三話⑫
「アンミはてきぱき仕事をする働き者だし料理のセンスも良いな」
「そう?……何かやった方が良いことあったら教えて?」
「いや、何一つ俺が教えることなんてないだろう。悔やまれるのはもうほんの少し……」
「少し?どうしたら良い?」
「ああ、すまん。いや違うんだ。もう少しな、俺がアンミと会うのが早かったら、バイト先の廃業をな、もしかして回避できたかも知れないなと、思っただけだ。アンミの仕事をどうして欲しいとかそういう話じゃなくて、アンミと会うのがな、少し早かったら良かったという、単にそれだけだ」
結局話題を変えてもアンミの手を止めさせることにはなってしまった。アンミはまた水を止めてこちらへと振り返って心配そうに俺の顔を見ている。
「健介は悩み事がある?」
「悩み事というわけじゃないんだけどな。俺が勤めてたバイト先が、なんというか、ひどい料理を出す店だったんだ。まあ、それが原因で潰れることになってしまった。もしもな、もっと前にアンミと出会ってたら料理をお願いできたかも知れないし、あるいは俺がアンミに教えて貰ってちょっとは店の役に立つこともできたかも知れない。今更そういうことを言い出しても仕方ないんだけどな。アンミに手伝って貰えば店は今も営業を続けられたかも知れない」
思い煩うというよりは、後悔に囚われているという方が正しいだろう。今になってそれをどうこうできるわけじゃないんだから、俺はただ単に、アンミは料理が上手だという意味合いのみ伝えられたら良かった。
口から出る時に余分な言葉が付け加えられて、アンミに心配を掛けることになってしまった。結果として話題転換には成功したのかも知れないが、場がもたない感じというのは倍増している。
「うん、残念だけど……。でもね、きっとね、他にも良いところが見つかると思う」
「ああ、ごめんな。別に暗くなるようなことじゃない。俺もいつか廃業を免れないことは分かってたはずだし、実際そうなった。他か……。確かにな。バイトの代わりというのならいくつもあるにはあるんだろう」
「うん、それにね。家にいても楽しいことはあると思う」
「そうだな」
アンミの言葉は、俺を想ってのアドバイスだったんだろう。失業者に対してはそれがまあ、とてもありがたい言葉には聞こえたはずだ。俺もその辺りのことはわきまえて反論しそうになる自分を抑えた。
ぼんやりと、考えてみる。お金を稼ぐ目的なら、いくらでも代わりは見つかるかも知れない、が、それはひどく遠く離れた自分なんだろうと思う。俺が立っていた場所とはかけ離れているだろう。とても簡単に整理すると、俺は、あの店が好きだった。振り返る度にそのことがよく分かる。
陽太と店長がいて、美味ではないにせよ、そこで食う飯が好きだった。後悔を引きずって駄々っ子のようにそんなことを伝えたところで、アンミは困惑して謝るだけだろう。短く肯定する他ない。
「じゃあ、悪いができたら教えて貰って良いか?ちょっと部屋に戻ることにする」
「うん」
ただ、こう、これが、落ち込む俺を見越して神様が用意してくれた出会いだったのかも知れないな。寒々と憂鬱な気分に浸る間もなく、二人と出会った。後悔を消し去るまでは至らないにせよ、一応、静かな一日を過ごしている。
自室へ戻って机に置いてある超人類の表紙をまたパタパタと捲ってみた。これはまあ……、どうしようか。さっと流し読むくらいのことはした方が良いだろうとは思うが、俺の頭はむしろ読まなくて良い理由を探す方向で頑張っている。
あくまでチケットのおまけとして贈られたものだということだし、表紙が面白いという理由で選出されている。であればだ、わざわざ中身は確認せずに本棚に飾っておくというのがせめて有効な使い道なのかも知れない。
よほど難解な文章でなければそう時間を掛けずに読了できそうな気はするんだが、今は読み掛けの本もあるし……。
「ミーコ、お前は本を読めたりするか?漢字とか読めるか?」
「どういうつもりで聞いてるのかニャ。読めないことはないニャけど、……読むの苦労はするニャ。私に試し読みさせるのはやめた方が良いニャ」
「試し読みというか、読んで要約してくれたら楽だなと思って……。これなんだけどな?」
「私が読んでも全然役に立たなさそうニャ……」
「…………。決めつけて掛かるようだが、誰が読んでも、あんまり役には立たないと思うんだ。だが、ミーシーがな、一応俺へのプレゼントだという形式で渡してきてるから、ミーシーに、読んだかと聞かれるかも分からん。アンミから、折角貰ったのに何で読んでないのと聞かれるかも分からん」
「じゃあ健介が読んだら良いニャ」
「ん……。表紙を見てもそう思うか?」
「まあミーシーは感想とか期待してたりしないとは思うニャ。健介がその期待されてないところに応えようと思うかどうかニャ」
「後になってこれを、……開くことはない気がする。かといって今読み掛けの本があって、それがな、推理小説なんだ。しかもちょっと難解というか、謎のストーリー構成になっていて、後になったらもう伏線とかが分からなくなるかも知れない」
「じゃあ、とりあえずその推理小説さっさと読んでアンミにもミーシーにも読み掛けの本があったからって言い訳したら良いニャ」
「そうかな。そうかも知れんな。じゃあ、読み掛けを消化したら読むことにしようか」
「…………。もしかすると、読み掛けの方もつまらないかも知れないのニャ。そっちに飽きたらこっち読んで、こっちに飽きたらそっち読めば良いニャ。構成が悪いのは作者のせいニャし」
「そう考えれば救いがあるようには思うが、どっちもつまらなかったらどうしようもないな。まあ、じゃあ読み掛けからにしようか」
超人類は一旦机の隅で裏返しにしておいて椅子に腰掛けた。読み掛けの本をさっさと読み終えて余力があれば暇つぶしのつもりで超人類にも手をつけることに決めた。
ただどうしてか、どうしても、読書に集中できるような気がしない。まず残りのページの厚みを指で挟んで確認して、続けて最後の本文ページを確認して現在のページを引き算してみる。
残り七十三ページでこの物語は完結するはずなんだから、さすがにそろそろ、いくらか俺なりの推理を持っていてもおかしくはない。この本自体、他と比べてそう分厚いわけでもない。普通なら、集中力が続けば一日で読み終えただろうし、そうでなくとも数日あれば読み終わっただろう。
文章は平易で丁寧な描写が続いている。にも拘らずだ、この著者はどうやら斬新なストーリー構成というのを目指してしまったようだった。それが読みづらさを加速させている。俺に苦手意識を植えつけている。流れとしては、殺人事件が発生した後に、凶器が見つかり船長が犯人扱いされ、船室に閉じ込められた。そして船長の幼少期の回想が続いた後に、……これだ。
もう船長は、アリバイが証明され終わっている。俺の読んだ殺人事件はナイフが凶器で、一人が殺されただけのはずだったのに、どうしてか……、いつの間にか四人も死んだことになっている。
多分だが、原稿用紙枚数の都合上端折られたというわけじゃ、ないんだろう。序盤では船の設備やら観光スポットやらが細々と紹介されていたし、主要な登場人物一人一人について説明がなされていた。
だからつまり、……これは三人称視点の物語と思わせておいて、実は閉じ込められていた船長の知りうる情報でのみ推理するという、そういう構成なんだろう、とは思うんだが、それにしてもあまりにヒントが少ない。他の事件の情報を全く得ていない船長がノーヒントで解ける問題なんだろうか。
船長に罪を被せるということは、船長に恨みを抱いている人物がいるのかも知れない。でも普通、船長に恨みを抱いている人物は船長を殺すんじゃないか。これが一体どうどんでん返しされるのか、期待を、してないわけじゃないが、考えながら読み進めてもやはり何かこう、思い当たる伏線がない。
ボートも斧もロープも一体何に使われたのか船長が知らないのはともかくとして、俺も知らない。何故そんなものの行方を探しているのかも分からない。凶器はナイフだったはずだ。あまりにその話題が出てこなくて少し不安になってくるし、少なくとも斧なんてものは今まで一度も登場しなかったはずだ。
ちょっと落ち着きを失って頭を掻いたり時計を見たりする。まだアンミは料理を続けているんだろう。俺はじゃあ、本に集中するしかない。またページを捲る。またページを捲る。一文字一文字に注目しているわけじゃないにせよ、俺はちゃんと文章の内容を理解している。登場人物の行動をなんとなくは把握している。なのにだ、推理の展開にはまるでついていけなかった。
港に到着して第一の殺人現場の強化ガラスを破ることができれば犯人はおのずと分かる。それには俺も同意する。おそらくそうなんだろうと思う。だが第一も何も、俺は殺人事件を一回しか知らない。
そして、話はこうまとまった。
『そうすると犯人は一人しかいません。あなたですよね』
「…………。えっ」
思わず声が出た。今まで特に目立った描写もなく、特徴もない人間が犯人として指さされてしまった。
「んっ……?」
犯人の名前を先に知らせてしまうようなミステリーを、俺は初めて読んだ。犯人目線の、犯人が探偵に追い詰められていくという流れならともかく、……事件の内容を解説する前に犯人の名前を挙げておくのか。どういう展開になるんだ、これは。後から、事件の説明を、するのか。犯人の名前を明らかにした後に?
「だから……、何故、こいつなんだ……」
本文ではなおも推理が続いていく。だが俺はその推理にピンとくるものがない。これはもしかして真犯人をおびき出すための演技とかそういうことなんだろうか。探偵役にまず推理させて、その後に事件の解説をすることで、探偵の推理との矛盾点を探して読者に真犯人を探させるという、そういう意図なのかも知れない。
「ん……、自白してしまった。どういうことだ?…………。残りページがもう、心許ないんだが。これだとこのまま終わってしまうぞ」
「私に話してるのかニャ?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどな……。すまん独り言だ。独り言ではあるんだが、一人じゃ解決できそうにない問題に直面している。どういうことなんだろう……。船長が……、お前、だって全然推理に貢献してないのに、船長目線で物語を展開する理由ってなんかあるのか?しかもトリックの解説がすごい雑だったぞ。なんかそれっぽいことを言われてなんとなく納得してしまったが、鍵を持ってるかしないと密室にはできない、だろう?」
「まあミステリーふうの文章を楽しむ本というのもあるかも知れないニャ」
「そんなジャンルあるか?何も事件が起こらない本はあるかも知れないが、これはあれだぞ。事件は起こってるんだ。解決がなんか雑だというか……。最初の内はすごく細かく船の構造なんかが書かれてて、鍵を持ってる船長が閉じ込められるまではしっかりと論理的な推論があった。一人一人のアリバイと、鍵の保管方法について、書かれてた。なんか、だが、もう鍵の存在が無視され始めて、犯人の名前が唐突に告げられたんだが……。そんなミステリーふうあるか?」
「ないとは言い切れないニャ。その本、もう読むのやめた方が良いニャ。もう最後の方なら普通はなるほどってなるのに、健介なってないニャ」
「ああ、……そうかも分からん。なんか、……そうだな。まだどんでん返しが、……残されてる可能性はないことないが、ちょっと、どうだこれは。残りページ数が危うい。俺はまだ全然納得してないのに、作中の登場人物は妙に納得してしまっている。船長に感情移入するしかないのか?全然知らない内に犯人に仕立て上げられた挙げ句閉じ込められて過ごしている内に他の事件が起こって……、それをしたり顔で解明する探偵役の話を、なんか事情はよく分からんなあと思いながらぼんやり聞くという、そんな微妙な役どころに感情移入する作品を……、俺は、見たことないんだが」
「そういう意味では斬新な本なのかも知れないニャ」
「斬新……、か。ヒント、あったかな。ないよな、だってそもそも事件が起こったことすら知らなかったしな。俺の理解力とかそういう問題じゃないと思うんだが……。呪いの本か?妙に不安な気持ちにだけさせられてる」
「超人類の方読むことにしたらどうかニャ?」
「そうしようか。というか、ちょっとこれは休憩だな。このまま話が終わってしまったら頭がおかしくなるかも分からん」
「じゃあ下行って、アンミとミーシーと話してくると良いニャ」
「アンミは料理で忙しいし、ミーシーはふて寝中だからな。お前が話し相手になってくれると良いな」
「まあ良いニャけど。ミーシーどうして機嫌悪いのかニャ」
ちょっと中途半端な場面ではあるが、ページにクリップを留めて本を閉じ、ベッドの方へと移動する。どうしてミーシーの機嫌が悪いのか考えてみたが、数歩移動する間に答えを閃いたりはしなかった。




