五話⑦
◆
「骨は折れてないか?頭、打たなかったか?打ったよな。病院に行こう、タクシーか、あ、いや、救急車を呼ぶから、ちょっと、そのまま、……横になっていろ」
……その時、そんなことを言った。
ミナコは確か、数メートル先を横切った小動物に気を取られて、自転車のタイヤを側溝にはまらせてサドルから放り出され電柱に頭をぶつけて反転しアスファルトの地面に転がった。
その瞬間までは俺が小走りでついていける程度のスピードだったわけだからそこまでの大ケガにはなりづらいはずだが、ミナコはなんとも派手な飛び出し方をして、転がったまましばらく動かなかった。
俺は急なアクシデントに呆気に取られていたものの、明らかに頭を打ったのは間違いなかった上に、まあ……、少し、いや、責任を感じた。
俺のせいでケガをした、と言われておかしくない状況だったから、仮にケガが大したことなかったとしても、俺はミナコに責められるべきだと思った。
『痛かった』と言うのなら、俺は『そうだろうな』と。『もう諦める』と言うのなら、俺は『多分もう少しなんだけどな』と。『健介が悪い』と言うのなら、俺は『ごめんな』と。
そう返したに違いなかった。
『でもな……』、と、続くはずの、ありもしない過去を想像する。
俺はいくつも思うことがあったのに、ミナコは俺の頭の中の言葉に繋がる返事をしなかった。
骨は折れてないし、歩けるし、病院は自分の家からの方が近い、と言った。そりゃまあ、そうかも知れない。確かに俺は『病院に行こう、頭を打っただろうし、骨折したかも知れないから』と言った。
だが、頭の良いお前は、そんなことも、分からないでいる。ご大層な才能を持っていながら、物珍しい目で見られることを嫌がったろう。逆に、ほんの小さなことでも、他人にできて自分にだけできないというような場面ではひどくいじけることがあったろう。
だから、俺は、これは……、お前が喜ぶと思って勧めたことだ。小学生でも、自転車には乗れるから、俺が、試しにやってみろと勧めた。
「自転車が壊れた」
俺は、この時の自分の台詞を完全に断言できる。『大丈夫か』と聞いたんだ。
「…………。弁償するのでそんなに落ち込んだ顔をしないでください」
俺はお前を心配して駆け寄ったのに、俺はお前のことを聞いているのに、そんなことも、分からないのか。
「健介、聞いてますか?自転車が壊れました……」
「ああ、……だけどな」
「それは申し訳ないので、弁償します。あとでお金を持ってきます」
そして、ミナコは翌日に、『現金を持ってきました』と俺の前に現れた。
俺は古い自転車などどうせ乗らないものだったし、徒歩圏内で行動するから新しく買う予定もないと言った。
……実際その通りだったろう。もしもミナコが、ああいうことになったにも拘らずまだ自転車に、それでも、やっぱり乗りたそうにしていたら、俺はもしかしたら新しい自転車を買うことになるかも知れないが、そうでないなら、新しく買う予定もないから、……そんなお金は受け取れない。
◆
「音楽聞いてたのか、珍しいな」
「ん……ぅ、そうです。音楽再生機を持っています。二百時間くらいは充電しなくても再生可能な高機能なバッテリーと省電力が特徴的な音楽、再生機です」
「屋外で……、そんなに聞き続けたりしないだろう」
「いいえいいえ。それは分かりません。ドライブをして飛行機に乗って観光をして、帰った途端に落雷で停電する可能性はゼロではありません。復旧したと思っても、例えばたまたま、電気代を払っていなかったとします。陽太によると、電気代を払わないと電気が止められるらしい。けれどもその時現金が全くなくて、もしかして少しはあったとしても食べなくては死ぬ寸前であれば食べることを優先してお金を使わなくてはなりません。そんなことにも備えている優秀な音楽再生機です」
「そんなことになったら音楽聞いてる場合ではないな」
「けれども……、けれども、音楽を聞くことを目的とした機械です」
「?まあ、充電をこまめにしなくて良いという……、ものなんだな。あ、なんだ?別にその機能にいちゃもんをつけてるわけじゃない」
「そうですか。音楽を聞きたくなることはありませんか?別の話をしませんか?」
何故かはともかく音楽の話題というのを避けたいようだった。俺などもクラシックのあれこれを語られたところで相槌以上に言葉が出る気がしないし、別の話というのなら、確かに他にも話すべきことがあるようにも思われる。
「元々な……、大学には歩いて通うことに決めてたんだ。何故かというと、まあ色々理由はあるんだが……、俺の自転車が昔、入学早々大学で盗まれてな。まあ、だから、治安が悪いし……、かといってボロい自転車をチェーンでぐるぐる巻きつけて防犯するのもなんか変だろう。ボロい自転車を大事にしてる奴だとか思われたくなかったんだ」
「自転車の話ですか?あれはそのぉ、健介はお金を受け取ってくれませんでした。まだ責めていますか?」
「責めてるわけないだろう。お前が頭打ってケガした責任を取れと言われてておかしくない事態だった。なんか今ふと、そのことを思い出した」
「しかしですね、犠牲があったとはいえお蔭で自転車に乗れるようになりました。なんならですね、今度はしばらく自転車に乗っていない健介の監督をしてあげることもできます。健介はブランクがあるのでもしかすると僕の方が自転車が上手かも知れない」
「嘘つけ、乗れないだろうお前は。本当に乗れるなら通学用に買ったらどうだ」
「何故乗れないと?」
「乗ってるところを見たことないからだ。俺と陽太は基本徒歩圏内を行動してるが、お前の場合住所不詳だからだ。自転車乗ってきててもおかしくないところをわざわざ歩いてくるということは乗れないということだ」
「そんな……、いや、分かりません。少しは乗れると思いますが」
「少しはってなんだ。乗れる奴は少しとかすごくとか言わないんだ、普通。乗れるか乗れないかだ。まあ、もしな、お前がまた自転車の練習がしたいというなら、今度は安全対策をしっかりしてからまた付き合ってやる。まずヘルメットを被るべきだった。よく考えたら少なくとも練習する時というのは誰もがヘルメットを被ってる。それならコケても安全だしな」
「ゲェズナァイ、そんな馬鹿な。自転車でヘルメットを被ってる人など見たことがありません」
「いや、お前が見たことないだけだ。小中学生は必ずヘルメットの着用が義務づけられている。校則とかで」
「えっ、でもしかし小中学生ではないのですが」
「いやだが……、自転車の操縦能力が小中学生レベルだろう。というよりもリスク回避のための必要装備だ。多少見栄えは我慢すべきだ、慣れるまでで良いから。何も補助輪をつけろと言ってるわけじゃない。ところでゲェズナァイってなんだ」
「補助輪……。ゲェズナァイというのは……、ええとですね、昔お世話になった先生の僕に対する口癖です。僕も正直、ゲェズナイゲェズナイ言われるのは嫌だったのですが、でもこうして逆の立場になってみると先生の言いたかったことも少し分かります。多分、自分のことを差し置いて他の瑕疵をあれこれ数えることをゲェズと言います。それはやはり、あまり誉められる振る舞いではないのでは?」
「英語か?」
綴りすら分からんし、『他の瑕疵をあれこれ数えること』というのもいまいち意味が分からん。加えてゲェズは分かったとしてナァイはなんなんだ。
「おそらくドイツ語の略語だと思われますが、先生が勝手に作った造語です。辞書には載っていません。どうやら俗語ですらないのでどういうつもりで使われていたのかさえ若干不明な部分がありますが、要するに『心配性め』というような言葉だと推測されます。それを『くそったれ』みたいに言うとゲェズナァイになります。ちなみに日本語でググっても一件も該当しません。それくらいにレアなワードなはずなのに僕は日常的に聞いていましたので思わず口から出たりします……」
「お前からも初めて聞いたけどな……」
「では、心の中では思っていたりします。特に健介は心配性な気質であろうと推測されるのでたまに軽くゲェズナイします。自転車にも乗れます。後ろで支えててやろうか?ノーゲズナァイ!一人でできます大丈夫です。ヘルメットもノーゲズナァイ!」
日本語で言うと『余計なお世話だ』といったところだろう。それを『そう言う』と教えてやるとやたら使いたがったりなどするから極力便利過ぎる言葉は教えないように気をつけてきたが、その辺りの気持ちというのは正直に言って貰った方が気が楽だったりするかも分からん。
多分今まで、日本語でどう言えば良いのか知らなくて心の中でゲェズナァイだったんだろう。俺は今日初めてゲェズナイされたことを知覚したが、そんなような表情をしていたこともあったような気はしている。
「けれども日本に来て少しして多分汚い言葉だったのだろうと思ったので使わないようにはしていました……」
「そうなのか、まあ、じゃあ、それとなく言ってくれたら良い。一人でできますって」
「……そこまで断言できるほどではなくて、こう、もどかしい、心配性ですねという意味です」
買い物するスーパーの方角というのはミナコも把握しているみたいで心なし早足気味に俺の前を歩いていた。ただし、道順については確信がないのか、交差点の前では歩を緩めて俺の方を確認する。
「先程健介にはゲズナイが通じなかったわけですが、例えば僕が女子力の高い言葉遣いをした場合など、意味を受け取るのが難しかったりしますか?」
「お前の先生が外国で勝手に作った造語の意味がいきなり通じるわけないだろう。日本語なら通じる。だが、残念ながらお前から女子力の高い言葉遣いなどが出てくることはあんまり期待してたりはしない。言うだけ言ってみてくれ。意味が分からなかった場合は質問させてくれ」
「お花畑で芝刈機を稼働させます」
「…………。余計なアレンジが難易度を上げてるんだと思うんだけどな。トイレあったろう、公園に」
「ありましたけども、不衛生なのでは?女子力の高い人間は公衆トイレに駆け込むことはありません。さりげなく衛生的なトイレの在り処を問い掛けます」
「もっとなあ、女子力という言葉の根源的な話をして良いか?おそらくだが女子力の高い女の子というのはさりげなく立ち上がったところをどうしたのと間が悪く問われた際に恥じらいながらお花を摘みに行きますと答えることもあるんだろう。けどなお花畑で芝刈機を稼働させるような事態の逼迫さを想像させたりしないものだ。どれくらいヤバイのかなんて聞きたいわけじゃないんだ。そしてそんな古めかしい言い方というのはもう廃れてるだろう。今は化粧直しに行きますと言う。ともあれもうちょっと我慢しろ」
スーパーまでもそう遠いわけじゃない。信号の加減にはよるがせいぜい十分かそこらだろう。であれば、何もわざわざ宣言すらせずスキップのふりでもしながら早足に駆けていけばまあ、女子力とやらは保たれたのかも知れない。が、今日一日に限定してみたところでどこのどれが女子力を表す行動になるものか。
「そもそもベンチで寝てる奴は女子力は高くない」
「はて?もしかして僕の女子力が低いと言っていますか?何故?仮にベンチで寝てなかったとしても女子力が高いということにはなりません。これは女子力を測定する基準ではない」
「ならんな。そしていくら雑誌の中を探してみても女子力のチェック項目の中にベンチで寝ているかどうかは含まれんのだろうが、それは大学入試に一桁の足し算が問題として出ないのと同じで、その程度の分別を持ってない人間がいることを想定していないことの証明でしかない」
「そうかも知れませんが、筋肉ムキムキの人がたまたま脱力してても、筋力が低いとは言いません。時と場合によっては僕も力を抜く時があります。それを女子力が低いとは言わない。今回たまたまベンチで寝ていましたが、僕もそう頻繁にベンチで寝るわけではありません」
「筋肉ムキムキの人はな、普段から筋肉を鍛えてるのが見た目で分かるから脱力してても筋力が低いなどと評されないんだ。普段の行動見てて女子力高そうに見えないとアベレージで女子力は低いだろう。大体女子力というのは減点方式でなんか失敗するたびにやっぱり下がったりはしそうなものだ」
「なるほど。なら、どうしようもないのでトイレに行きたい、さっとトイレに行きたい」
「なんならさっと急いで先に行ってくれても構わんが……、俺も小走りでついていった方が良いのか」
「じゃあちょっと先に行って、お店の中には当然トイレがありますか?」
「あるから安心してくれ。入り口のすぐ左側にある」
「では行ってきます」




