四話⑫
……結論から言うと、これは一種の夢だった。夢だとしか説明できない。……起きているつもりではいたわけだから、あるいはもっと単純に、幻覚的なものとして片付けても良いだろう。
俺は何の気もなしに目を開けて、ベッドから立ち上がって、さほどその声を気にすることもなく部屋から出ようとした。何歩かは歩いて、手のひらにはノブの感触もあったし、足は床を踏みしめていた。そのはずだ、そのつもりではあった。
『あなたは選ぶことはできないけれど、あなたの幸せは既に用意されている』
不思議なことに、目を開けているにも拘らず、俺はそこから更にもう一段階目が覚めた。むくりと起き上がると俺はベッドから一歩も移動していなくて、当然、話し相手が目の前にいたりもしなかった。
誰なんだろう。どうして俺はこの状況に何一つの焦りを感じないんだろう。その異様さを、俺は夢だからだとしか、解説できそうにない。夢を見ていることに気がついて、俺が眠っているのだと、はっきり認識してみると、ザワザワゾワゾワと風の音が俺の周りに這い寄ってきて、また、夢の続きから逃すまいと、語り掛けてくる。
「結局、俺にどうして欲しいんだ?」
『たった一つだけ、心に用いるように。きっととても優しい子なのだから、あなたはずっと彼女の側にいられる。彼女と出会えたことをとても幸福だと感じる時が来る。彼女と出会うことを、とても幸福だと感じる時が来る。結局同じように結末が迎えられるにしても、あなたが何を求めているのかを、私は知らなくてはならない』
◆
何度も何度も念入りに唱えるような、そんな声だった。
それは俺が正しく意味を受け取れないことを危惧してだったのかも知れない。とはいえ、それが何度唱えられたところで、俺はその声の正体やら、声の伝えたいことに、まるで無関心のままだ。
それどころか、その懸命な姿勢に、嫌気すら感じている。こんな夢、一刻も早く終わってしまえと思っている。熱心な宗教勧誘か、あるいは熱血な教師の説教か、他人がいくら俺のためだと熱弁したところで、やはりそれが本質的に俺のためになったりしないことを俺自身が最初から決めつけている。
多分それは、いくら声色が変わろうが、言葉選びが違ったとしてあんまり関係ないものだろう。話を聞く態度として不適切だと自覚するほどに、あまりに相手に対して失礼だろうなと自省するほどに、声は俺の体を素通りしていく。俺が聞く耳を持ってない。
『とにかく、アンミを手放さないように。それだけを理解してくれたら良い』
俺が受け取る言葉の意味というのはとても僅かで、だがそれでも固有の人名が登場したところでだけは少し興味を引かれた。
『アンミを手放さないように』
『アンミを手放さないように』
頭の中に聞こえてくる言葉を、また頭の中で反芻してみても、どうにも意味は繋がりを生み出さない。ただ言葉があるだけで、その言葉の意味するところを俺はまだ認識できないでいる。
同じ言葉がいくつも言い換えられるように組み変わってようやく一つ、『アンミ』という名前を意味しているように感じられた。例えば、赤い髪と、赤い瞳で、『アンミ』を表すような、そんな水の染みが模様を描くような遠回りな表現が続いている。
それは例えば、『手が届かない』と言っているようにも思えた。背伸びをしても手が届かない場所にあって、それをもぎ取るために手を伸ばしても、葉に裂かれて傷の痛みを知るばかりなのだと。だから、相応に、身の丈にあった、轍のできた道筋を歩めと語っている。到底、余計なお世話であるばかりか、それが何の比喩なのかも定かじゃない。
とにかく分別を持てと、そんなお節介を焼いているようだ。大きな岩を押して山を登ったところで、欠けて、零れて、汚れて、すり減る。願いを少しずつ削って丸めて、抱きしめて、それを重たく感じる。大事に大事に削りながら坂道を歩いて、結局粒ほどの小石を得た時に、意味のない徒労を後悔する。
初めから多くを願わなければ特に苦労もなく手に入れることができた粒ほどの小石を、何も大きな岩を転がして手にする必要などない。
『たった一つだけ、心に用いるように。あなたがアンミを取り除こうと決めない限り、あなたは幸福になれる』
『それでも私は、あなたの願いを、あなたが求める想いを、知らないままではいられない』
それをどう言い表せば良いのか……。緩やかに、穏やかに、少しずつ俺の中の心証が変わっていく予感があった。ああ、この声は本当に、俺のことを心配しているんだなと、そう思わせる響きがあった。
ガチャガチャと聞こえの悪い音の後に、いやその中に、微かとはいえ、深く心に沈む音がある。一体これは、いつまで続くんだろう。いつまでも続けば、俺はきっと、洗脳されてしまうんだろうな。
『手を繋いだまま歩める距離は限られている。固く握らず痛みの薄い別れを望みますか。今ならそれを叶えられる』
『アンミと、ミーシーと、離れて、あなたは穏やかな日常を得ることができる』
それは……、嫌だなと、内心思いながら、どうしてかそれをはっきりと決めることは難しかった。どうしてか……、いや何故ならそれは、俺が全く望まない選択肢を、何の前提もなしに提示しているからに他ならない。
まるで道端でいきなり石ころを買いませんかと迫られているようなものだ。当然その石ころの価値が明示されなくてはならない。全く無価値な、石ころを、普通ならば、買うはずがない。買うはずがなければ当然売るはずなんてない。それをわざとはぐらかして誤魔化して俺に選択肢を与えているかのような素振りをする。それはとても不公平な取引になりかねない。
『単純なことなのです。あなたは、二人と出会う前と後とを比べてみれば良い。何事もなく平穏が約束されている今、この時、あなたは新たな出会いに喜びを感じたか。それを重要だと感じたか』
告げるまでもなく、そうであることを、分かっていないはずがない。
『人数の足し算引き算ではなく、出会ったその人を深くまで受け入れる気持ちがありますか。そうした時、あなたはその誰かが側にいることで、幸せを感じられますか』
そうであることを、この声は、聞く前から知っているはずだ。
なのにそれを問うている。それが当たり前でないかのように俺に質問を繰り返している。そんなことに一体どんな価値がある。それは一体、誰を指して話している。俺じゃないはずだ。俺に何かを求める必要があったりしないはずだ。俺に何も知らせない癖に、俺が何かを決められたりなどしない。『だから』とも、『どうせ』とも受け取れる言葉が続く。
『二人を手放してはならない。二人を離ればなれにしてはならない。そうすればなんにせよ、どちらにしても、あなたはきっと、幸せになれる。だからどうか、最後まで手放さないように』
それが最後の言葉であることが俺にもしっかりと分かって、俺の意識は、声が消えるのと同期するように浮かび上がってくる。俺は、ちゃんと、こう目を開けて……、指が思う通りに動くことを確認して、寝ころがった体勢のまま大きく深呼吸をした。
続けて体を起こし左右を振り返り足元で丸まっている毛布を引き上げる。ようやく終わったそれを、俺はどう考えれば良いのか分からない。
「考えられる可能性は、……いくつかある。一つ目は、まず一つ目はあれだ。アンミかミーシーかは分からんが、魔法で俺にイタズラをして遊んでいる。だがアンミは俺にそんな意地悪をしたりしないだろう。よくよく思い返してみて、別にミーシーからも悪意ある攻撃を受けてたりしない。ちょっと俺のことを下に見てるというだけだ。じゃあ二つ目だが、俺の頭が相当に疲労していて、夢と現実の境界がまるで分からなくなるような、そういう夢を見るようになったのかも分からん」
だが、そもそも俺は別に疲れを自覚していたりしない。精神が錯乱したりもしていない。同居人がいて、俺の頭がおかしいことを指摘されていないのなら、俺は真っ当な精神状態を保っていると考えて問題ないはずだ。なら、……考えたくないが、三つ目がある。
「俺が、昨日、……昨日見たあの、あの幽霊が俺の部屋に居座ってたりしないか?」
一瞬だが俺は幽体離脱して部屋から出ていたような気がする。魔法使いがいるんだ、悪霊がいてもおかしくはない。その悪霊は、何か、妙に親切そうに声を掛けてきたが、それはきっと罠だ。
相当に悪いことに、俺の部屋に居すわっている悪霊は、俺の魂を狙っている。俺の魂を、狙っている悪霊が、俺の部屋に居座っている?
「俺の魂を、……何を言ってるんだ俺は。二つ目の可能性も捨てきれなくなってきた。頭がおかしいか俺は」
「健介?なんかドタドタしてるニャ。どうかしたかニャ?」
「そうだな、猫が、喋るもんな。木の根っこがにょきにょき伸びるし、生中継のはずの試合の結果などもどうなるかミーシーに聞けるもんな。それは、それこそがおかしいといえばおかしい。じゃあ俺はどうして、それがおかしいと思いながら現実を否定できないままなんだ、俺はどうしたら良いんだ」
「…………。ニャー。ニャー、ニャ」
「無理して……、猫っぽく喋るな。気を使うな。お前はもうさっきとか確実に喋っていた。今更そんな普通の猫のふりをしなくて良い。ましてや俺のせいでそんな普通の猫のふりをさせるのは申し訳ない」
「百年かそこらしたら多分なんか科学的に解明されてたりするニャ」
「なんて力強い言葉だ。そりゃな、科学的に解明されたら俺には文句は言えない。現代において決して常識的とは言い難いことも、未来の超技術なんかによって紐解かれることがあるんだろう。つまり俺の頭は狂っていない。ただ…………。百年は遠いな。幽霊が出た。何とかならんか、これは。魂を狙われている」
「どんな幽霊だったニャ?」
どんな、幽霊だったろう。
「どんな……、どんなと言われてもな。幽霊というのは実体がないから、何をどう説明して良いのか分からない。だが……、目を瞑ってたはずなのにぼんやりと、姿があったような気がしてくるな。どうだったろう」
女の声をしていたのは間違いない。そして、俺が今の今まで自覚していなかっただけで、ぼんやりとうっすらと、その姿の輪郭が浮かび上がっていたようには思われた。
「……どんな?あれは、女だった。いや、考えてみると」
「女の子の幽霊ニャ」
考えてみると不思議だ。会ったことがあるような気がしていた。姿を、その輪郭を、その表情を、見たことがあるような気がしていた。だが、それは違う。輪郭を、見たんだろうか、表情を見たんだろうか。それすら定かじゃない中で、俺の瞼の裏に焼きつけられたイメージが残っている。
再び目を閉じればくっきりと思い出せそうで……、とはいえそれが知り合いであったり、有名人だったりはしない。何故俺がその姿に見覚えがあるように感じるかというと、そうだ。再び瞼を閉じてみる。
どうやらそれは、俺の思い描く、……想像上の、理想の女性像そのままだった。すらりと背が高く、黒く長い髪がふわりと風に浮かぶように軽く、微笑みの美しい女性だった。なんなら、こうともいえる。和服を着れば大層艶やかに似合いそうなものなのに、それを気恥ずかしがってセーターなどを着てそうな大人しくてとても知的な女性だ。
そうミーコに伝えようとしたところで、それがとても馬鹿げた妄想のように思えてくる。
「……かわいかった。かわいいというか、美しかった。言葉も、なんだろう。乱暴だったりしなかったし、なんならノイズがひどかっただけで、元々の声はとても透き通っていた」
「その幽霊が健介のことを狙っているのかニャ?」
「そんなはずはない。幽霊?俺の理想を、……現実を超越して美化した幽霊が……、俺を」
「健介を?どうするニャ?」
結局は、俺が夢の中で、妄想の美女と会っていた、なんていう、……どうしようもない話であることが分かる。同時に、夢の中でこそそれをしっかりと把握することは難しかったが……、俺の妄想の産物は、それはそれは大層きらびやかに美人であったし、『見えてはいないながら』身の振る舞いは清潔そのものだった。
空気など吸いそうにないほどに、食事など取ることがなさそうなほどに、女神だった。
静かな図書館などで指一本でぱさりとページを捲って優しげに微笑むようなイメージの、超絶、美女、だった。
触れる距離まで近づいて、椅子がキシリと鳴る音がようやく人間だと知らせるくらいの。小さく上品なくしゃみがようやく彼女を人間だと知らせるくらいの。異次元な存在感を持つ美女だった。
「夢だ……。今、はっきりと結論が出た。……実在しないような人物が出てきたわけだ。だが、夢に出てきたあれは、女神だった」
「……悪霊じゃないのかニャ?」
「それも今はっきりと気づいた。仮に百歩譲って霊体だったとしよう。妄想じゃなくて霊体だったとしても、でも悪霊じゃない。何故なら、悪事など働いていないからだ。悪霊というのはな、いや、悪霊に限らないが、悪いものというのは常に悪いことを考えているんだ。悪いことを考えて悪い笑い方をしている。そうするとこう、悪者っぽいシワなどができたりするはずだろう。女神というのはそういうシワができない。大体そういうのは、……見た目で分かるというか、あれは女神だった。馬鹿なことを言ってると思うか?」




