わないでくれ、分かったか、峰岸」
「ええ分かりました。百パーセント分かります。水はここのを使いますか?」
「そうだな」
「すまんな……、陽太」と小声で呟く。余計な気遣いをさせることになってしまった。半分俺の責任でもある。とりあえずコップを洗う仕事を割り当てて貰って満足したのか、嬉しそうな笑い声が聞こえてきた。
続けてものすごい勢いで水を出して多分だが、洗剤をこれでもかとたっぷりスポンジに塗りたくったんだろう。陽太がすごく迷惑そうに「そんなに出さなくても大丈夫だと思うのだ」と言った。
なるほど……。調理現場の仕事には不向きだったりするだろう。まあ陽太が一つ一つ丁寧に手順を説明してやる他ない。
そもそもコップを使う前に洗うものなんだろうかと、思った瞬間に、ガチャンと……、コップの割れる音がした。
「…………」
「まあ、あり得る話だ。誰にでもあり得る話だ。ちょっと待ってろ、素手で触るな。ほうきとちりとりとガムテープはどこにある?」
「わあ、すごいな峰岸は。そこまで一瞬で迷惑行為が重なるとかさすがに思ってなかったのだ。ほうきとちりとり、ちょうどすぐ後ろにあるのだ。で、あとガムテープか?多分、さっきサイコロ出した辺りの引き出しにないか?紐とかそういうのと一緒に入ってると思うのだが」
「陽太……」
「いや、まあ良いのだ、気にしなくて。基本的には紙コップ使うからな。最悪、三つとも割れたとしても別に生活する分には困らないのだ」
「いや、しかし、陽太が良くてもこれはですね、これはよくありません。ちょっと携帯を貸して貰っても良いですか?」
「携帯……?携帯はさすがに壊されたくないのだが。なんで貸さなくちゃならないのだ?」
「じゃあ家の電話でも良いのですが、僕は携帯電話を持っていません」
「…………それは知ってるのだが。じゃあ、まず手を拭いて、絶対に落とさないことを約束して欲しいのだ」
「絶対に落としません。両手で持ちます」
多分ここでも陽太は、あんまりミナコを落ち込ませないよう、気を使って携帯を差し出したんだろう。それで満足するならと慰めるような感じで携帯を、理由も聞かずに差し出した。いや、一応聞いたが、答えもされずに差し出した。
ミナコはカップを片付ける素振りすらせず、手を拭って慎重に携帯電話を受け取り、ちょっと意外だったがすいすいと慣れた様子で操作を始める。
「健介は片付けをちょっと待ってください」
「なんだ……?まさか清掃業者を呼ぶつもりじゃないだろうな。そこまでのことじゃない」
「いいえ、清掃業者は呼びませんけれども」
「なら良いが、なんで携帯借りた?代わりのコップを通販とかで買うつもりか?」
「ああ。いいえ、違います違います。そんなに心配しなくても大丈夫です。…………。もしもしすみませんが、御社の法務担当の方はいらっしゃいますか?はい。……はい。うん、用件はですね、あなたの会社が製造している洗剤を使っていたところ、カップが滑り抜けて割れてしまいました。…………。はい、そうです。つまり、製造物の設計にですね、安全上の欠陥があるために財産に係わる被害が生じました。御社に賠償責任があるかどうか確認したいので、法務担当の人と……。ええ、そうです。話をさせてください。ええそうですとも。そういうことです。はい、……金額は、不明です。おそらく一般的なコップです。数は一個ですが?そうですか。ではお願いします。…………?折り返しお電話をくれるそうです。多分写真を撮っておいた方が良いと思うのですが、これはどうすると写真を撮れますか?」
「今……、俺の携帯番号がピーアンドジーのブラックリストに載ったんじゃないか?」
「多分、そんな気はするな……」
「ああ、こうか。はい、写真も撮りました。これでどうでしょう。ちゃんと賠償請求できると良いのですが……。すみません、陽太、まさかこんなことになるとは……」
「コップ割るとこまではこんなことになるんじゃないかと思ってたのだが、その後まではちょっと想像できなかったな」
「しかしですね……、これは確かに僕も悪いかも知れませんけれども、洗剤の注意書き欄に滑りやすくなるという記載がありません。ガラスや陶器類を扱う際に注意を促す文章があるべきなのでは?」
「まあ、……峰岸ほど一瞬で割ったら分からなかったかも知れないのだが、普通、触った瞬間分かるからな、滑るだろうなというくらいは。というか、触らなくても洗剤は滑るということは知ってる気がするのだ。そんなとこにクレームつけてくる客は下手すると今まで一人もいなかったんじゃないのか、初めてなんじゃないのか、俺の携帯番号が…………」
「一旦は、最善の手を打ちました。もしも向こうの法務担当が弁償しませんと言ってきたら僕が弁償します。なのでそう落ち込まないでください。もしかして思い出の品でしたか?」
「全然思い出の品とかではないな。それよりも遥かに、折り返しの電話というのが不安なのだが。こういう大企業はクレーマーのブラックリストを他社と共有してたりしないか?俺はもうお客様相談室に電話する時に繋がらなくなりそうで怖いのだが。完全に油断してたのだ」
「もしも僕がいる内に電話が掛かってきたら、また貸してください。証拠の写真があるので、それを見れば何が起こったのか分かってくれます」
「コップが割れたところまでは何が起こったのか分かってくれるとは思うのだがな」
「まあ……、掃除するか。気にするな陽太。そんなほら、普段お客様相談室なんかに電話したりしないだろう。仮にブラックリストに登録されてしまったとしても実害なんかはない。なんなら、ほら、お前が困った時なんかは俺の家の電話貸してやるから。新しく携帯買ったらそれでも貸してやるから」
「まあそうだな。水道局に牙を剥いたら、下手すると水止められたかも知れないからな。その点まだ大した被害じゃないとはいえるな、まったく」
ほうきとちりとりをガラス片の前で構えたところで……、ミナコはやりたそうにこっちを見ていた。俺は心を鬼にして「動くな」とだけ命じた。ガチャガチャと手早くほうきで掃き取りガムテープを貼り付け、その後に掃除機を掛ける。
ホッと一息吐くまでの間、ミナコは一歩も動かずにいてくれる。俺は安堵から言葉を選ぶことなく心から「動かないでいてくれてありがとう」と感謝の言葉を述べた。陽太も苦笑いこそすれど怒っているわけではなさそうだ。
「饅頭どうだったのだ?全部食べたか?一応生菓子優先で処理してくれると助かるのだがな」
「お前の分もまだあるぞ。一応感想聞かれるだろうし、食べといたらどうだ」
「まあ一個くらいは……、食べとくか。前に店長が買ってきたひょっとこ饅頭は美味しかったな。美味しいだけでひょっとこである意味はやはり分からんのだが、まあ味にはそんなに文句はなかったのだ。今回は製造元不明だからな……、ちょっと一人で食べる勇気がなあ」
「ひょっとこ饅頭も、……製造元、本当に島根かは分からんだろう。島根とひょっとこ関係あるのかどうか。ひよこ饅頭と掛けてるのかもな。早口で言うと分かりづらいから」
「そういうパロディなのか?島根もさすがに何かしら観光とか名物あるだろ」
「あるだろうけど……、店長の場合、土産も土産話も正直場所特定は困難だからな。ひょっとこが割と一般人からしたら出生不明だろう。もしかしたら島根なのかも知れんが」
「峰岸、もう饅頭は満足なのか?」
「饅頭は、美味しく食べました。ひょっとこというのはなんでしょうか。島根県ではひょっとこを生産していますか?」
ミナコが店長のお土産の話を知らないのは当然として、日常会話じゃ滅多なことでひょっとこが話題になったりしない。
そうするとどうやら、ミナコはひょっとこというものの存在自体を知らないようだった。
「峰岸はちゃんとひょっとこを知ってるのか?島根県がひょっとこの名産地だとしたら観光にも行きたくないのだが。島根県も別にひょっとこみたいな微妙なイメージのものを代表にしたいとは思わないはずなのだ」
「ひょっとこ……」とぽつりと呟いて考え始めたようだが、まあ名前から想像できる形態をしていたりはしない。流れから考えると野菜か何かと勘違いしている可能性もある。
ひょっとこ饅頭は島根県の名産品であるひょっとこを原材料にして作られた饅頭で、それが美味しかった、と陽太が証言している、であるから、ひょっとこというのはもしかすると果実か何かかも知れない。そんなことを、考えてそうだ。
「ホントに知らんのだな。峰岸はなんにも知らないな。ひょっとこくらいは常識なのだが?幼稚園で習うと思うのだが?」
俺はひょっとこというのをどう説明すべきなのかをぼんやり考えていたが、いつもの通り陽太がこうしてミナコを煽って遊ぼうとする。
「幼稚園で習うだと?まあ?ええ、知っている。知っています。それは、つまりですね。…………。これは……」
こうして改めて考えてみると、ミナコは確かに『知らないものを』『知っている』と嘘つくことも間々あるわけだ。逆に『知ってることを』『知らない』と言い出すことだって今まであったのかも知れない。
ただまあどう見ても、慌てて取り繕って結局ボロが出ることにはなるだろう。平気で嘘をつくにせよ、簡単にボロが出る。すぐに見抜けるようなかわいい、いや、……可哀相な嘘だ。
「ひょっとすると、チョコかも知れない。これはひょっとするとうんこかも知れない。そのコペンハーゲン解釈的な重ね合わせ状態のことを『ひょっ、……とこ』と言います。実はうんこだったのかも知れない。この世界においてはチョコという存在に収束しましたが、他の世界ではうんこという存在に収束していたかも知れない。それは実のところ口に入れてみなくては分からないものなのです。口に入れた途端、チョコであることが確定した幸運な世界に生きていることを感謝しなくてはならない。話は逸れますが量子論とはそういうものです。細かいところでは違うかも知れませんが、簡単に言うとそういうことです。いや、待ってください。あるいはこの場では自分の意見を述べず流れを見守ろうという『日和見で放っておこう』という複合語の略語形態です。転じて、『ひょっとこ』というのは、はっきりと明瞭でない状態のことを表現する語です。どうでしょうか。曖昧模糊という四字熟語の、曖昧も模糊も二つともどちらも不明瞭なことを表しています。例えば羊や綿あめなどはもこもこしているわけですが、それはそいつの本体がたくさんの綿に覆い隠されているからに他なりません。でも、他人にとって、どちらかといえばもこもこしている部分が重要なのであって、それに包まれていた中身というのは、いわば、用済みの棒のようなものなのです。人の心もまた、信念よりも振る舞いによって評価されるものですから、僕は今こうして、立派な人間と同じような振る舞いを心掛けています」
「……まあ、ともあれ全然違うな」
多少、買い物の時に聞いたチョコのトラウマを引きずったような、解答が出てしまった。幼稚園児でも知っているというヒントを引っ掛けだとでも解釈したのか、何度か多分頭の中を周回させた結果、トラウマと今この瞬間の心情とが混じり合った答えになる。
以前のチョコにまつわる失敗というのは不運の連続によるものだったとして、チョコ食べてる時にうんこの話をするのは失敗だと思わないものなんだろうか。無言で思考を追い掛けてみるが、チョコ、ひょっとこ、この二つが合わさって先の事件を想像して、ひょっとするとうんこかも知れないチョコに……、なるんだろうか。
なっちゃったとして、正直に分かりませんと言えば良いものを。
「くそぅ、陽太め。ひょっとこを知っているからなんだと言うんだ。ひょっとこはそんなに重要ですか?」
「ひょっとこは世界の全ての理に通じているからな?だから島根県もひょっとこ饅頭を作ってるのだが?」
「世界の理に?幼稚園……、行ってなかったからなのか?けれどももしも本当に重要ならば義務教育でも少しくらいは触れられるものなのでは?僕はもしかしてその日風邪を引いていましたか?」
「教わるものじゃなくて、心に芽生えてくるものだからな」
「陽太の心には芽生えているというのか?健介の心には芽生えていますか?」
「俺の心には芽生えてないな、ひょっとこは」
「芽生えると何か良いことがありますか?」
「多分ないな。後で調べろ、ひょっとこのことは」
炊飯器が音を立てると陽太は二枚重ねの紙皿に白米を載せ、お湯に浸けておいたレトルトのパックをセットにして俺とミナコに渡した。
自分用のカレーと共に百本入りプラスチック製スプーンの袋を机の中央に置いて、腰を下ろす。




