五話⑤
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保護者付き添いでようやく出掛けられた俺も、こうして外の空気に触れて体を動かせば、何を迷っていたのかと自省する。雲に遮られることもなく十分朝陽に照って、冷たい風が吹き荒れているわけでもない。空気は順調に温められていく。
ミーコ以外に野良猫などが通り過ぎる様子も見えた。要するに生物が生きていくにあたって、必ずしも布団が必須というわけではないんだろう。少なくとも今日に限っては。
さて、当然ミナコは、俺がここまで早く出発することを想定していないだろうが、わざわざ起床確認やら出発確認やらをしたりしないだろうか。さすがに昨日あれだけ念を押された上で電話に出ないとなれば、目的地に向かっていると推測してくれる、はずだとは思う。
ちょっと危ういだろうか。ミナコの推理力というのは時に……、俺の想定とは逆方向にジェット全開で飛び去ってしまうことがある。サプライズ謝罪などと銘打たずに、あらかじめ入念なフォローを入れておくべきだったのかも知れない。
俺はとりあえずミナコより先に到着をすることを目指しておいて、約束の時間になってもミナコが現れないようなら一度陽太の家へ行き連絡を入れてみることにするか。
元々忙しいのを無理して空けた予定だったろうから、ミナコは多少遅れるなりはするかも知れないし、もしかすると直前で中止の連絡を入れてくる可能性もある。
まあ怒りはしないが、俺も待ちぼうけを食らわないようにはしたい。ミナコほどではないにせよ、俺も切り上げ時というのを見誤って延々待ってしまうことになりそうだから。最悪陽太と二人でぐだぐだやるのもアリだ。仮にまたミナコが忙しいと言い出したのならそれでも良い。
「…………」
ミーコの付き添いというのは約束の場所の、要するに公園の、入り口に辿り着くまでのようだった。俺の少し前をミーコが歩いているというだけで、その間特に何という会話もなく、寄り道もなかった。結局ふらふらとついていった俺も俺だが、ミーコは公園の入り口付近で座り込みこちらへと首を向けた。
「ここで……、お別れだとでも言わんばかりだな。お前の散歩コースについて回る予定だったんだが」
「そうだったかニャ?健介どうするかと思っただけニャ。別に通り過ぎても良いニャけど、もうここで待ってた方が良いんじゃないかニャ?」
「あいつはまあ、普段なら一番乗りで来るから……、まあ、そうか?約束が、十時だとして、あいつが来るのが三十分早いとする。九時半だ。俺はそれを更に上回る早さでなくてはならない。そうすると、九時にいても良い気はする。お前の散歩コースはどんな感じだ?九時までに戻ってこれる距離なら全然そちらに付き合えるんだが」
「一番乗り逃して私のせいにされたくないニャし、もう健介待ってたら良いニャ。私は私で散歩してくるニャ」
「ああ。そうか。そっか。別にお前のせいにしたりなんてしないけどな。ありがとな、付き添いしてくれて助かった。お前のお蔭で今日は間違いなく俺が一番乗りだ」
「じゃあ、気をつけてニャ」
「お前こそな」
さてと、俺は今日ようやく、ミナコが約束の何分前に姿を現すのかを確認することができる。
じゃあ遊具にでも腰掛けて反省の弁の予行練習でもして時間を潰そうかと時計を見て、少し歩き始めた、ところで、二度見した。
公園の風景に違和感があったからだ。何かがいつもと違っているということだけは瞬時に見極めがついて、時計の時間を認識するよりも先にその違和感の正体にも気がついた。
子供の姿もないし、サラリーマンがいたりもしない。先客の姿はまず見つからなかったし俺が一番乗りだろうと半ば決めつけて掛かっていた。
だが、どうやら、そうじゃない。
俺は公園のベンチへと無意識に足を進めていた。公園のベンチに腰掛けて程よい遊具を物色するつもりでいた。そのベンチが、何故かいつもある場所から移動している。大した距離じゃないが確かに移動していて、ついでにその横へごみ箱やら他のベンチやらも移動している。
で、……地面にはそれらを引きずったような土の痕跡が残されていて、そうなるとだ……、そんなことをする奴を、俺は名探偵のように言い当てることができそうだった。
正体を確認するよりも前に、物証だけで、犯人像が目の前に浮かんでいる。
バッと覗き込むこともせず、慌てて駆け寄るわけでもなく、その土の捲れた痕跡を俯きがちに辿って歩いて、俺はこうして犯人を、見つけることになった。……なってしまった。
きっと、ミナコがいるだろうと、確信しながら目線を上げて、やはりそこには、ミナコがいた。
ベンチを合体させ、それでは不揃いだと思ったのか両端にごみ箱を一つずつ設置して、いや、目隠し的なパーティションのつもりなのかも知れない。とにかく、ミナコは合体させたベンチの上ですやすやと、腹の上で指を組んで、眠っていた。
寝相は悪くはないが、……やはり俺はこんなふうにしてる奴を、こいつ以外見たことがない。多分日当たりの良い場所を選んだんだろう。ベンチ一つでは落ちるかもと危険を回避したんだろう。あまりに丸見えではみっともないと取り繕ってごみ箱を両端にセットしたのかも知れない。
一つ一つ、その思考を紐解いて推測することはできるが、そもそも、家で寝てたら良いだろうにと、俺のツッコミが喉を、ドンドンと忙しなくノックしている。
だってそうだ、おかしくないか?こうなる必然性がまるでない。俺はまず、どうすれば良いんだろう。一番乗りに到着するという目論見は瓦解した。まず一言目には謝罪の言葉をと思っていたのに、この状況を放置して寝ているミナコを揺り起こして謝罪か?そんな不自然な光景が成り立つのか?
「…………」
俺が立ち尽くしていると、ミナコの左腕だけがずるりと腹から落ちてトッとぶつけるような音がした。それが眠りの浅さを示しているのか、深さを示しているのか判断がつかない。とにかくすぐには起き上がりそうにない。
とりあえず、俺なりにミナコの言い分を考えてみた。疲れていたんだろう。眠かったんだろう。あるいは、朝陽が気持ち良かったとかでも良い。
「なんだ……、これは。私的な空間を作ろうと苦心した結果か?えらいことをするな、こいつは……」
だが、結局本人を目の前に、聞かれているかどうかはさておいて本音が口から飛び出してしまった。
大体の人は、色々なことを考える。『ベンチとかごみ箱とかって、勝手に動かして良いんですか』とかそんなことを考える。自分の部屋なら好きに模様替えしてくれて結構だが、公園に配置されたものを動かそうとする人などそういないだろう。
百歩譲って一時的に公園の配置が不満になることはあるかも知れない。だが、眠かったからちょっと横になろうと思ってベンチとごみ箱を動かす人というのは、今の今まで少なくとも俺の想像力の外側にいた。
屋外で、寝ようと思ったところで寝れるもんなんだろうか、この季節に。人が訪れる可能性だってある場所で。俺がこの状況を誰かに伝えたとしても『そんなことをする人間がいるはずがない』とジョークだと受け取られる可能性は高い。
「重いな……。極々当たり前に、重いだろう。何故こんなものをわざわざ配置する必要があるんだ……」
『そんなことをする人間がいるはずがない』と、大半の人が真に受けない中で、多分俺と陽太だけは、ちょっと考えて続きをこう口にする。『いや、もしかしてこんな風貌でしたか』と。
ミナコの頭側のごみ箱を押し退けようと膝を押し当ててみたが、指を引っ掛けて片手で動かせるような重量じゃない。当然金属製の代物は相応の重量があって、そこそこには力を込めて移動作業を行う必要がある。多分ミナコの場合、腰を入れて両手で押すなり引くなりしないとダメだったろう。
「どの道体力自慢であろうとこんなことはしないか……」
ずりずりとごみ箱をどけて顔を覗き込むがやはりまだぐーすか眠っている。意外なことに、今回どうやらこの早過ぎる到着に備えてなのか時間潰しの準備をしていたようで、イヤホンのコードが耳元から垂れ下がっていた。
いつも手持ち無沙汰で待っているミナコにしては珍しい周到さではある。コードを視線で辿ると多分左手がずり落ちた時に引っ掛かったみたいでポケットから音楽再生機らしきものが引きずり出されていた。
落っことして壊すといかんなと思ってそれに手を伸ばしてミナコの左手を持ち上げてコードを通し、手元まで持ってくる。ミナコの右手を除けて腹の上にでも置いておこうかと思ったが、それはそれで寝返りをしないとも限らないわけで……、そうすると手近な置き場所もなく俺が手元に持っておく他なくなる。
画面は楽曲名や映像が表示されているわけでもなく、ただひたすらに真っ暗だった。本当に音がなっているのかすら定かじゃない。
こうして一分が過ぎると俺はミナコがどんな音楽を聞いてこんなふうに寝られるのか気になってきた。ということで、ミナコの右耳からイヤホンを抜き取り、それをちょっと耳元に当ててみる。流行の音楽を勉強中だったりするだろうか。それとも古典クラシックを楽しんでいるんだろうか。もしかすると眠気を誘うような自然音を聞いていたのかも知れない。
「……………………」
が、一向に、音楽が、流れてこない。トラックの切れ目かと思って少し待つと、ガタン、ガタン、ドサ、ザー、そんな音が微かに聞こえてくる。
「まさかとは思うが……」
あくまで可能性として、いくつかの候補が挙げられる。
まず一つ目だが、音楽再生機の故障か、イヤホンジャックの挿し具合の問題だ。とりあえず端子がしっかりと挿さっていることを確認した。それでも音の具合はまるで変わらずサーと軽いノイズが流れた後、ゴトンゴトンと物音が聞こえてくるだけだった。ノイズだけなら再生機を押し潰したりぶつけたりしたせいだろうと疑うところだが、音が極端に乱れているという印象はなかった。
そうなると二つ目の可能性として、操作を誤って、何かしらを録音してしまっている可能性がある。うっかり録音ボタンと再生ボタンを間違って押したまま、車に揺られてガタゴト音が録音され、それが再生トラックの一つになっているという可能性だ。
まあ、あり得ない話じゃない。車に乗せられて移動中に音楽を聞こうと思って、操作を誤り、録音してしまっていた。それが偶然今再生されているという可能性は、……ないことはない。それはまあ一応、起こり得る事故だとはいえる。
ただ、第三の可能性として、……そもそもミナコがこの、環境音を、眠るときに愛用しているという可能性が、拭いきれない。
好き好んでこんな物音らしきものを、聞いている可能性が捨てきれない。それはなんというのか、俺を恐怖に陥れるのに十分だった。
これをまさか寝る時の音楽としているというのなら、俺はいくら思考を周回させてもやはり理解など到底できそうにはない。音楽性というのは欠片もないし、規則的な音というわけでもない。少なくとも俺にとって、そして大半の人間にとってもおそらくは、単なる雑音にしか聞こえない。




