五話⑩
「どうしたんだ?今なんて言った?迷子か?」
……が、男の子のその行動は失敗だったろう。多分ミナコは服を掴まれていることに気づいて特に何も考えずにそれを振り払いながら『触るな』というようなことを英語で言った。特に平坦な表情のまま、わざわざ英語で、いや、ドイツ語だったのかも知れないが、多分そんなことを言った。
「み、ミナコ……。待て。泣かれたら厄介だろう?親切に案内をしてやれば親にも感謝されるだろう」
これは確実に、男の子は泣くだろうと思った。ミナコは平然と俺の方を見ていて下手をすればこんな振る舞いにすら、悪気がない。ああ……、俺はどちらを先に処理すべきだろうか。
「落ち着けミナコ。そして落ち着け坊や、ごめんな?俺がお父さんなりお母さんなり十人でも二十人でもすぐ見つけてやるから、とりあえず泣くな?」
どちらかというと、俺はミナコの方を気に掛けてそちらに注意を向けていたから、男の子がその瞬間どんな表情をしているのかは分からなかった。
泣いているか、泣きそうになっているかのどちらかだと思って男の子の方を振り返ると、その男の子は、にやりと笑っていて、先程までのもの悲しい表情からはまるで別人のようだった。
「ミナコっていうんだ。邪魔しないでくれるかな。僕は、ミナコと、話をしようとしてるんだ。最初からお前のことは避けてミナコに声を掛けてるだろ?」
「……、気丈な子か」
言葉遣いなどはあまり誉められたものじゃないが、普通に日本語で話しているし、泣きそうな素振りもなければ、怒っている様子もない。何かを喜んでいるかのようにさえ見える。
「でももし、どうしてもっていうならあとでお父さんとお母さんを探させてやるかもな」
凛々しい、立ち振る舞いだが、やはり迷子だったのか。最近の、子というのは、言葉遣いが乱れているものなのかも分からん。小学生など野球部以外は敬語が使えなくて当たり前かも分からん。
そして、年上の女の子が好きだったりするんだろうか。手を乱暴に振り払われても全然怯まない度胸の持ち主でもある。ミナコが知り合いらしい素振りをしない以上、少年が俺を避けてミナコと話したがる理由が年上の女の子好きだという可能性以外に見つけられない。
俺に対しては敬意の欠片もなく『探させてやる』などと完全なる上から目線での物言いだった。ミナコの方を振り返るが、この状況に完全な疑問符を浮かべている様子であるから、やはりミナコの知り合いではない。
「ねぇ、ミナコ。少し、見ていたくなっただけなんだ。じゃあね」
「……?……?」
じゃあねも何も、軽い用件の一つさえ見つけられないまま会話が終わってしまった。ミナコが知り合いの顔を思い出せないなんてこともないだろう。
ただ、少年の表情は少しばかり失望に陰ったように見えた。
例えば、何十年か前に世話をしてやった親戚の子供を一方的に知っているおじさんなどは、こうして話し掛けて、こうして、少し寂しげに去るのだろう。果たして、会話など実るはずもない。
もしも年齢が逆なら少なからずそういう関係であることも考えられなくはなかったが、小学生が覚えていて、大学生の、ましてやミナコが知らないなんてことはあり得ない。
まっすぐに見つめられたミナコは少したじろいだ様子で必死に知り合いの顔などと照合中なのか訝しげな表情で首を何度も傾げ少し後ずさり、『やはり知らん』という顔で目線を上げ、そうして男の子の顔を見つめ直す。
当の男の子は呼吸の間さえ分からないほどによどみなく体を翻し足音の一つもなく空気に混ざり込むようにして棚の後ろに消えていった。
そうするとその瞬間まで確かにあったいわば男の子纏うオーラのような存在感が消えた。俺はしばらく、呆然としていた。これはちょっとした不思議体験には違いなく、不自然をいくつも繋ぎ合わせた出来事だった。
少年は少年らしい中でもかなりの美形だったし、非常識人に分類されるような特殊児童ではあっただろう。たまたま俺が呼び掛けたミナコの名前を聞いて即座に年上の異性に対して呼び捨てで語り掛ける行動力や度胸というのは、異常ですらある。……まあ、ミナコもアンミも俺のことをいきなり呼び捨てだったからそれと同じだと言われてしまえばそれまでだが。
「なんだったんだろうな」
ドッキリ?かも知れない。あまり芸能界など詳しくないが俺やミナコが知らないだけで実は有名な……、話題沸騰中の子役だったりするのかも知れない。
『有名子役が田舎のスーパーで迷子だと言ってきたら?』という企画に俺たちがあまりに的外れな反応をしたから、あの子は落胆したのかも知れないし、どこかに潜んでいた撮影スタッフもドッキリの看板を出すことなく引き返した。
仮にそんな理由だったなら一応は納得できるものだ。ミナコは俺の脇を通り抜け棚の影なんかをきょろきょろと見回して、どうやらその男の子を追い掛けようとしたみたいで、俺も少しその後をついて回ってみた。二人でしばらく歩き回ってもその姿は見つけられない。
俺より先にミナコの方が諦めてドサドサと買い物かごにお菓子を落とす作業に戻った。
「なんだったんだろう」
ともあれ何事であったにせよ答えが出ることではないように思われる。知り合いと間違って声を掛けたところで別人だと気づいて引っ込みがつかなくなった少年なのかも知れないし、単に恐怖心のない子供のお遊びだった可能性だってある。そうなると意味など元より存在しない。
考えていたって仕方ないことだろうとミナコの方へ視線を戻した。ミナコもミナコなりにこの不思議な出来事を考えたり想像したりしてるのか、幾分かご機嫌な様子で首を傾けて目線をきょろきょろ揺らして唇を上げて笑顔を作っていた。考えても意味や答えが見出せないことはミナコも分かっているからなのか俺に問い合わせを行うようなことはなかった。
黙々とチョコの選別を行っている。それはさておきといった感じで当初の目的に焦点を合わせ、着実に買い物カゴを埋めていく。
『変な子でしたね』の一言もないのは、変な子目線では変な子じゃなかったからなんだろうか。ミナコはひとまず買い物カゴに山盛りを作るとその後丁寧に並べ替えを行って空いたスペースに次から次からお菓子を追加してもうこれ以上はどうしても入らない段階になってからそれを下から抱えるように持ち上げた。多分途中でチョコレートの購入基準というのが定まったんだろう。意外と短時間で買い物カゴ一つを使い切った。
「ふっく……」
「…………。相当に、馬鹿っぽく見えるんだな。俺はカートをしっかり使っていたはずだが、それでもこんなに大量にお菓子を買うというと、すごく頭は悪そうだな。ほら、一旦置け。俺がレジまで持っていこう」
カチャと持ち手を重ねてミナコから取り上げる。
「んあ……、持ちづらかっただけで重くはない。取られた……」
「重くはないが……、せめて荷物持ちは男の仕事で良いだろう。取り上げたような挙動になったが決して取り上げたわけじゃない。単に運ぶのを手伝ってやるだけだ」
「ありがとう、ございます。お礼に健介の買う分も追加で買ってあげます。全然予算が使い切れなさそうなので」
「何なら……、俺が払おう。お前に対するお詫びみたいなものも含めて買い物かご一杯のお菓子をお前にプレゼントしたということにしてくれたりはしないか?さっくり端折られてしまったが、俺は謝罪するつもりでいた」
「……?なんだそれは?分からない。健介はお菓子を管理したいのか?お金を払わなくてもお菓子はあげるのに」
「俺が、お前に、お菓子をプレゼントしたら喜ぶか?それをお前が俺に分けてくれたら良い」
「ん?お詫びというのもどうだ?プレゼント?僕が健介から貰ったのを健介が貰って健介は嬉しいですか?世間一般ではそれは返品と言います」
「いや、嬉しい……。まあ、嬉しい、というか、そうだな。ありがとうということにはなるだろうな。そこは一旦切り離して考えて、この前は待ち合わせをすっぽかしてすまなかった。これからも一緒に遊んでくださいと俺はお前に謝罪してお菓子を渡す。それじゃダメか?一応これはほら、お前が好みで選んだお菓子だろうから、俺が無駄なプレゼントをしたことにもならない」
「あー、ふぅん。えへへへへ……、あっはっはっ。もしかすると、健介は約束を忘れたりなどするといきなりこうして不自然に優しくしてくれたりしますか?」
「不自然で悪かったな。大体常に、一応優しくあろうとはしている。今日がもし不自然に優しく思われるならな、逆にいえば俺は今まで待ち合わせをすっぽかすようなポカを一度としてしなかったということだ。お菓子は、これで十分か?もっと買うか?」
「十分です。とても満足です。ここを出たらその?謝罪イベントをしてお菓子を渡してくれるのをお願いします」
ということでレジに向かう。
ミナコは俺を先導するように前を歩いてレジに向かっていったが、レジで会計するというところまでしか知らないんだろう。レジ係の人と俺との間に立ち塞がって、正直邪魔になっていた。
「いら……、しゃいませ。何……、か?何か、ご用件が……、ござい、ますか?」
手ぶらのミナコと買い物カゴ一杯の俺を二人組だと思わなかったのか、レジ係の人は俺のことを気にしながらきょろきょろと目線を泳がせてまずミナコへ用件を聞いた。
「ございますか?ええ、ござる。ござるとも。ござるござる」
「そうで、ございますか。どういっ、……どういったご用件で」
「いや、お前もう先に行け。出口付近で待っててくれたら良い」
「そうですか、はい。待ってます」
ミナコは両腕をぶらぶら大げさに前後に振って、店の外へ歩いていった。
とりあえずこれで買い物は一段落となるだろう。俺はつつがなく会計を済ませた。レジに置いて会計を待つ間、お金を失うことよりも『大量にお菓子を買い漁る客』というふうに見られることの方がつらい。福引チケットも受け取ったがレシートと一緒に財布へと手早く仕舞い込み、ビニール袋にせっせとお菓子を効率よく詰め込んでいく。
大きな袋三つ分となった。問題なく、買い物が終わって一安心しながらミナコの待つ店外へと足を進める。
「お待たせ……、さて、陽太の家まで戻るか」
「あれ。はぁ……。うん。いつ謝罪イベントを行いますか」
「ん……、そう、だな。ああ、……ミナコさん。これはこの間のお詫びです。受け取ってください。なんなら俺が運ぶが」
「受け取り拒否である」
「所有権的には受け取ってくれ。運ぶのは俺が運ぶし、俺も陽太も食うだろうがお前のものにしておいてくれ」
「『この前は待ち合わせをすっぽかしてすまなかった。これからも一緒に遊んでください。と俺はお前に謝罪してお菓子を渡す。それじゃダメか?』。打ち合わせの段階ではそういう流れだったはずなのに健介はそれを撤回しますか」
謝罪の台詞が気に入らなくて受け取り拒否だったか。
『すまなかった』が抜けているのがダメだったのか、『これからも一緒に遊んでください』という下手に出た文句が重要だったのかは定かじゃない。とにかく先の台詞の通りであれば良いらしいので一度思い返して呼吸を整え、礼儀正しく頭を下げてレジ袋を差し出した。
「……ああ。この前は待ち合わせをすっぽかしてすまなかった。これからも一緒に遊んでください。はい、これ、お菓子だ」
「受理します。わーい、お菓子お菓子、お菓子が一杯である。健介からプレゼントを貰いました。健介がー、お菓子をー、買ってきてくれましたー♪」
「俺は、とりあえずは、これで許して貰った、ということで良いか?わざとらしく喜んでくれてるところに水を差して悪いんだが」
「もう僕は嬉しいのでなんでも良い。わざとらしく?どこら辺がわざとらしく?」
「そりゃ、だって、元はといえば別にお前が余裕で買えるようなものだったわけだろう。それを買って貰ったとしても大して嬉しいものではない気がする」
「しかし、仮に世間ではそうだったとしても僕は嬉しがっています。本当に喜んでくれているのに、わざとらしい?」
「しょうもないことでいつも笑っている奴が今回もしょうもないことで喜んでいたら、何だろうな……。お前が本当に喜んでいるのかは分からないだろう。お前は元からリアクションがなんていうのか、オーバーだったりするからな」
「過剰に喜んでいるように見えると?」
というよりも、いつも大体そんな感じだということを指摘すべきだろうか。それこそこれが小学生くらいの子のリアクションなら大して大げさだとは感じない。大学生がお菓子で大喜びという構図は奇妙なものだし、それが本心からのことなのだと信じがたい。
「通りすがりに肩がぶつかった相手にいきなり土下座されたら引くだろう?本当はそんなに悪いとは思っていないはずだと思うだろう?こちらもこちらでそれにどう返して良いものか困る」
「しょーもない……。しょーもない……。アームストロング宇宙飛行士はかつて月面に降り立った時、こういうことを言いました。『健介にとってはしょーもないことでも、人類にとっては偉大な一歩だ』と。日本語訳だと大体そういうようなことを」
「あの有名なアームストロングさんが俺を名指しか。お前は俺が無学だと思ってるんだろうが、おそらくアームストロングさんの言いたかった言葉がそういう意味じゃないことは知っている」
「やったー、やったー、お菓子だー♪念願の、お菓子を、健介から手に入れた」
ゆっさゆっさビニール袋を一つぶら下げて前を歩いていくミナコについて、残りの二つのビニール袋を持って元来た道を戻る。
ミナコが今後の予定を考慮に入れていたかは分からんが、ちょうど程よく約束の時間くらいで陽太の家に到着することにはなりそうだ。




