五話⑨
お菓子コーナーに差し掛かると、なんとかミナコの興味はそちらへに移ってくれた。ぱっと目線を上げて一列を流し見てまずは端から物色することを決めたようで、その場に座り込む。
ここでようやくチョコレート十万円分というのがどれくらい異常かを伝えられるチャンスが訪れたわけだが、ミナコは商品のポップを凝視した後、何かを疑問に思う様子で首を傾げて商品に手を伸ばし、裏面の栄養成分表示の欄をまじまじと見つめていた。こうなると多分、俺が何かを言う前にミナコが何かしらの疑問を口にするだろう。
「チョコレートというのは、こんなに安かったりしますか?」
割と答えやすい疑問で良かったと安堵しながら「そんなくらいだろうな」と答えた。
「チョコレートというのは、チョコレートの廉価版というような代替品などはありますか。それとも、チョコレートの失敗作というものが売られていたりしますか?」
「チョコレートにも高級チョコレートとそうじゃないチョコレートというのはあるだろうな。ただし、失敗作というようなものは普通売ってないだろう。もし失敗作と書かれていないのに失敗してる商品だったらそれは不良品だ」
「そうなるとですね、少し前に買ったチョコレートというのはもしかして高級品だったのか?いや、大した高級感などはありませんでした。そもそも、チョコレートが?グレードなどとかそんなことがありますか?」
「まあ一応あるんじゃないのか?コーヒー豆なんかも高級品とかがあったりするだろう。厳選されたカカオ豆を使って一流のパティシエが作ったチョコなどであればやはり高級品だろう」
「ここのはそうではない?値段を見て少し驚きましたやはり、僕はチョコレートの相場というのが分かっていない。健介は詳しいですね。およそ確かに、百円で五十グラム程度です。そんなことを何故知っている?」
「なんでかな……。子供の頃にじっくりお前みたいに眺めてどちらがお得か考えていたことがあったかも分からん」
「お得?品質の差などはありますか?」
「好みはあるにせよ、チョコはチョコ味だろう?高級なチョコがどれほど美味いのかは知らんが、そこら辺のは正直あんまり大差ないはずだ。庶民向けのチョコはそれなりの美味しさを安価に提供しているもんだ」
「試食制度はありますか?」
「ない。高級なチョコが買いたいのか?少なくとも陽太は高級品を求めてたりはしないと思うんだが」
「いいえむしろ……、いや、チョコに高級なものがあったとして、前に買ったチョコは少しトラウマがありますので、あれが高級品だというならむしろそれは除外したいところです。できればあれなどとは梱包からして違う方が望ましい。これらは個別に包装されていますか?個別に包装されていないものがあることは知っています。そういうものを食べたことがある」
「ビリっと開けて、袋の中から手づかみで食べる種類だ。多分ギフト用のチョコなどは一粒ずつ包まれてるんだろうが、ここにはそういうのはない」
「なるほど。では、これは買います。さて、一つ隣のはどうでしょう?」
商品棚の前に座り込んだままじりじりと足を這わせて移動し、次の商品の前へと進む。そして右手側にある先程検討した商品の前にカゴをセットし指で引っ掻くようにしてドサドサと、数もおそらく数えずに入れ始めた。
変なところで躊躇する割に買うと決めれば思い切りが良い。そしてすぐその前まで話をしていた俺ですら、何が決め手となって購入することになったのかがさっぱり分からないままだった。
「どういう理由で買うことに決めたのか説明して貰っても良いか?それは食べたことあるのか?」
「食べたことはありません。個別に包装されていないと聞いて買うことに決めました。そしておそらく印刷されているこのチョコレートの形状なども良いものだと思いました。そのことについて詳しく説明が必要ですか?」
「必要……、だと思うな。そうすればなんなら手分けしてお前の好みに合いそうなチョコをチョイスしてやれる。一個ずつ検討するのも大変だろう」
「…………そうですか。これは説明をすると、ちょっと恥ずかしい失敗談を含みます。そしてその状況というのを、健介はあまり分かってくれないかも知れません。それでも説明した方が良いですか?」
あんまり進んで話すつもりはなさそうだったが、なるほど一カ月かそこら前に失敗したことを考慮に入れて商品選別をしたいということなんだろう。チョコ選びで失敗したからチョコを買わないなどと宣言してたわけか。
「なんでも話してくれ。俺の方がチョコには詳しいだろう、多分だが。お前が同じ失敗を繰り返さないために良いアドバイスをしてやれるかも知れない」
とはいえ、チョコ選びで失敗なんてのはおそらく特殊なチョコを選んでしまった場合に限るだろう。バレンタインでもないのにハート型のチョコを贈ってしまったとか、逆にハート型のチョコのつもりが割れてしまったとか、せいぜいがその程度の失敗くらいしか想像できない。
ギフト用のチョコレートでの失敗というのなら極端に消費期限の短い生チョコを買って腐らせたりしたとかはあり得る。あるいはアレルギーとかそういうのを心配してるのかも知れない。
「では仕方なくその失敗談を語ります。……、その、僕が出入りしている場所があるのですが、そこでですね、普段お世話になっている人達に向けてチョコレートを食べさせてあげようと思いました。一月ほど前にはそれがとても良いアイデアのように思われました。学食のようにそこには食堂があるのですが、そこに通販で購入したチョコレートを積んで『ご自由にどうぞ』と貼り紙をしておきました。これが非常に、残念な結果になってしまいます」
「……大規模な食中毒でも起こしたか?」
「いいえ?食中毒は起こっていない。かなり所内で大事のように語られてしまい結局チョコはほとんど食べられることがないまま僕が後でこっそり廃棄することにしました。何故かというとですね、僕が早朝に、食堂でチョコを積みます。そして貼り紙をします。朝の時間帯だと思われますが、何者かがチョコレートを見つけます。そしてここからはあくまで僕の推測ではあるのですが、後で食べようと思ってポケットに何個か詰めた人がいたのだと思います。そしてその何者かは……、故意ではないと信じてはいますが、多分……、トイレに行きました。手を洗って、ハンカチを取り出した時に、きっと、……一粒がポトリと、チョコがですね、落ちたのだと思います。不運だったのだと思います」
「ああ……?そうだな、落っことしちゃったのか。まあ、悪気があってのことじゃないだろう」
「悪気はなかったと思いますが。その時点ではまだ何事も起こっていません。その人が気づいて拾って捨ててくれれば良かったのですが、こともあろうに、……気づかず踏んづけて引きずってまた食堂に戻って、なおも気づかないまま外出した可能性が高い」
「そうか。でも、そんなな、一個くらいは仕方なかったと諦めても良いだろう」
「一個が惜しいというわけではなくてですね。そうすると、先程話した状況からすると大変なことが起こります。ポケットで温められていたチョコは踏まれて潰れます。潰れて靴にくっつきます。靴の裏から剥がれたチョコが食堂まで点々と引きずられるような痕跡を残します。なお一層悪いことに、包み紙が現場付近から見つかりませんでした。靴にくっついたまま外に出たのかも知れないし、誰かが片づけたのかも知れない。こうして……、とても残念な結果を生みます。僕は別の部屋で喜んでくれているだろうなあと思っていました。美味しいと良いなあと思っていました」
「?なんでそうならなかった」
「実際には夜、見たら、ほとんど誰も手をつけていませんでした。噂で聞いたのですが、その当日、何やらトイレから食堂の床に掛けて茶色い物体が点々と引きずられ踏まれたようにして残っていたそうです。それを、食堂やトイレを利用しようとした何人もが目撃したそうです。たまたま通った人も見掛けたそうです。『コウソウイカケントイレ前ウンコ騒動2025』などと不名誉な事件名を付けられて僕の耳に入るほどに噂が広まっていました。善良な人はおそらく善意から、そのトイレ前の茶色い物体は食堂に用意してあったチョコレートである可能性が高いと、ウンコではないという説を唱えたようですが、しかしそうなると、トイレの前の無残な茶色い物体と食堂に用意したチョコレートは、同一のものであると示していることになります。ひどい人などは僕の用意した折角のプレゼントをウンコ騒動チョコレートなどと呼んでいたそうです。うんこじゃないやい……っ」
「不運だな……」
「僕からですなどと書いてあったら精神的に厳しいものでしたが、そこは名前を書かなくて幸いでした。ただし何故か、……何か僕が関係した事件のことが今まで何度も、なんとか騒動というまとめられ方をしています。普通何か事件が起こってもそれに名前が付けられることなど稀なのに、何故か僕が関係したものだけはなになに騒動などと呼ばれるので、もしや僕が原因なことが誰かにはバレているのではと不安になります」
「少なくともその件では、お前は悪くない。いくつかの不運が重なったとしか言いようがない。ただ……、他に騒動を起こしているなら、単にお前が騒動を起こす確率が高いからそう思うだけなんじゃないのか?」
「僕が善かれと思ってしたことが何か事件を引き起こす度に、何故かなんとか騒動という名前が付きます。何者かに見張られている可能性を捨てきれない。そんなトラウマを克服するために、今回はじっくり吟味してチョコを買うということにしました。これが無駄になったらもう一生二度とチョコを買いません。それくらいに慎重に購入を進めなくてはならない。安全策として今回の供給先は健介と陽太です。これならば多少失敗してもなんとかなる気はしている」
「まあ、同じような事態はそう滅多に起こらないだろうが……」
折角のプレゼントがうんこ呼ばわりされては確かに、チョコ買わない宣言にもなるものかも知れない。そのトラウマを乗り越えるために慎重にチョコを選ぶとはまた、何ともいえない健気さではある。
ただしそんな出来事は単なる不運だと片づけてしまえば良いだろうに。だってチョコの選び方や設置の仕方が悪かったわけじゃない。明確に悪意のある人間がいたわけじゃない。結局、今回俺や陽太が喜んだところで心持ちの差でしかない。
「聞いてる限りじゃお前が悪かった点などなかった。そして別にチョコも悪かったわけじゃない。なんならどれ選んでもそんなことにはもうならないだろう。気楽に選んだらどうだ」
と、言ってる最中に逆側の棚から小さな男の子が姿を現したことに気がつく。お菓子を買いにきたのに邪魔な先客が座り込んでいるように感じるだろうなと思って、ミナコの肩に手を置いた。
「ん?」と気づいて立ち上がるが、続けてどう説明をしてやるべきかは数秒悩んだ。他の客の迷惑にならないように努めなくてはならないということを伝えるだけで済むはずだが、相手は小さな小学生くらいの男の子だった。
舐めて掛かって領有権を主張してケンカするかも知れない。ミナコ本人の精神年齢が幼い癖に……、癖にというよりむしろ幼いからなのか、ミナコは小さい子に対しての寛容な精神を持ち合わせていない。小さい子相手なら自分の方が上だと主張すること可能性がある。
子供嫌い、という一言にまとめられるのか、それがミナコの欠点の一つには違いなかった。
で、まあ、立ち上がった時点で商品を覆い隠すような位置からは外れたし、その少年は何も躊躇することもなさそうにこちらへ歩いてくるものだから、俺がわざわざ何か行動するまでもなく素通りしてくれるのかと期待した。
服装やら歩き方から察するに男の子であるのは間違いないだろうが目鼻立ちの整った可愛らしい顔をしていて長めのはねた髪が一歩ごとに揺れていた。さらさらのストレートヘアーにしてやれば女の子と見間違うかも分からん。
俺などはそんな庇護欲や愛でてやりたい気持ちなんかが芽生えるが、極力相性の悪いミナコとは接触させないよう、男の子とミナコの間に進んで防護壁になってみた。
男の子は何事もないかのように俺の横を通り過ぎ、……そこまでは良かったが何故か俺ではなく、ミナコの横で立ち止まりミナコの腰の辺りの服を掴んで「ねえ」と言った。
もの悲しそうな顔をしているようにも見えるし、にやりとほくそ笑んでいるようにも感じられる、妙な表情をしていた。
話し掛ける様子などから考えれば、もしかしてミナコの知り合いなのかと思った。
その男の子はか細く切なげな声で、何故か俺には聞き取れなかったがまず間違いなくミナコに向けて何かを呟いた。
俺はミナコの表情を確認して事態を把握しなくてはならない。外国語?だったのか。男の子の髪は黒色で日本人のように見えるが、日本語での会話ができない迷子なのかも知れない。だから俺を素通りしておきながらミナコに用件を告げようと……、したのかも知れない。




