三話⑨
「私もね、絵本貰ったことがある。すごくね、嬉しい。嬉しかった」
「ミーシーからか?」
一応、ジャンルがあることは認識してるのか。まあ深く考えるのはよそう。いずれ、ちゃんと説明しやすい場面が訪れるだろう。
「えっと、ううん。絵本は違う人から貰った」
「ああ、そうなのか。まあ、どうだ?今日も一応、実利重視とはいえ、お前もミーシーから本貰ったことにはなるわけだろう。嬉しいか?」
「あっ……。そっか。うん。……うん、ええと、嬉しいと思う」
「そうか。良かったな。ちょっと俺はミーコ拭きしてくる。話し合いがあるらしいからちょっとしたら戻るが、その本読んで時間潰してたらどうだ?まあ、ミーシーも、お前が喜んでくれるなら、買った甲斐もあるだろう」
「うん。じゃあ、そうしてる」
あくまで、俺の感想ではあるが、アンミも別に料理の本をあんまり喜んでたりしなさそうだ。
『嬉しい、と思う』という言葉はアンミ本人はなんとなしに使っただけなんだろうが、割と汎用性の高いぼかし方のように思える。一歩引いて俯瞰してみて、自分は喜ぶべき場面なんだろうなあという時なんかに使えそうだ。本心から喜んでなくても、それなら一応、嘘ついてるわけじゃない。
俺へあてがわれた本を持って自室へ戻り、タオルに体を擦りつけているミーコの前に立った。本はとりあえず机の上にでも置いておくことにしよう。
「普通の猫でも、雨の日に出歩いたらびしょ濡れになることくらい分かってるぞ」
「そんな冷たいこと言わないで欲しいニャ」
こちらへと向き直って頭だけぶるぶると振るったが、そんなちょっとの動作で水気が消えたりもしないんだろう。毛はぼさぼさのままだし、拾ってみて分かるが、タオルは少し湿っているのが分かるくらいにしかなっていない。
「寒くなかったか?というか、今現状で寒くないか?」
「まあちょっと寒いけど、我慢できないことないくらいニャ」
「一応拭くけど、完全には乾かんだろう。こたつでもあれば良かったな。ドライヤーは苦手か?」
「ドライヤーは苦手な猫ニャ」
タオルで背中やら頭やらを擦ってみるが、どうやら猫の毛の方がタオルより吸水能力が高い。手で毛を払ってやった方が渇きが早そうな気がする。
「猫がドライヤーにビビるのは分かるんだが……。理屈も安全性も分かっててなお苦手なのか?」
「耳塞げないニャし。大体拭いて貰ったら自然に乾くからそっちで良いニャ」
「猫の好き嫌いは変わらんのか?」
「いや、我慢しようと思えばうるさいだけニャけど、耳元でガーガー鳴られてまで乾きたくないニャ。人間はドライヤー程度の音は我慢できるニャ。でも、それよりもっと大きな音で体中包まれて、いつの間にか全身乾いてるという機械発明されても、多分誰も使わないニャ。そうまでしなくても大体乾くから良いですって私みたいに言うニャ」
「まあ、なんとなくは分かった。とはいえ、雨の日のお出掛けは非推奨だ。猫用の風邪薬なんかは常備してない」
「今後はちょっと気をつけますニャ。それとあと、……部屋のドアちょっと開けといてくれると助かるニャ。少し隙間開けた状態にしといてくれるとどっちも自由に行ったり来たりできるニャ。健介の部屋を拠点にして出たい時自由に出れるようにして欲しいニャ」
部屋を開けっ放し、というのは冷暖房効率の観点ではあんまり気分が乗らない。が、それを差し置いてもペットの監視を優先すべきか。
どこにいるか分からんとやたらと心配するよりは、ここに帰ってなければミーシーに尋ねるという体勢の方が気は楽だ。部屋にいる時にミーコと協議して冷暖房を活用することにしよう。
「習慣になるかは分からんが、努力はしよう。布団入ってて良いぞ。おそらく毛だらけにはなるが、コロコロというな、お前のために発明されたような代物がこの部屋にある」
「寒かったらそうするニャ。健介ベッドに飛び込む前にちゃんと私がいるか確認してくれるかニャ?」
「そうだな。気をつけよう」
再び居間へと戻ろうとした時に、やはりドアを閉めるのが当たり前の習慣になっていることを自覚した。ちょっと隙間を空け直して、どの程度の幅が必要なのかを検討してみる。まあ、狭けりゃ勝手に押し開けるだろうと、十センチやそこらを目安にして調整しておいた。
階下に下りてまだ風呂場の電気が点いていることを確認し、続けて居間の様子を眺める。
アンミは受け取った雑誌を一枚捲って、それを静かに眺めていた。俺が随分と近寄ってようやく俺のことに気づいたみたいで顔を上げた。だが、眠たそうに何度か瞬きをしてから、何も言わずに首をゆっくりと下に向ける。
眠そうにしていてなお、満足そうというか、少し微笑みを浮かべた顔をしていて、このまま眠ればおそらく良い夢を見るんだろうなと、他人事ながら感想を抱いた。
「眠いのか?」
「うん、寝そう」
「まあ、寝てて良い。ミーシーはもしかするとお前のために毛布持ってきたのかもな」
「うん」
極力、小声を心掛けて話した後、膝に置かれた雑誌を取り、代わりに横にある毛布を手渡してやる。自室で寝たらどうだとすら言い出しづらい微笑み加減だった。
まあ首のなんて細いことか。肩に頬を載せるようにして薄く目を開けたり閉じたりを繰り返し、毛布をゆらゆら力もなく引っ張って、それでも変わらず、口元に微笑みを浮かべていた。
完全に眠っているのかは分からないが、このまま静かにしていればいずれ深い眠りが訪れることだろう。こうなっては話し合いとやらも延期かも分からんなと思ってテレビを消し、しばらくアンミを眺めていた。
人間誰でも眠るわけだが、こんなふうにソファで、俺のいる前で、なんて無防備に寝るんだろう。呆れ半分で、もう半分は安堵だった。今までアンミが強く警戒心を表すようなことは一度としてなかった。
こうして寝顔まで見せる様子を観察すると、俺がどうこうというより、アンミの懐の深さというのを知ることができる。俺の努力の賜物ではないにせよ、一定以上、俺に心を許してくれているということにはなりそうだ。
この家を住みよいと感じてくれてはいそうだ。単にアンミがどこでも寝れる性質だったということだとしても、こういう振る舞いに俺も安心感を抱く。少なくとも不満や不信を抱いているというふうには見えない。
かわいい女の子の寝顔というのは見ていてそれだけで心地よいもので、なんならずっと睡眠を邪魔しそうなものを排除する役割を担いたくなってくる。
と、そこにだ、風呂上がりのミーシーが物音をわざわざ立てるわけでないにしろ、特に遠慮した様子もなくこちらへと歩いてくるのが分かった。
「もうちょっと長湯しても良かったけど、それ待ってたらいつまでも出れないから諦めることにしたわ」
確かに。俺がこの作業を継続してたら、何時間かは経過していたに違いない。
「上に行くか?アンミ抜きで話し合いができるということならではあるんだが」
「いいえ。ここで良いわよ。寝たふりみたいなこすいことアンミはできないわ」
そのまま全然、遠慮も感じさせない様子でアンミの隣へと座り、俺がわざわざ消したテレビを再度点けた。起きない確信があってそうしてるんだろうか。
アンミの安らかな眠りを守ってやりたい俺にとってはかなり危険な行動に思われる。アンミは瞼を薄く開けることさえせず、首を横に折って呼吸だけ続けていた。ミーシーの着地にも反応せず、テレビの音にも反応することがない。眠ってる他人の観察などしたことがない俺にとってはちょっと不思議に思える体験ではあった。
普通であれば、起きるもんだと思うんだが。眠そうにもぞもぞするくらいはありそうなもんだと思うんだが。
「寝る子は育つというでしょう?ここに来てからよく寝るわ」
「…………。疲れて寝てるわけじゃなければ良いけどな」
「そういうわけじゃないでしょう」
こうして並んでいるのを見ていると、そのアンバランスさも際立つ。良い意味でも悪い意味でものんびりうっかり警戒心の薄いアンミと、猜疑的でシステマチックなしっかり者のミーシーと、どちらが良いとは評するのも難しいが、そのコントラストというのがよく現れた構図だとはいえる。
中央に寄せたら特徴のない一般市民になってしまうのかも知れないが、双方学びあうということがなかったんだろうか。
とりあえずアンミはぐーすか寝こけていて、ミーシーはそれに遠慮する様子もなくテレビをまっすぐ眺めている。
ただし、ミーシーがテレビの映像や音声にまるで注目していないことだけは分かる。……というのも、ちらちらと横目で眺めても面白い番組という感想を抱くような放送ではなかったし、ミーシー本人も風呂上がりの首の体操なのか首を右へ左へ動かしている。へえとか、ふぅんとかそういった感想めいた言葉も出てこない。
「テレビ、消したらどうだ。アンミは寝てるだろう。お前もつまらなそうにしてる」
俺が小声で問い掛けるとミーシーはソファから立ち上がり、アンミの横にあったリモコンを手に取った。
「…………」
「…………。おい、俺にリモコンを向けるな。どういうことだ。俺の方がつまらないから俺を消そうとしてるのか?」
「ちょっとあなたの音量を下げようとしただけでしょう」
「いや、元から小声で話してるだろう。俺は赤外線を受信したりしないぞ。口で言え、文句があるなら」
「アンミが寝てるから小声で話しましょう」
ちらりとテレビを見るが全然その操作を受け付けていないようであるから、俺へだけの注意だった。ミーシーも少しばかりは声を落としているんだろうか。ボソボソと話しているような聞き取りづらさはない。ただゆったりと、落ち着いた話し方ではあった。
「話し合いか?アンミは寝てるが」
「そうね。安心して寝てるわ。多分、ここでの生活が好きなのよ」
「…………。話し合いの議題はなんだ?アンミの前では言い出しづらいことだったりするのか?場所を移しても良いんだぞ」
「ここで良いわ、寝てるでしょう。それに別に聞かれてマズイようなことじゃないわ。少し、どっちが良いのか分からなくなったから、ちょっと予知を中断することにして、あなたに判断して貰おうと思ったのよ。そういう運試しというか責任転嫁したくなることもあったりするでしょう?」
音量に気を使っていてそういう響きなのか、それとも真剣な話し合いのために作られた声色なのかははっきりとしなかった。ちらりとアンミの方を見る表情からも何かを察することは難しい。
ミーシーはずっと無表情を保っていて、間を保つための微笑すらこちらへ向けたりはしない。この段階ではまだ議題すら明らかになっていないわけだから、俺もどう表情を返して良いのか分からなかった。
とりあえずミーシーは俺に対しての何らかの要望を抱いているらしい。予知できるはずのミーシーが『どっちが良いのか分からなくなった』とわざわざ言うわけだから、覗き行為に誘いを掛けた時のように、俺の心情を量りかねてのことなんだろうか。
あるいは、中長期的にみて、どちらが好ましいのか判断に悩むというようなことはあったりするだろう。前者ならともかく、後者の場合、俺が的確に未来予想図を組み立てることなどできはしないわけだから、それを感じ悪く、責任転嫁とはいえるのかも知れない。
まあ、ただ、俺も無責任なことに、ミーシー発信の相談事というのを少しばかりは嬉しく思ったりもする。何でもかんでも一人で決めなくてはならないような重圧を背負う歳でもないだろう。なんならたまには失敗して、それを人のせいにするくらいの心持ちでいてくれると良い。
「議題はなんだ?力になれると良いな」
「福引を、したでしょう?」
どうやら少しばかり真剣な話のようだった。より一層に声は低く落とされている。テレビの音にかき消されてしまいそうなほどに、唇の動きが見えなければ言葉の意味すら受け取れないほどに、声は小さい。
ただしもしもテレビまでもが音を出すのをやめてしまったら、声を出すことさえ躊躇うほどの静寂に呑まれていたに違いない。こちらへと向けられた面持ちは表情こそ薄いものの、何かギクシャクと落ち着かない雰囲気を感じさせた。
「……俺がやらせたな。結果を見越してのことじゃなかったが」
「私もまあ、深く考えずにやっちゃったと思うわ。接客態度が悪かったでしょう。というか、あれはまあいいとしても、予知すると色々接客態度が悪かったのよ、言い訳しておくと。腹が立ったからビビらせてやろうと思って衝動的にやってしまったのよ」
「まあ、うん……。予知の中でまで接客態度が悪かったのなら、おおよそお前の気持ちも察してやれる。ただまあ、今後はスルーできるならスルーしてくれた方が良いのかもな。まだそのことでイライラしてたりするか?」
「いいえ。あっちはあっちで仕方なかったんでしょう。でももうこっちもやっちゃったもんは仕方ないでしょう?あなたも荷物運んで今更米はよく考えたらいらなかったとか言われたら損した気分になるでしょう」
「そうだな。それはあるな……。その一件はもう気にしなくても良いだろう。射的が上手い人とかUFOキャッチーが上手い人が景品をかっさらっても何も能力を咎められることなんてないはずだ。それの延長線上だと思えばぎりセーフだろう、多分。気に病んでるのか?」
俺自身、ちょっと甘い裁断を下しているようには思うが、『衝動的にやっちゃった』は、普段なら理性的に考えてやらないということの裏返しではあるんだろう。自省しているところを責めたてては反発心を招くだけだ。将来のことを考えると叱るのが正しいのかも知れないが、あいにく俺には教育的指導の心得もないし、ミーシーからの深い信頼というのも期待できそうにない。
「気には……、別に病んでないけど、まあ言われてみればちょっとビビらせ過ぎたかも知れないわ。それはそれで、じゃあちょっと悪かったとは思うし、金に汚くも見えたでしょうけど、そこはいいのよ」
「いいのか。そうだな、ほどほどにな」
軽く、反省はしているようだった。俺と全く道徳感覚が共有されていなかったらどうしようかと思っていたが、異常な飛び出し方というのはしていなさそうだ。
ただ、これはどうやらあんまり本題と関係がないらしい。少し困ったように眉を下げて首を垂らしてミーシーはその後何秒も黙ったままだった。話をどう切り出すべきか悩んでいるということだろうか。
とはいえ、俺からはどう水を向けたら良いのか分からない。
「話し合いの本題というのは……、なんだったんだ?」
何秒か待った後、一応そんなふうに尋ねてみた。




