五話⑥
「んっ、んぅー、ああ?……あれ?」
俺があれこれ理由を見つけ出そうと困惑している最中にミナコは目を覚ました。間は悪かったのかも知れない。
「ああっ、何をしていますか?健介やめてくださいっ、盗み聞きは良くありません!返してくださいっ」
「あっ、ああすまん。……すまんが、これ大丈夫か?なんか録音しちゃったりしてないか?」
「えっ、何故そんなことを?一体何を何故?ろろ、録音してたら、仮に録音していたとしたら万が一ですけれどもそれがどうかしましたか?返してくださいっ」
慌てふためいた様子でごろんと体を起き上がらせて俺の手からイヤホンと再生機をもぎりとって背中に隠す。
うっかり間違って録音してしまったというのを恥ずかしく思うものなのか、それとも故意に録音したとしてその雑音に耳を傾けていたことを異常だと認識してなのか、ともあれ俺には聞かせたくなかったようだ。
突つかなくて良い藪を突ついてしまった。
「それはそうと……」
「ちょっと待ってください。確認をしなくてはなりません。僕は寝言を言っていたりしましたか?ちなみにこれはベートーベンを聞いていました。そのことを健介は何か勘違いしたかも知れない」
「寝言は言ってないな、俺が来た時点からは。あと、……ベートーベンか。お前がそう言い張るならそうだったのかも知れない」
「ええと、ベートーベン、ベートーベン……」
ちらりとこちらの様子を窺い見て音楽再生機を操作して、どうやらベートーベンの楽曲を探し出して再生しようとしているらしい。
先の失態……、失態と呼ぶのか、それを取り繕うために証拠を改竄しようと試みている。だが、操作に慣れていないのかそもそもベートーベンというのが咄嗟に口から出ただけの当てのない誤魔化しだったのか、かれこれ十秒以上はベートーベンを探している。
「いや、バッハだった可能性が捨てきれない。これです。これを聞いていました。どうでしょうか?あ、いや、あっ、これです。これがベートーベンです。第九です」
「ん、ああ……。第九か。一応あったのか」
わざわざ親切心で俺でも知っていそうな楽曲を探したのかも知れない。とはいえ結局差し出されたイヤホンを耳に近づけてもそれが第九なのかどうなのかはいまいちはっきりとは分からなかった。
というのも、有名なフレーズとはかけ離れた曲調だったからだ。第九の一部がそうなのかも知れないし、第九じゃないのかも知れない。まあ、別に改竄された証拠がベートーベンの第九であるかどうかなど全く興味はない。ミナコ側が満足なら俺があれこれ解説を求めたり指摘したりするつもりはなかった。
ということで、公園でベンチやらごみ箱やらを移動させて寝ていたという点についてさえ、今回はあえて触れないでいることにした。
「ああ、分かった。ベートーベンだな。ところで、ボタン周辺に猫の肉球シールを貼るから操作しづらいんじゃないのか、間違って押すだろう」
「うん。はい、オイレ、バーンのところです。はい。猫の肉球シールは実は簡単に剥がすこともできます。僕はこれがシールであることが分かっていますが、僕以外の者が操作しようとした時にはうっかり猫の肉球を押し込もうとして困ります。僕が許可して別の人に操作させる際にはシールを剥がします」
かわいいから貼っているという主張は出てこないようだった。自分以外が勝手に触った時なんかに操作難度が上がるように工夫しているということなんだろうが、それが実際どの程度効果を発揮するかというと、……小さい子くらいしか騙せないクオリティだろう。邪魔だとは思うが、何も操作がぐんと難しくなっているわけじゃない。
「そしてですね、シールを剥がした者がいたとします。そうすると僕は何者かが操作を試みたことに気づけます。そういったセキュリティ対策が講じられています」
「なるほど、そうだったのか。おはよう、ミナコ。久しぶりだな。まず一番に言わなきゃならないことがある。悪かった。許してくれ」
「いいえ僕は全然気にしていません。健介も気にしなくて良いです」
「いや、……そんなわけにもいかないだろう。ちゃんと謝るべきだし」
「いいえむしろ忘れてください。忘れてくれた方が良いです」
「…………ん、いや、あれだぞ、先週の話だぞ?先週約束をすっぽかしてしまって悪かったという、そっちなんだが」
「えっ、ああそうでしたか。そちらについては気にしていても構いませんが……、いいえ、どちらも忘れてください。なかったことにしましょう。それが一番僕にとっても都合が良いのでは?」
双方気まずいだろうという配慮なのかも知れないが、俺にとっては拍子抜けというより消化不良感が大きい。ちゃんと反省して謝って許して貰って、なんなら相応のペナルティを甘んじて受けるつもりでいた。
なのにこうも肩すかしを食らって、じゃあ次はどんな言葉が続くものなのか悩ましい。おそらくいつも通りに振る舞ってくれというような要望を含んではいるんだろう。だがそうしろと言われて切り換えができるようにも思わなかった。まあ、しばらくすれば罪悪感など薄らいでいくものかも知れないが。
「とりあえず今日は買い物に行きます。寝過ごしましたか?」
「寝過ごしてはない。まだ約束の時間よりも随分前だ。陽太もまだ寝てるかも知れん」
「そうですかそうですね。では時間を繰り上げて買い物へ行きます。陽太の家への到着が十時になれば良いのでは?」
「陽太の要望とかあるかも分からんぞ」
「いいえ?それについては、どうなのでしょう。お菓子を買ってくれと聞いています。陽太はそもそも買い物へは行くつもりはなさそうでした。健介と僕とで買い物へ行ってくれというようなことを言われています。そして今回しっかりと僕も現金を持ち歩いています。飲物用とは別の、小銭ではない」
「……そうなのか?まあ、それならそれで良いが。とりあえず買い物へ行く前にここを元通りに戻さなくちゃならん」
「はい。そうですね。ところで実のところ、もしかして健介は既に知っているかも知れませんが、僕はですね、実店舗で……、買い物をしたことがありません」
「まあそんな気はしていた。だがコンビニ行ったことあるだろう。あれも買い物だ。店舗によってシステムが変わったりなどはしない」
「そうですか、なのだとしてもですね、一人での買い物というのは不安があります。健介はコンビニ以外でも買い物をしたことがありますか?」
「当然あるだろう、普通の暮らしをしてたらどこであれ買い物をしたことない人間の方が珍しい。任せろ、何もお前一人で行かせるつもりなど毛頭ない」
「はあ、良かった。何事かが起こる可能性がありますので、健介か、最悪陽太でも一緒にいないとマズイとは思ってました。品質を見定めることはできるかと思います。ですがですね、戸別に配送されない分安いでしょうか?値段が適当かどうかというのは判断できません」
「通販と比べて安いかどうかということか?そんなに変わらんだろうな。結局メーカーから店までは運ぶわけだし、店は店でなんやかんやコストが掛かる中で利益を出さなきゃならん。ネットで頼んだ方が安いというのもあるかも分からん」
「どんなコストが掛かりますかそれは」
「実店舗だと商品並べてレジ打って掃除する人の給料が余分に必要なはずだ。場合によっては警備員の給料も掛かるかも知れん。電気代とかも掛かるし」
「…………。ソーラーパネルを使ってロボにやらせればほぼ無料なのでは?」
「そっちの方が金が掛かりそうだ」
「じゃあロボはいない?一つもいませんか?別に人型である必要はないのですが、それでもいませんか?それはそれでがっかりである」
「一つもいない。いると思うか、田舎のスーパーに。お掃除ロボが床を拭き取って回って、天井から伸びたアームがキャベツ積んで、警備ロボが万引き犯をワイヤーで捕まえてくれる店なんかだったらさぞや面白いだろう。閉店時間になって警備ロボがコンセントに戻っていくまで眺めていたくなるところだ。近未来都市ではそうなってると良いな」
「そうですか。あと、決裁方法も分かりません。自販機などであればお金を入れてボタンを押すだけなので簡単なのですが。店ではそうなっていませんか?商品のボタンを押すと出てくるのが望ましい」
「そんなふうになってる店は見たことないな。レジ係の人に商品見せて、お金渡して、お釣りを貰うだけだ」
ただし、この説明で十分なのかは現場に立ち会ってみないとなんともいえない。俺と出会った当時のミナコは、簡単なはずの自販機すら使えない子だった。
あれはまあ、そもそもお金を持ってなかったせいではあるんだろうが、現金さえあれば買い物できるとも断言できない。他の客を参考にして真似するだけで良いように思うが、何かを見落としたり、何かを勘違いする可能性はゼロにならない。
「コンビニは入ったことあるだろう。コンビニが大きくなっただけの感じだ。特別すごい設備があったりはしない」
ベンチを引きずられた痕跡を辿って元の位置まで戻し終え、続いてごみ箱に取り掛かることにした。ミナコは腰を落としてもう一つのベンチを押していた。ちょっと押して、回り込んで、今度は引っ張って移動させることにしたようだ。
「うん。と、よいしょ」
ずるずるずるずると少しずつ引っ張って微調整。立ち位置を変えて元の場所であるかどうかを確認。
一つ一つの動作さえ、落ち着いて考えてみると不自然なものだ。例えば右のベンチを左に置いて左のベンチを右に置いたら、こいつは元通りじゃないと言い張るだろう。あるいは口にしないまでも不思議そうな顔をするだろう。
「ミナコ、このごみ箱はどっち側の奴だ。向きはどっちだった?」
「……?上の面の左側がちょっとサビててより白っぽいのが健介から見て右側になります。向きは左側が向こう側です」
「ああ。そうか」
「そして上の面に傷が四本ついてるのがそちらです。投入口のフタがメェメェ鳴きます」
「ああ、分かった。そんな、あれだぞ?元通りといっても厳密に微調整しなくて良いからな。大体の場所に戻ってたら十分だ」
不自然だな。これを多分……、一年後などに聞いても、ミナコはどちらをどちらに並べたか、覚えているだろう。
「なあちょっと確認したいことがあるんだが……、お前が前に『現金を持ってきました』と言ったのはいつだった?なんか聞き覚えがあるんだ」
「?現金は健介に小銭を持っておけと注意されたすぐ後から持っていましたが……、『現金を持ってきました』と言ったのは僕が自転車を壊してしまった時なのでは?多分ですが」
「そう……、だな。そうだったか」
これだから、ミナコとは、正直、言った言ってない論争で勝負になるはずがないんだ、そもそもな。俺が覚えていることを、ミナコが覚えていないはずがない。それがたとえ半年前だったとしても、どう発言してどう行動したかをミナコはちゃんと覚えている。俺などのぼやけた記憶とは段違いに鮮明に覚えている。
それもまあこんなにもすんなりと出てくるようでは、俺がミナコの記憶にいちゃもんをつけられるような機会などあったものじゃない。
『壊れてないか?』、『弁償する』。
嫌な言葉だ。俺の嫌いな言葉だ。
『現金を持ってきました』。
ふいに出た言葉、ふいに聞いた言葉が、俺の中に溶けて沈んでいく。ミナコは俺よりも鮮明に明確に何から何まで覚えているはずであろうから……、今あの時と同じように目を伏せてため息をついたら、『何月何日と同じ表情だ』と言うだろうか。
『そうだ、その時のことを思い出した』
『どうしてそんな悲しそうな顔をしてるんですか?』
『その時の、お前のことがさっぱり分からない』
「…………」
果たして、そんな会話は続かない。俺が何を思い出して憂うのか、ミナコが気づけることなどあり得ない。
俺は結局、新しい自転車をいつ買えば良いんだろうか。もういっそ、二度とサイクリングを楽しむことはないのかも知れない。
試しに記憶を辿ってみると、俺もその時のことは割と衝撃的な出来事として覚えていたからなのか、意外なほどに鮮明に、思い出すことができる。




