一話④
俺がドアを開けるよりも前に、アンミの声が小さく届いた。俺はドアを開けて、「ああ、ありがとう」と呟いた。俺が先に階段を下りるのを待っているのか、アンミはそのままの場所で動かない。結構な近さだ。
じゃあ先に抜けようかと思ったところで、俺の部屋の中から、ゴンと音がした。何かが床に落ちたのかなと思って振り返ると、……一匹の、トラ柄の猫がベッドの足辺りを抜けて部屋の隅へ走るのが見えた。
「んっ?」
「ニャー!」
あの時の猫か。ドアも閉めてたからおそらくずっと俺の部屋にいたんだとは思うが、……今まで全然気配がなかった。寝てて、今起きたのかも知れん。ベッドを勢い良く抜けた後落ち着きなくうろうろして、一声上げた後またすっとベッドの下へ戻っていく。そしてまあ、ぱっちり両目でこちらを凝視している。
隠れているつもり、だとして、一体何故一度出てきたのか。猫の思考は分からんが、あんまり人には慣れてないのかも知れんな。見慣れない場所に放り込まれて戸惑っているにしては、逆に今の今までよく大人しくしてたもんだとは思う。
「元気そう、ではあるな。俺も一応お前の命の恩人だろうに。そう警戒するな」
アンミは特に猫の存在に反応したりはしなかった。多分ここにいることは知ってたんだろう。ちょっと撫でてやったら落ち着いたりしないかと思ってベッドの手前でしゃがみ込んで手を伸ばしてみた。噛まれたり引っ掻かれたら消毒すれば良いかというくらいの感覚だった。
猫はこちらを、まっすぐ見つめて、近寄る俺の挙動を観察していた。が、後ろにアンミがいるからか、どうやらそちらも気になるようで俺が手を伸ばしてしばらくすると少し横へ移動した。そしてまた戻ってくる。
続けて俺の差し出した手を無視する形で俺の膝に爪を掛けて、更に肩口に爪を引っ掛けて登る。アンミのことの方が気になるみたいだな。俺は単なる障害物認定されてしまったのか、ちょっと触ってみたくらいでは顔も向けてくれない。足を握ってみたが、邪魔するなと言わんばかりにふるふると振って、逆の足で蹴飛ばすだけだった。
こうしてみると極端に人を怖がってるわけでもなさそうだが……、じゃあ、さっきは寝ぼけて走り出したんだろうか。
「懐きそうだな。……飼おうかな」
「健介、そのまま連れてこれる?その子も、ご飯食べてないから……」
「そうか。ああ、じゃあ連れてくことにする。抵抗しなさそうだったらだが。なんなら後でそこら辺に置いといてやっても良いしな」
「うん、じゃあそうして」
アンミが部屋の前から離れると、猫はそれについていこうとしてなのか、俺の肩を乗り越えようとした。なんとか抱っこに切り換えられないかと体を丸めて捻ってみたが、気を利かせて手元に戻ってくるということはなかった。結局俺の背中を伝って床へ降り、ドアの前までそろそろと歩いていく。
晩飯の匂いに釣られてそのまま部屋を出ていくなら、俺も脅かさないようにだけ気をつけて後に続く予定だった。だが俺の予想に反して、猫はドアから一度顔を出しただけでまたこちらへと戻ってきてしまう。そして案の上というのか、俺に擦り寄ってくるわけでもなく、横を抜けてまたベッドの下へと入り込んだ。
「あのなあ……。美味しそうな匂いがするだろう。俺でも分かるぞ」
まあ、別に今無理やり連れていく必要もない。後で持ってきてやることにしよう。でだ、いざそうして俺が諦めて歩き出すと猫はダッと掛け出して足元を横切り、ドアの外に出る。
…………。
おちょくられてるとも、考えられるが……、猫なりの意図があってなんだろうか。ドアの外には出たものの、わざわざ俺を待っているかのように、そこに座り込んでいる。一緒に行こうと言ってるのかも分からん。
「じゃあ……。お行儀良くできるか?テーブルマナーを求めるのも酷な話だとは思うが……」
「ニャー!」
「おお……。まあ頑張れ」
ドアを閉めて階段を下りる途中も、俺の股を抜けようとしたり、ズボンの裾に爪を引っ掛けたりと進行を妨害してきた。踏みつけないようには気をつけてるが、爪を引っ掛けた時などは猫は引きずられるまま一段転げ落ちたし、俺も足を空中で急旋回させたせいでバランスを失い掛けた。
じゃれつくのは結構だが、場所を考えない猫だ。悪気があってやってるわけじゃないと信じたいが、元より危なっかしい猫ではあった。交通事故の引き金を引いた張本人でもある。ちょっと挙動に気をつけて慎重に扱わないと皿を割ったりくらいは平気でするかも知れん。
「こら、危ないだろう……」
と言って手を差し出すが、やはりそれに乗り掛かろうとはしなかった。俺が足を止めるとそれに合わせて足元でうろうろ、俺が足を浮かすとそれが獲物に見えるのか爪を出して前足を振る。そのせいで随分ゆっくりと階段を下りることになった。
「あっ、すごいな。豪勢というか、アンミが作った……、んだよな?レストランの料理みたいだ」
思っていた以上に、……というより、純粋に驚いた。
俺は女の子の手料理が食べられることを嬉しく思っていたし、異臭もしないから失敗はなかったろうなというくらいに思っていた。そんな程度の低い想像が失礼にあたるほどに、机にはいくつも大皿が並べられていて、単に美味しそうなだけじゃなく、随分と凝った料理のように見えた。一瞬だけ流し見た時点では冷凍食品か惣菜店の商品じゃないかとも疑うくらいには。
「レストランの料理?」
「美味しそうってことでしょう。レストランの料理じゃ誉めてるかどうか分からないわ」
「ああ、美味しそうだってことなんだけどな。そうか?ちゃんとした店で提供される料理みたいだということだぞ?」
「健介がね、治ったお祝い。いつもより一杯作った。健介が起きてから作ろうってね、話してたからちょっと遅くなったけど」
「猫のはそっちに置いといたわ。猫そっちにやってさっさと座りなさい」
猫の分はもう一つの低い机の方に置いてあった。当の猫はというと、俺のアキレス腱をかじるのに必死になっている。甘噛みかな、……どうだこれは。そっと手を差し込んで持ち上げる時に一度ぴくりとだけ反応したが、抱えている間は暴れたりしなかった。
ただし落ち着きはないままで、料理を目の前にしても首を一点に固定することはしない。料理が、気にはなっているようだし、降ろした場所からすぐに移動はしないようだが、俺たちに見られてる中でもちゃんと食べるだろうか。一応猫の食べられないものは含まれてなさそうだし、普通の猫なら大喜びで食べるもんだと思うんだが。
「折角だからみんなで席ついていただきますしましょう。ほら、さっさと座りなさい」
「ああ、悪いな。お腹ぺこぺこだったろう。じゃあ…………。いただきます」
「「いただきます」」
アンミとミーシーは、普通にパクパクと食事を始めた。俺の家の箸を使ってるのかな。多分そうだろう。さすがにマイ箸を持ち歩く人間なんてそう多くはない。普段箸立て以外で箸を見た覚えなどないが、まあどっかにはあったんだろう。俺などがむしろ普段割り箸を使うことが多いから、何か少し不思議な気分ではある。
猫の方も眺めてみるが、なんだろう。変な食い方をしていた。こっちをじぃっと、じぃっと凝視しながら、顔を横向けたまま肉をかじっている。仮に人間のことが気になるのなら、奥側へ回って上目づかいでこちらを見れば良いだろうに……。あるいは、あんまりやって欲しくはないが、肉をくわえてどっかに持ってくという選択肢もある。
「……美味いな。びっくりするほど美味しい。これ本当に一から作ったのか?そんな大した調味料とかなかっただろう」
「あなたのために、丹精込めてアンミが作ったのよ」
「俺のためにわざわざというのはちょっと遠慮したいところだが、……丹精込めたからといってこう美味くならないだろう。料理上手だな、若いのに」
「ううん。健介のためにね、健介が元気になって良かったねって、今日は多めに作った」
「そう……、か。ああ、ありがとう」
腹が減ってたというのもあるんだろうか。ともあれ、お世辞抜きに料理の一つ一つが美味かった。
「命を助けて貰った上にこんな美味い料理まで用意されてしまうと、もう恩も返しきれんな」
「いいのよ、助け合いの精神が大切でしょう?それにちゃんと考えておくと言ったでしょう?」
「言ってたな。なんか思いついたか?言っとくが大して金持ちじゃないから、できればお金以外で注文してくれると良い」
「ええ。じゃあここでしばらく暮らすことにするわ」
「…………」
危うく『ああ』と返すところだった。とても短く、更に何気ないふうに、ミーシーはこちらに目線を向けることもせず食事を続けたまま、『ここで暮らす』と、……言ったのか?
「ここでというのは……、どこでだ?」
「あなたも恩返ししたいわけでしょう?あなたの命は置いとくとして、美味しい料理に感謝もあるわけでしょう?ならお互い都合は良いわ。アンミはここに住みたいんでしょう?」
「…………」
そっとアンミの方へ首を向けてみた。『ここ』というのが、俺の家を指している、可能性がある。だが……、それは、どうだ。まして『しばらく』と言ったか。
「うん。健介が良いなら私、ここにいたい」
「……いや、さらりと言うがそれは、どういう理由でだ?俺の家に住むとか、そういうことならさすがに、……俺が了承して決められるようなことじゃないだろう」
「あなたが了承しなくて誰が了承するのよ。あなたの家でしょう。あなたが恩義を感じてるんでしょう」
「……いや、そこはな。その通りだけどな。俺が了承するかどうかじゃなく、他に問題があるわけだろう」
「どんな?一応聞くわ」
「どんな……。急に聞かれると困るが、どんなも何も、……お前の両親にちゃんと確認しないとならないだろう。そしてまあ普通に考えて、自分の子がいきなり他人の家に住むなどというのは納得するわけがない」
「じゃあそれは納得したことにしましょう。他もあれば聞きましょう」
「納得しないだろうという主張だぞ?まさか、家出してるとかいうわけじゃないよな?」
「物理的なこと言ったら家は出てるでしょう。でも別にこっそり出てきたわけじゃなくて堂々と出てきたのよ」
「両親に連絡はしてあるのか?」
「ねえまずは、あなたがそれで良いのかどうかだけで話をしましょう。私のお父さんがダメだと言うかは今はあんまり関係ないでしょう?」
「お前のお父さんがダメだって言ったらダメということになる」
「地球にでかい隕石振ってきてもダメになるでしょう?そういうところはあなたが心配するところじゃないのよ」
「俺の心情的なことをいうならそりゃ……」
「泊めてあげたいわけでしょう?」
「泊めてあげたいという、わけじゃ……、なくて、……何かしら別の方法で恩返しできないものか?いや仮にだ、今日だけというのなら俺もそこまで反対しない。しばらくというのは、一体いつまでだ?」
「…………。そうね。あなたが出てけと言うまでよ」
妥協すべき場面を、間違えたのかも知れん。俺が、『出てけ』と、言う時はいつなんだろう。その時でさえ今のように押し切られてしまうんじゃないだろうか。
「その条件は適当じゃない。お前の親が帰ってこいと言うまでだ。それならまだ分かる」
そしてだ、一瞬だけ頭をよぎった後ろめたさが、更なる妥協を生んだ。俺の提案は、そうだな。理に適っている。目立った落ち度などはない。踏みとどまって最適解を出したはずだ。見知らぬ人の家にお世話になってますが通用するはずがないんだから、俺は単に、親に連絡を取ったかと問い続ければ良い。
で、もしも二人の親がダメだと言えば、俺は『なら仕方ないな』と帰宅を促すことができる。
「じゃあそういうことにしましょう。良かったわね、アンミ」
「うん、良かった。ありがとう健介」
「……俺の言いたいことというのはちゃんと伝わってるか?」
「スイラお父さんが帰ってきてって言うまではいても大丈夫」
「それはそうなんだけどな。でもまず連絡を取らないと」
「うん、でも、ここにいるのは知ってると思う」
「まあ帰ってこいと言われたら帰ることにはするわ」
内心かなり焦っている。どういうことなんだろう。どういう事情で、何がどうなって俺の家に泊まることになるんだろうか。泊まりたいのか?今日はまだ分かる。ちょっと帰りが遅くなったから一泊するというだけのことだ。だが口ぶりから考えるに、明日帰るというふうでもない、のか。
俺はどうしたいんだろう。直接、出て行けとは、言いたくない。もしも家庭の事情で帰りづらいとかそういうことなら、何かしら助力してやることだってできなくはないだろう。そうするのが正しいが、この時点ではまだ何も明らかにされていない。本来ならば子細を確かめて方向性を話し合うべきなんだろうが、どうやら少なくとも今は、それができそうになかった。
アンミが嬉しそうにこちらに微笑んで、また「ありがとう」と言ったからだ。せめて事情や経緯の一部でも知っていれば、何をどうすべきだと言えたかも知れない。でも結局何も言えなかった。アンミはこれを、喜んでいるようで、俺はその理由にすら思い至らない。
「とりあえずはな……。もう夜だし、外は寒いだろう。今出て行けなんてことは言わない」
今出て行けとは言わない。だが、いつか言うことになるんだろうか。それが明日なのか、それとももっと先なのか、なんにせよ追加で話し合いが必要なのは間違いない。事情は知らないが二人は今宿無しで困っているということではあるんだろう。
色々な問題は一旦横へ置いておくことにはなるが、そもそも俺が取る態度というのは二つに一つしか用意されていない。善良な一市民として住む場所を与えてやるか、それとも不義理に、冷酷に、追い出すか。どちらかを選べと言われたら、もはや消去法で前者しかない。
「ああ……。飯が美味い」
まあ、割に合わないとは、いえないのかも知れん。実際のところ、別に俺が損をするような話でもない。冷静に、考え始めると、俺が今感じているもやもやの正体はより一層分からなくなった。
例えば俺は、友人を泊めるのを嫌がるだろうか。答えは多分、どうしてか、イエスだった。この子らの第一印象が不審者だったからではなく、若い女の子だからでもなく、両親の承諾があるかないかもあんまり関係なしに、俺は家では一人でいたい人間なんだろう。だから仮に俺以外の全ての問題というのが明瞭にクリアされていたとして、俺はどうしても、言葉に詰まったはずだ。
「今日は早めに休みなさい。疲れた顔してるわ」
「俺か?俺に言ってるのか?そうだな。起きた時からちょっと……、疲れはあるな。そうしようかな」
「あとまあ文句があるなら後で私が聞いてあげるわ」
「文句というわけじゃないが……。ちょっと聞き取り調査はしよう。それは後でな」
家出だとすると、一般的にどういう事情が想像できるもんだろう。魔法使いであるとかは関係あるんだろうか。とりあえずは関係ないものとして、一応話し合いに先立って考えてもみる。
単に反抗期で親とケンカして家を出たというだけであればそう珍しいケースじゃないんだろうが、ちょっと推理を難しくする要素がある。まず二人が、そもそも姉妹には見えない。別の家の子と示し合わせて家出したりするだろうか。全くの他人ということもないだろうが、少なくとも血縁関係にないことは見た目で分かる。二人で相談する際に片方がなだめたりしなかったんだろうか。同じ家庭で生活してたんだろうか。
その辺りを一旦は保留で埋めておくとしても、突発的な理由で家出をしてきたにしては、……感情的な不安定さが感じられない。時間を置いて頭が冷えたからだとするなら、こう無茶な提案をしたりもしないだろう。お父さんが二人の居場所を知っているという話も出た。それが本当かどうかは分からないが、言われた通りに組み上げるとケンカ説の可能性は低そうだ。
当然、虐待とかそういうのでもない。もしも見えるようなところにアザがあれば俺はそれについて疑問を持っただろうし、この流れの中でなんとなく事情を察することもできただろう。だがとりあえず顔には傷一つなさそうだし、足も……、目につくようなケガの痕跡はなかった。まあそれこそ魔法で綺麗に治療されているとすれば分からんわけだが……、つい少し前に俺がフライパンで殴り倒されたことから考えるに……、黙って虐待されてることもなさそうには思える。
ミーシーが、それにアンミも、極めて平常心で、家出を良しと決めているということは……、もっと長期的な問題なのかも知れん。例えば……、店長みたいに、事業に失敗して借金が残ってしまったというのなら、……借金取りに追われているとするのなら、親は娘を家から出す決断をするだろう。ヤクザとかが家に来るなら、どこか別の場所の方が安全だと判断する。それなら一応辻褄は合うか。父親は娘の居場所を知っていておかしくないし、二人の落ち着いた態度にも納得がいく。両親を含めて話し合いの上で、匿ってくれる人間を探していたなら、俺は二人にとって都合の良い人間だったろうし、そういう合理的な決定ならやはり淡々と告げるもんだろう。
もしそうなら、ちょっと、……同情的な気持ちもある。なかなか俺には触れづらい部分でもあるし、二人も俺へは打ち明けづらいかも知れん。あくまで俺の推測にしか過ぎないわけだが……、もしもそれに類する事情であるなら、当面面倒を見るのが正しい。命の恩人である、薄幸の美少女を、捨て置くのはさすがに……、人間性を失っていると罵られてもおかしくない。
「箸止まってるわよ。ご飯食べる時はご飯食べることにだけ脳みそ使いなさい。美味しいんでしょう?」
「ああ」
確かに飯を食い終わってから聞けば良いことではある。そうした方が良いなと、自分でも思った。折角用意されたものだから、美味しそうに、味わって食べるのが良い。普段の俺なら純粋にそうできたろうに。まあ多少考え事をしていようが美味いものは美味い。表情に出るかどうかという程度の差だろう。途端に食欲がなくなるなんてこともなく、パクパクモグモグと食事を再開した。
しかしながら、ミーシーはともかくとして、アンミはさっさと食事を済ませた後、椅子に座ったまま、こちらを静かに眺めている。それを無視するつもりもなかったから、何度も目を合わせることにはなった。特に何を言うでもないが、俺を興味深そうに見つめて、柔らかい笑みを浮かべている。俺が美味しそうに食べてるかどうかが気になったのかも知れんし、これから一緒に住むことになるからよろしくというような挨拶の代わりなのかも知れん。その意図は掴みかねる。
こういっちゃなんだが、アンミは別に俺が無言であろうと構わずそれを続けるようだったから、俺も特に何か追加で話題を考えようとはしなかった。ただし若干気まずいというのもないことはなくて、視線の逃げ場所をあちらこちらへと探すことにはなる。
猫は一生懸命に肉に噛みついてそれを慌てて飲み込んでいた。野良猫の身分からすれば大層贅沢な食事だろう。ようやく夢中になったのか、今見るところ、変にこちらを気にして食べていたりはしない。そしてそろそろ食べ終わりそうではある。続いて反対方向でミーシーが「ごちそうさま」と手を合わせた。で、皿を流し台へ運んでからくるりと体を回して居間の方へと歩いていく。どうやら居間のソファで待っててくれるようだ。じゃあ俺も早めに食い終えなきゃならんなと思って自分の食事に戻った。パクパク、モグモグ、食事を続けていると、ガタンと猫は机から飛び降りて、やはり俺の足元へと歩いてきた。
「ちょっとは懐き度は上がったか?それともおかわりの要求か?」
こういう癖のある猫なのかも知れんな。また俺の足首を噛もうとしている。ズボンの裾に爪を引っ掛けようとしている。人間におねだりする時はこういう動きをするもんだと誰かに教えられたんだろうか。
「おかわり……?用意する?」
「いや、大丈夫だ。食べ過ぎも良くないだろうしな」
ぐいーと、右足が引っ張られている。程よく足の力を抜いて浮かしてやって引っ張り合いを楽しめるようにしてやった。
「ニャー!」
かわいい動きではないが、少し和むな。ただ、その引っ張り合いはあんまり長くは続かなかった。アンミが椅子を引いて、机の下を覗き込んだ途端、猫は噛むのをやめて机の端辺りをうろうろし始める。
俺に近づいては離れ、近づいては離れというのを繰り返してまた「ニャー!」と一声だけを上げた。アンミはまた腰掛けるのかと思ったが、「ごちそうさま」と手を合わせて皿を流し台へ持っていき、水を流す。俺も食べ終わって「ごちそうさま」を呟いた。片付けまでしてくれるみたいだ。
皿を重ねてアンミに近寄り、「お願いして良いか」と確認はしてみた。「うん、置いといて」と返ってくる。
じゃあまた猫を引き連れてミーシーと話し合いをするかと、振り返った瞬間に、猫を軽く蹴飛ばしてしまった。それほど大した力が伝わったとは思わなかったが、猫にとっては攻撃と受け取るほどの衝撃だったのか、俺から何歩か後ずさりして、俺とアンミとの間で視線をくるくる動かしている。
「悪かったが……、お前が足元に粘着してくるからだぞ。もうちょっと離れて歩いてくれ」
まさか俺の言葉が通じるわけもないが、俺が何歩か近づく間、猫もそれを確認しながらちょうど良く距離を保った。俺から逃げるという感じではなく、まるで俺を先導しているかのようだった。臆病なんだろうか。動きが一々そわそわしている。
アンミがこちらへと歩いてきて、レンジの横のラップを手に取った時にはゴテンと転がるようにリアクションした上、そのまま一回転し俊敏に走り出してしまった。そして居間の方へ走り込み、そこでもミーシーの存在に気づいてなのかダッと進路を変え、客間を抜け玄関の方へ入り込み、それでもまだ気が済まないのか台所方面へ一周回って戻ってきそうな足音が聞こえていた。
が、さすがに無限に周回するほど阿呆でもなかったのかしばらく待っても台所へは姿を現さない。
「ん……?二階に隠れたのかな。野良はやはり警戒心が強いもんなのかな」
「私が驚かせたかも」
「まあ、その内落ち着くだろう」
一応居間へ入るタイミングで階段を覗き込んだが、猫の姿はもうない。とりあえず猫のことも置いといて、ミーシーからの聞き取り調査を優先することにした。
「なあミーシー……。問い質すつもりはないんだ。大体のアウトラインだけで良いから、事情というのを話してくれないか?」
「そうね。……とはいっても、あなたに話すような事情もないのよ。山を下りるついでに宿貸してくれる人探しただけよ。アウトラインというなら、あなたは私たちに恩があって、私とアンミはどこか住めるとこがあるとありがたいというだけでしょう」
「そこはそうだとして、実際のところもっと中身はあるだろう。二人だけで住む場所探してたということなんだから」
「正直そこはちょっと苦労したところもあるのよ。でもね、本当に大した理由なんてないわ。なんなら別に村に戻ったって良かったのよ。アンミがここを気に入るみたいだから、ちょっとお邪魔することになったわ」
「…………?理由なく家出はしないだろう」
「理由なく旅行に行ったりはするでしょう?」
「でも旅行じゃないだろう」
もしかすると一周巡って、本当に理由も何もなく観光気分でここを訪れた可能性もないことないなと思った。理由が全くないなど逆に嘘くさ過ぎるからだ。同情を誘うこともしない。ここで俺が『やはり出て行ってくれ』と言おうものなら、それを容易く了承してしまいそうな雰囲気だった。
「もし迷惑だと言うなら私は出てくわ。ただアンミは置いてあげなさい。どうしても無理なら私じゃなくてアンミに直接言いなさい」
「いや……。片方が出て行けば問題が半分になるということでもないしな……。セットで行動してくれ。迷惑かどうかじゃなく心配してるということだぞ。親には本当に、連絡してるんだよな?」
「ご心配なく。お父さんは知ってるわ。どうせその内ここにも来るでしょう。ケンカして家出したわけでもないわ。ケンカにもならないでしょう。心は広いのよ、私は。私はなんならむしろ、ダメな子に対しての方が優しいのよ」
「お前のお父さんは、お前らがここにいることをちゃんと知ってて、いずれちゃんと迎えに来るということだよな?」
「ええ、まあその内。ただそこはちゃんと正確なことを言っておくわ。ここへは来るでしょうけど、迎えかどうかはその時の気分とか状況によるでしょう。お父さんと話したいならその時話して決めたら良いわ」
食い下がるような場面じゃないのかも知れん。ミーシーが本当のことを言っているのかも分からないし、仮にちゃんと理由があるのだとしても、ミーシーがそれを明かすようには到底思えなかった。アンミの微笑みとは対照的に、ミーシーは別にここにいたいわけですらない。無感動に事務的に、質問に答えている。俺よりも先にまずミーシーが、このやり取りにまるで意味がないことを分かっている。
「まあ……。じゃあ今は、ごちゃごちゃ聞かないことにする。おいおいな、話す気になったら話してくれ」
仮に事情があるとして、本人がまだ整理できてないことなのかも知れない。俺にあってもそれを、受け止めきってやると確約できるわけじゃないだろう。ひとまずは息をついて、ゆったりくつろいでてくれたら良いかなと思った。
「あら素直ね。私からも質問しても良いかしら」
「ん?ああ、なんだ?」
「もし」
背を向けて立ち去ろうとした俺に追い打ちを掛けるように、ミーシーは先程までとはまるで違ってこちらをじっと見つめた。
理由があったとして、話しても仕方なかったろう。
聞いても仕方なかったろう。
だって俺はこうしてまっすぐ見つめられただけで、何一つ、この子のためにどうしてやれると言えなくなる。何をどうしてやれるなんて言うほどの覚悟なんて、まるでできていなかったことを知らされる。
「ここにいつまでもいたいと言ったら、そうさせてくれるの?」
つまらなさそうな声色だった。呆れ半分といった視線だった。ただ俺は完全に心臓を射抜かれて、瞳を見つめ返したまま何秒も黙り込むことになる。
ああ、だから、……意味などないのか。ひどく痛感させられた。当然口先で適当な約束をしてやることもできる。あるいは条件をつけたって良い。『いつまでもいて良いぞ』と、言ってやれたら、正直に事情を話してくれるんだろうか。
もしもそう決めているとするなら、なるほど確かに、俺には理由を聞く資格などもない。
「……いつまでも。そうか。即答できなくて悪かったな。ああ、いつまでもいて良いぞ」
「そう。ありがとう」
まあ多分、俺が苦し紛れにひねり出した言葉だということはミーシーにも分かっただろう。浅薄さを見透かされたような気分だった。ミーシーも形式的にはお礼を言ったが、本気で受け取ったりもしていなさそうだったし、それ以上俺を追い詰める気もなさそうだった。