四話⑪
「はいもしもし」
「えっともしもし」
「あっミナコか、どうした?」
「あのぉ、ええとですね。そういえば明日は晴れるでしょうか」
何やら元気のない声色ではあるし、言葉を選んでいるのか遠回しに明日の天気などを確認された。ふと思い当たるが明日の約束について確認したいことがあるんだろうか。
「明日の、約束のことを言ってるのか」
「そうっ、それ図星です!」
ぼそぼそ声に耳を近づけていたせいで、途端に張り切るミナコの声がよく突き刺さった。少し受話器を傾けて音量を調整しつつ会話を続ける。なるほどミナコは前科一犯の俺に対して、念のための前日連絡をしてきたわけか。忘れていないかの探りを入れるつもりだったようだ。
俺はどのみち明日も六時起きであるから寝過ごす心配はまずない。うっかり忘れるようなものでもないが……、ただ、前科者の信用は失われていて当たり前なんだろう。忘れていると決めつけてないだけ、まだマシな扱いではある。
「図星……。図星というのは、そんな『アタリー』みたいなテンションで言わない」
「はあ。意味は通じますか?」
「通じるのは通じるだろうが、変といえば変だ。バレたらマズイことを指摘された時に、『うわあ図星だ』と思ったり、バレたらマズイであろうことを指摘する時に『図星だろう』と詰め寄るような台詞だ」
「なんて言えば良いのか。しかし通じているのならおおよそ問題ないのでは?ニッケル電池とかエコノミー症候群とか携帯のバーコード読み取りとか言われても僕も大体言いたいことは分かります」
ニッケル電池とかエコノミー症候群とか携帯のバーコード読み取りというのは、むしろ過去こいつに、通じなかった固有名詞だ。
ニッケル電池と言われてもニッケル水素電池かニッケルカドミウム電池か分からない、エコノミー症候群と言われると精神病みたいで正しくはエコノミークラス症候群、携帯のQRコードにはバーなどありません。
それは単に俺の言い間違いや覚え間違いでしかないんだから、それこそ文脈とか雰囲気で汲み取ってさらりと流してくれて良いところだったろうに、それを今ここで対比に持ってくるか。固有名詞の言い間違いなども大概阿呆だと思われる一因ではあるだろうが、日本語のニュアンスの誤りなどは更に重傷度が高いようには思われる。
通じるかと言われたら、まあ通じる。通じれば良いのではと言われたら、まあ確かに。
「だがまあ、大体言いたいことは伝わるけど、どっちもな。俺の言い間違いとかも阿呆っぽいし、お前のそれ図星ーというのもやっぱり阿呆っぽいんだ」
「なるほど、納得である。確かに固有名詞を変に略している健介は阿呆っぽかったと記憶しています。あんな感じとは……、ちょっとショックである。では図星が違うとしたらどう言えば良いでしょうか」
「お前の場合は『アタリー』とかで良いと思うけどな。逆に正しく図星の時ですら『アタリー』とか言ってそうだしな」
「犯人はお前だろうという時などですか?」
「…………うん。そうだな」
「そんなことはありません。犯人でもありません。アタリーというのは、嬉しい時に使うのでは?」
「うん、そうだな」
「健介はどうして使いませんか?今アタリだったのでは?」
「いや、そんなに嬉しい場面でもなかったしな」
『僕の日本語でおかしいところがあったら教えて』と、言われたことがある。教えても何も日本語ペラペラだろうがと、返すところだが、確かに、妙なところで変な言葉を使ったり、俺と陽太が話している時に疑問符を浮かべて意味を取り違えることなんかがあったりはした。
一応、変なことを言い出したら俺は言われなくてもツッコミしていただろうとは思うが、そもそも俺も陽太も、こいつはわざとそういう変な日本語を使いたがっているんだと思い込んでいたし、もうそれは個性だと割り切って話していた。
大体の場合意味は通じるし話も続いていくわけだが、特に出会って初期の頃には、……子供が背伸びして大人を真似たような変な癖のある物言いをすることも少なくなかった。
まずもって……、一人称が僕だった。当然それは俺も指摘してるはずだが、直す気配など微塵もなかった。多分指摘した一秒後には僕と言ってたはずだ。そんなことが随分と当たり前に感じられるようになった頃、日本語が難しいから教えてと、結構思い悩んだふうに切り出されたのだった。
例えば俺と陽太の言う……、『全然元気』だとか、『普通に良かった』とか、そういう何気ないのが通じてなかったりした。全然、だったら、元気がないのかと思ってた。
普通に、良かったのなら、平凡でつまらない程度のものだったと思ってた。……なるほどだがそれは、かなり限定的な外国人に対してするような配慮だったろう。いちいち詳しく説明をするようなものじゃないと思っていた。
何故なら、ミナコは少なくとも、……おじいちゃんは日本人だった。片方の親は日本人なんじゃないだろうか。特に文法的に破綻した日本語を使っていたり、語彙が乏しかったりしたわけじゃない。だから、まあ、疑問符を頭に浮かべて首を傾げていようが、全然の後に心配がないとか問題がないとかが省略されている、だったり、普通にというのは肯定的な意味で個人の好き嫌いを超えて普遍的な価値観の中で良かったということだ、なんて説明を、わざわざ口にしたりはしなかった。
俺たちが一度話した内容は確実に覚えているし、頭は、良い。英語もドイツ語も話せるし漢字も書ける。日本史などたった一日で年号を暗記してきた。
にも拘らず、どうしてか日本語を教えてくれなんてことを言ったりする。もしかすれば、今までずっと薄ぼやけた不安なやりとりをしていたのかと、俺は少しばかり、こいつを不憫に思ったものだ。
とはいえ、そんなもの下手をすれば辞書を丸暗記でもすれば済む話なんだろうし、都度指摘をしたところで今なお、おかしな言動や挙動が消えない。参考元が陽太であったりもするから、こいつばかりを責められたものでもないが。
「ふぅん。犯人は僕ですアタリー。犯人なのに言い当てられて嬉しい」
「それはまあ、相当に馬鹿っぽいな。お前とかは、そうかも分からんな」
「それはともかく明日ですが、朝の午前十時にあの公園で待ち合わせでよろしいでしょうか」
いやに、丁寧な確認だった。前回の約束をすっぽかしたせい、なんだろう。皮肉のつもりで言っているのかは判断できないが、明日、遊ぼう、というのは俺たちにとっては明日朝の十時に公園集合とほぼ同義で、今日、遊びに、行こう、というのは今から公園集合と同義だった。
そうでないなら場所なり時間なりの指定があってもおかしくはないが、どうやら今回は相当に慎重に当てつけがましく、俺との待ち合わせをするつもりらしかった。
「ああ。分かってる。大体、ほら、いつも通りだしな……」
「メモを取りましたか?」
「…………。何の問題もない。大丈夫だ。一切の心配はいらない。いきなり頭が狂わない限り覚えてる」
「頭は狂いそうですか?」
「ん、狂うと思うか?俺の頭が突然狂うと思うのか?よほど狂ったことなんてないぞ、俺は」
俺は、こういう時、少し考えなくてはならない。ミナコは、少し変わってるから、当然のように真顔で失礼な質問をする、……という部分は完全には否定できないわけだが、少しは考えてミナコの言いたいことを汲んでやらなければならない。
「…………、いや、そうだな。頭は狂わない。だから、間違いなく明日の朝十時に、俺は公園にいる」
「うん。明日は十時に公園に行って、二人で買い物に行って、陽太の家でゲームする予定です」
「……二人で買い物に行く?陽太は何してるんだ。朝は何か用事があるとか言ってたのか?」
「さあ?そのまま外で遊ぶのなら仕方ないのだが外は寒いから健介と買い物でも行ってお菓子を一杯買ってきて欲しいのだと言っていた。おそらく別に用事があるとかではない」
「あいつはその間家で待ってるのか。何なら買い物は俺が行くし先に陽太の家行ってたらどうだ」
「けれども、一応……、僕も理由を尋ねたところ、健介が僕と二人きりにして欲しいと陽太に頼んだそうなのです。なかなか素直に謝ったりできないから、少し時間をくれと、頭を下げたそうです。ホントかどうかは知らんけども」
「それは嘘……、だな。嘘だがごめんな」
「嘘なら嘘でも良いけど、健介もお菓子持ってくつもりらしいからそっちについていこうと思います。陽太は買い物を面倒だと思っているのでは?」
「部屋の片づけとかがあったりするのかも分からん。そういう分担だと言われたらそうするしかないな。俺もまあ、俺でお詫びに菓子折り的なものを用意した方が良い気もしてきた……。じゃあ分かった。そういうスケジュールにしとこう」
「はい。では僕も明日問題ないように準備しておく。また明日」
「ああ。また明日」
プツリツーツー。電話が終わった後も受話器を持ったまま、少しばかり考えてみる。前回の約束が、いつの間にやら過ぎていた。考えてはみる、ものの、その原因について、やはり思い浮かぶものがなかった。
単に、俺が、うっかりしていただけ。単に俺が、勘違いして約束をすっぽかしただけ。だが俺は少なくともほんの数日前まで、約束を忘れたりなどしていなかった。
来週が楽しみだなあとか、久々に会ってどんな話をするんだろうかとか、約束の当日に多分、そんなことを考えながら過ごしていた。第三週とか、そういう日付の決め方が悪かったのかも知れないし、それでおかしな計算間違いをしていた可能性はある。
だがその前日に、陽太と店で顔を合わせているはずだ。その時に俺が『来週の約束』について話していれば陽太はその間違いを指摘しないはずがない。逆に陽太から『明日の約束』について聞いていれば、どんな阿呆でも自分が日付を勘違いしていることに気づけたはずだ。
偶然にも全くその話題に触れなかったのか、話していたにも拘らず日程についてだけは言及しなかったのか、どうにも確定的な記憶というのが見つからない。どちらかというなら、話していた、気がしている。
『来週の約束忘れないようにしておけ』と陽太に偉そうに言った、ような気がする。だがそうすると俺の台詞は勘違いによるものだとして、陽太のその後の反応があまりに不自然だということになってしまうから、俺は言った気がする、とは思うものの、言ったと断言しきれない。
もしかすると先々週の記憶とごちゃ混ぜになっていて、発言時は本当に来週だったのかも知れないし、なんか知らんが言ったつもりになっているだけの独り言で終わってしまったのかも知れない。
俺が『来週の約束』について言及していたと仮定すると、陽太もその時まで忘れていて、ミナコから電話が掛かってきて気づいたという可能性もないことはない。まあ、陽太もこの件に関しては電話があったとしか言ってなかった。
せめてこれがアンミたちと会った後とかの話だったら少しは言い訳もできそうなものだったが、……とにかく何か偶然が重なったにせよ、そもそもの原因は俺の確認ミスだったのは間違いないわけで……。カレンダーすらまともに読めないとは……。まして、割と楽しみにしているようなイベントを全く気づかないとは……。
居間に戻る気もなくなったため階段を上って自室へと引きこもる。ミーコはおやつ後のお昼寝中で、俺も一旦は椅子に腰掛けたが、しばらくぼうっとしてベッドへと移動した。
夕飯が夜の七時か七時半かになるとして、せいぜい一時間かその程度、ひと眠りするには少しばかり時間が足りない。特に眠気を感じているわけでもない。こうして暇を持て余した時は、まあ、明日の予定でもぼんやり考えながら柔らかいベッドで目を瞑ると良い。
汚名返上とはいかないまでも少しは挽回するよう努めなくてはならないだろう。そう気負うのとは別に、おそらく楽しい時間になるだろうとは思っている。出会いに恵まれている。友人に恵まれている。俺はなんとも幸福だ。
その幸福を噛みしめながら目を閉じている間に、ボソボソとどこからともなく、言葉らしきものを聞き取っていることに気づく。まず初めに、それは誰かの声だった。
人がごった返す雑踏の中で聞き慣れた声を見つけた気がして、ふと振り返って何かを、……いや、誰かを探すような、でもそれはかなり高い確率で単なる聞き間違いでしかない。
誰かの声に似ているだけで、その誰かであるはずはない。そもそも考えてみると、それが誰の声に似ているのかすら分からないでいる。照明の加減が突然切り替わったように感じて天井を見上げることがある。部屋の隅に積んであった雑誌が俺の知らない表紙にすり変わっているように思えて慌てて近寄ることがある。
それは、確実に、気のせいでしかない。ただ、他人のばらまいた小銭の音に反射的に注意を引かれて必要もなく立ち止まるような、頭の中では十分に、それを無駄だと知りながら、十分に無意味だと分かっていながら、生理的に何故か、俺は、その声に反応することを拒否できなかった。
ずっとずっと遠い昔から知っているような声で、後ろか、左右か、どこからともなく語り掛けられている。それはおかしい。俺はそんな声を知らないし、知っているような声だなどと感想を持つはずがない。だから俺は振り返る必要も耳を傾ける必要も当然ない。
……なのに、その静かな音は声に違いなくて、俺に対して十分な意味を持つ言葉なのだと、思わされてしまった。誰かが、何かを、俺に、伝えようとしている。
『けれど、あなたが幸せになるための方法は、きっと最後まで守られている。それだけは安心して分かっていて欲しい』
よくよく聞き耳を立ててみれば、声らしきものはジャラジャラと嫌なノイズを乗せていることが分かる。人の声というのが例えば砂粒のようにさらさらと流れるものだとすれば、今俺の頭に届くこれは、どこか歪な欠片を寄せ集めて作られたかのように、機械的な抑揚を含んでいる。
たった一言の意味こそ分かるにせよ、耳障りな音の高さや低さをガラガラと混ぜ合わせていて、長いこと聞いていられるようなものじゃない。硬いものを床に落としたような響きをしている。壁に擦りつけるような響きをしている。
それが声だと認識できるのが不思議なほどに、音にはまるで明瞭さがない。俺が目を瞑っているのが悪いんだろうか。




