四話④
「健介行こう?」
「ああ、行こう」
ポケットを叩いて財布を持っていることだけ確認してミーシーとアンミの後に続く。バスの乗車賃、飲料や、最悪俺がウエストポーチを押しつぶしてお弁当を台無しにしてもレストランで食事できるくらいの金は持っている。バスを乗り過ごしてタクシーで移動することになっても、まあなんとかなるだろう。
ミーシーの予知頼みなのも悪いし、俺も俺で備えられるところは備えたつもりでいる。まあおそらく無駄な備えにはなるんだろうが、と、思っていたが、玄関で、ミーシーから質問を受けた。
「ところで、一応、念のため、多めにお金を持っておいてくれた方が良いわ」
「いくら必要だ。一応、多めには持ってきてる」
「まあ多いに越したことないわ。何があるか分からないから、いざとなるとお金がやっぱり大事だったりはするのよ」
「およそ大丈夫だろうというくらいは持ってる。心配するな」
質問自体も意外だったし、実際いくら必要になるか知らされないことも意外だった。ミーシーは「まあ大丈夫でしょう」とだけ言ってまた振り返り玄関から外へと出ていく。
おおよそどんぶり勘定での予知をしているということなのかも知れないし、あるいは予知の中での分岐を残したままだったりするのかも知れない。とりあえず、俺が多めにお金を持っていることでミーシーの予知にもゆとりが生まれるというのなら、それはそれで、俺が役に立ったとはいえる。
とはいえ、外に出てからの先導は完全にミーシーに任せきりだった。普段バスなど利用しない俺からすればバス停がどこにあるか、どこかしかにはあるだろうし、なんとなく見た覚えがないこともないが、はっきりとここだと確実な場所を言い当てることはできなかった。まして向きや発車時間など気にしたことさえない。
本当にすぐ近くに、言われてみればバス停があったことに、妙に感心してしまった。加えてバス停まであと十メートルかそこらのタイミングでバスが到着した。本当に予知通り到着するんだなと、何気なく足を止める。
俺が足を止めたせいだろうが二人も俺の前で立ち止まって俺を見上げた。バス停には一人老齢の女性が立っていた。乗客の一人だろうかと思っていたら、少しするとバスの運転手も降りてきて二人で何やら話し込んでいる。恰幅の良い運転手は左右にキョロキョロと首を振った後ずいーっと指を立てて腕を伸ばしそれを素早く右側に振り払った。
おそらく、道案内をしているんだろう。女性もこくこくと頷き、時折頭を深くと下げていた。なるほど、親切な運転手さんなんだろう。
「まあ、……良い人そうだな」
「あ、道案内だったんだ。そっか、バスの人は道知ってる」
「良いことして気分も盛り上がるでしょう。上機嫌で仕事してくれるわ」
俺たち三人はせっせと何度も大仰な身振り手振りで道案内をする運転手の横を抜け、バスの後部へと乗り込んだ。何となく、詰めて乗るのが常識だと思っていて、一番後ろの席に座った。
「ちなみにこのバスはどこまでだ?」
「役場までよ。そこから駅までのバスに乗り換えて、駅からは直接のバスがあるわ」
「そうか、じゃあ割とすぐだな」
こんな平日の朝早く、バスを利用してどこかへ出掛けようなんていう人間は、多分、多くはない。途中時間調整のためか二つほどバス停で停車したものの、見事に誰一人乗り込んでくる気配もなく、バスは俺たち三人と運転手を乗せたまま、またも颯爽と走り出す。
発車の際には必ず、「バス、発車します。お立ちのお客様はお気をつけください」とわざわざマイクを通して乗客にアナウンスするようだ。少し驚いた。もちろん、立ってまで乗車している客などいないことは分かりきっている、はずだ。
アンミは窓にもたれ掛かってすやすやと眠っていて、ミーシーは逆側の席に座っている。俺は俺でウエストポーチを隠すように前かがみの姿勢でいたわけだが、……どうなんだろう。運転手は俺たちの存在を認識しているのかは分からない。
俺たち側からはバックミラーに運転手の帽子が映っているのが分かるだけで、そして、運転手も特にミラーを覗き込むような素振りがなかった。下手をすると一人も乗っていなくても案内をするもんなんだろうか。
その人は、律儀に、社内規律を重んじてか注意を呼び掛ける立派な運転手だった。
「オホンっ、オホンッ、んー……」
電車などに乗る場合、大声で話すのはマナー違反だというような、俺はきっと、そういう意識で黙っていたし、特にやることもないから静かに……、静かに目を閉じて到着を待っていた。アンミもミーシーも話し掛けてくるようなこともなかった。
バスの、運転手というのは、当然ハンドルを握っているわけであるから、アナウンス用のマイクというのはハンズフリーで、常時ONなんだろうな……。どうしてか、運転手はしきりに咳払いをし始め、それがバスの中に、よく、響いていた。
「今日は、朝から、良いことしたなあー」
自らに感心するような、そんな独り言が聞こえてきて、俺は言い知れない焦りを感じて、頭をひょこひょこと座席から覗かせた。しかし、まあ……、運転手はバスに誰も乗っていないと思い込んでいる様子で、「あー、良いことした」と、そんな、上機嫌なご様子で、挙げ句「えっへっへー、ふーん♪」と、鼻唄……、的なものまで奏で始めた。
「えっへっへー♪ふーん♪んうぅ」
「…………」
「えっへっへー♪えっへっへー♪んふぅん♪」
手遅れか。俺は、もう身動きを止めて息を潜めるしかない。今更気づかれると、到着まで気まずい時間を過ごすことになってしまう。せめて次のバス停で乗客が乗り込んでさえくれれば、この珍妙なオリジナルソングを口ずさむのはやめてくれるだろう。できることなら次のバス停で大量に人が乗り込んでくれると良い。そうすれば他の人間に混ざって降りることだってできる。
「ふーんふーん、えっへっへー♪」
ただ、そんな期待と裏腹に、バスは俺たちの目的地まで着々と進んでいき、やはり誰一人、新たな乗客が現れることはなかった。寝たふりを、しよう。降りる際には、はっと目覚めたような、寝ていたから何も覚えていないような、そういう振る舞いをしよう。
「らっくちーん♪誰も乗ってこないー♪」
「…………。だが、難しいな。寝ていたにも拘らず、何故、降りる場所で的確にボタンを押すことができるんだ……」
寝返りを打ったことに、しようか。偶然、奇跡的に、寝てたけど、たまたま降りる場所で寝返りを打ってボタンを押せたことにするか。
「とても賑やかになったわね。あと次、到着だからそろそろアンミ起こしてやりなさい」
「…………。いたたまれない。何が賑やか、だ。乗ります、お願いしますくらい声を掛けるべきだった。降りるに降りられないだろう。誰か乗ってくるのを待つしかない」
「意味が分からないわ」
「こっちが言いたい。歌詞がえっへっへーしかないオリジナルソングだぞ。俺が運転手だったとしたら相当気まずい」
前方に気を配りながら小声で会話を繰り返すが、次の瞬間、ミーシーは全くさりげなく、止まりますボタンを突ついた。注意する間もなく。
『ピンポーン、次、止まります』
「えっへ、ふ、ん、んぅ、ンホン、ゴホゴホ」
運転手は、しきりに、咳払いを始めて、まるで、今までのマイクを通してのあれは、咳払いだったり、そういうやむを得ない生理的な雑音に過ぎなかったのだと言わんばかりに……、言わんばかりに、繰り返すもんだから、俺はひどく、切なくなった。
目的地でバスが停車するまで、その咳払いが続いた。
「ンッンッンゥゥ、ンホ、んぇ、ふー、と、到着でーす、んぅんぅ……、ンホン、お忘れ物のないよぉ、ご注意くださぁぃ……、んふん、んぅ」
アンミを急いで揺すり起こして、音もなく立ち上がり、足早に料金箱まで進む。運転手はバックミラーで一度だけちらりと俺たちの姿を確認したが、その後はひどく動揺した様子で小さく震え、顔を伏せてしまった。
表示された乗車賃を掛け算して三人分のお金をお釣りのないように投入する。
「あ、あの、……ありがとうございました」
「ありがとうございました」
「どうも」
「は、……はい。ぁ、がしぁ……、ンッンッ、はあ」
消え入るような声を背にして、バスから降りた。
「……バス移動は、こういうことがよくあるのか?」
「たまにはそういうこともあるでしょう」
「そうなのか……。電車とかでは一回もそんなことはなかった。バス会社は対策を取るべきだ。あのおっさん個人のミスかも知れないが……」
バス会社というよりは、町営のバスだろう。普段乗る人も少ないから気を抜いていたのかも知れない。ルールさえ守っていれば大丈夫だと油断していたのかも知れない。とはいえ、これはこれで事故だろう。運転手と乗客双方に精神的なダメージを残してしまっている。
「昨日、なかなか寝れなかった。ミーシーと一緒に寝れば良かった」
「私がいても同じだったでしょう。抱き枕にされてたら私まで寝れないわ。早起きするのは分かってたんだから早めに寝れば良かったのよ」
「…………。ただ、タイミングは良かったな、アンミ。あの……、怯えるような目を見たか。俺はいざという時に上手いこと演技できないんだな。寝返りを打って……、偶然ボタンを押せたふりをするつもりだったんだ……。多少、下手くそな演技だったとしてもそれでなんとかなった可能性はあった。運転手さんもまあそんなことは起こり得ないと思ったとしても、お互いその方が都合が良かったわけなんだから、そういうことにしといてくれたかも分からん。お前が急にボタン押すから俺も動揺して……」
「健介、どうかしたの?つらい?」
「……いや、何でもない」
「私も、バス乗るところまでしか予知してないのよ。延々とループするとは思わなかったわ。あんなに上機嫌だと思ってなかったわ。私がわざと人を辱めたと思っていたのでしょう。誤解だわ誤解は解けたわねよし」
「ああ、お前も悪気はなかったという、そういうことか。確かに途中までなら気持ちよくこの場に辿り着けそうな気はしてた。わざとかと思ってたが、そうじゃないんだよな。すまんな、疑っていた。あれは事故だ。俺は追い詰められると人を信じる気持ちまで失ってしまう」
同時にバス不安症になったかも知れない。次は大丈夫だと必死に言い聞かせている自分がいる。次は町営のバスじゃないから大丈夫だ、きっと大丈夫。二分か三分歩いたところで次のバス停へ辿り着いた。
そこからしばらく時刻表案内と時計とを落ち着きなく交互に眺めていると幾分か大きな、というより、まあこれが普通サイズのバスなんだろう。俺たちの目の前でバスが停車し、また俺たち三人でバスへと乗り込む。
「ぉねがいします」というのが多少おどおどした声色になってしまったせいか、それが伝染してなのか、……あるいは元々の気質なのかも知れないが運転手も何故か俺たちが乗り込んだ時からきょどきょどし始め、案内の声にも落ち着きがない。こういってはなんだが、運転も上手くはなかった。
ガツンと踏み込んだように停車するし、発車するたびにガタガタと車が大きく揺れていた。俺が過去バスに乗った時にはそんなこと気にならなかったから、これは運転手の力量か、または車の整備状態の問題なんだろうとは思う。まあ、駅まで三つか四つかしか停まらなかったし、ちゃんと挨拶して乗り込んだお蔭で残念ソングを為す術なく聞くハメにはならなかった。
が、降りる時にはこちらが「ありがとうございました」と言ってもまるで一言もなく無愛想に首を背けたままの運転手だった。顔はよく見えなかったが、ベテランではなかった、んだろう。もしかすると体調が悪かったのかも知れない。まあ、そういうこともある。
続けて駅の中を歩き、「これよ」と指さされたバスに乗り込んだ。発車時刻までまだ時間があるのかどうやら一番乗りみたいで、ついでにいうと運転手の姿すらなかった。
何かこう、一度ネガティブな思考に陥ると良い面が見えなくなるものなのか、バスの車中の雰囲気はとても異様に感じられて、不穏な、空気に包まれているように、錯覚している。
俺たちの次に乗り込んできた乗客は俺の姿に気づくと表情を歪ませてきょろきょろと辺りの様子を窺い一番前の席に腰掛ける。その次に乗り込んできた乗客もまた同じようにして俺たち三人が最後部の席を陣取っていることに気づくと何か驚いた様子で揺れてもないバスの中でよろめき、また前の方の席へ歩いていく。
そんなことがそれから三度ほど続いた。アンミはバスの座席の加減が気に入っているのかまたくーすかと眠る体勢でいる。となると、ミーシーが乗客が乗り込むタイミングで相手を睨みつけているのかとも思った。
一応確認してみるが、目をぱっちり開けたまま微動だにしないというちょっと風変わりな様子ではあるが、特に乗り込んでくる乗客に目線を向けていたりもしないようだ。
となると、もしかして、隠していたつもりのゲチョピョンが知らず知らずの間に顔を出してしまっていたのかも知れない。そう思って念入りに腕で腹を覆ってみる。が、それでも車内の空気というのは変わらず濁ったままだった。
当然ここは優先座席だったりしない。最後部に座るのがマナー違反だなんてのも聞いたことがない。誰も、何も話さない。俺もまたそんな雰囲気の中で口を開くことはない。こういう、もんだったろうか。
結局バスが発車するまでも、発車してからも、誰もが酸素の節約でもしているかのように一言も喋らないままだった。それがもしかすると、地方バスの暗黙のルールだったりするのか。だとすれば、あんまり進んではバスに乗りたくない。まだ、ペチャクチャと自由にお喋りをしててくれた方が、なんというか自然ではあるだろう。
結局、およそ一時間のバス移動の中で走行音以外ほとんど聞こえなかったし、俺も二人へと話し掛けようと思わなかった。
さて、ようやく到着か。バスに乗るだけで気疲れするとは思ってなかった。俺が立ち上がるとミーシーがアンミを揺すって起こし、後に続く。
料金を支払ってバスを降りてようやく、外の新鮮な空気を吸うことができる。財布の中から遊園地のチケットを取り出し、裏面に印刷された地図を眺めて現在地を確認しておいた。
西へ向かって歩いていけば入場門まで辿り着くことができそうだ。歩き始めると駐車場この先と大きな看板が目に入る。じゃあ迷子にはならないな。




