三話⑧
「問題ないなら下戻りましょう」
「まあ俺からは別に問題提起するところはないな」
ああ、寒いから毛布持っていくということか。何をし始めたのかと思った。下に戻って俺に何かやることがあるのかは知らないが、一応呼ばれたような気がするので、引きずられた毛布を踏まないように少し距離を空けて後ろへついていくことにした。
「私はテレビに夢中で気づかない予定だから見るなら見てきなさい」
ミーシーは毛布を被ったまま台所へ歩いていき、どうやら机の上にあった買い物袋一つを持って居間の方へと抜けてきた。片手に袋をぶら下げて、毛布に包まりながらソファへと座り込んだ。
「……ああ、お風呂をか?テレビを一緒に見ようという話じゃなくてか?」
「この際ちょっとはっきりさせておきましょう。アンミが標的なのか私が標的なのかで対応も違ってくるでしょう。うじうじぐずぐず決心がつかないのを見てるのも疲れるのよ。アンミが目的なら今さっと済ませときなさい」
「はっきり……、させておけばお前が俺の行動もマネジメントしてくれるということか?なら確かに、はっきりさせとくべきだな、俺は、覗きは、しないと、言ってる」
「……でも強がってるように見えるでしょう。勇気が出せないのをいつまでも見てるともどかしいでしょう」
「だからなあ、お前の中の俺の心証をまず修正してくれ。どうだ、お前の予知の中で俺が覗きを行うような瞬間があるか?ないだろう」
「それを見ててもどかしいと言ってるのよ。一回見て満足ならさっさと見てきたら良いのよ面倒くさい。アンミじゃなくて私だというなら一回は事故ということで予定に入れといてあげるわ。事故を装ったふうに話されたら回避できちゃうでしょう、私は。だから先にそういうことだと言っておいて貰わないと困るのよ」
「お前も、……まあ、何年かすれば魅力的な女の子にはなるんだろうが、だ、そのな、魅力に乏しいというわけじゃないことは分かっててくれて良い。その上で、俺が極めて理性的で誠実な男であることを認めてくれるとなお良いな。女の子が嫌がることはしないように努めている」
「誰も嫌がってると明言してたりしないでしょう、そんなエスパーじゃあるまいし。そう何度も何度もお風呂でゆっくりしてるところを邪魔しにきたらさすがにイラッとするけど、別に日々の記録をつけたいとかいうわけでもないんでしょう。純情ぶってないで決心しなさい。両方見たいとか贅沢なこと言っても別に怒ったりしないわ」
「お前は俺に覗きをさせたいのか?」
「あなたの活動の方向性を確認しておきたいと言ってるのよ」
「…………。俺は人生を通して自分の尊厳を守るために行動することだろう。変な気を使って俺の予定に覗きを組み込もうとするな。それは俺を貶めようとする悪意にすら思える。俺への心証を正してくれ。俺からのお願いはそれだけだ」
「まあ、じゃあ良いわ。悪意のあるなしも分かったりしないでしょう。私は善意で提案してるのよ」
「それならそうで、……話し合いをしよう。風呂の時間とか順番を決めるのとかでも良い」
「そういう誰も得しない提案は却下するわ。今日みたいになんとなく昼間にお風呂入りたい時もあるでしょう」
「なら、お風呂入る時は電気点けて、お風呂出たら電気消してくれたら良い。そしたら消えてる時は入って大丈夫だということになるだろう」
「あなたがそれで良いならそうしましょう。アンミにもそう言っとくわ」
「当たり障りのないようにな……」
テレビに熱中する様子などはない。ただし少しばかりぼんやりとした表情をしていて、ほとんどこちらへ首を向けたりはしなかった。
ここまでのやり取りはともかくとして、俺はソファの上に置かれたビニールの中身がちょっと気になっている。厚みや形状から考えると本か何かのように見える。そういう話に付き合ってくれたりするだろうか。少しばかり黙って袋を眺めてみるが、ああこれはねといったふうに説明してくれそうにはない。
一秒、二秒、三秒と、ただ黙ったまま時間が進んでいき、そのきっかけを手に入れる前に後ろの方でガチャリと音がした。ああ、なんならアンミが一緒にいる方が聞きやすいだろう。
「暇なんでしょう」
「俺に言ってるのか?」
「あなたしか暇そうにしてないとこで他に誰に言えば良いのよ」
「まあ、暇、だな」
「じゃあちょっと仕事をあげましょう」
そう言ってアンミとすれ違い風呂場の方へと歩いていってしまった。アンミも一瞬ミーシーに話し掛けようと口を開いたが、そのまま素通りしてしまったミーシーの後ろ姿を視線でだけ追うことになる。
どういうことなんだろうかと思っているとすぐまたミーシーはこちらへと戻ってきた。右手にタオル、左手にはぶらんぶらんと、首根っこを掴まれた猫が揺れている。
「ニャー……。ニャー……」
子猫なんかはああやって運ぶのが普通、という話はよく聞くわけだが、当の猫はどんな気持ちなもんなんだろうか。なんか悪いことしてひっ捕まってるようにしか見えない。
何はともあれ、どこで遊んできたのかミーコはびしょびしょだった。それを拭ってやれということなんだろう。俺の目の前にミーコを降ろしてやり、俺へタオルを手渡す。
「……後でお風呂入れてやろうか。ミーシー出たら」
「いや、拭いて、貰うだけで良いニャ。じゃあタオル、健介の部屋に持って先に戻ってるニャ」
俺がタオルを広げてミーコの頭へ被せると、ミーコはそれをくわえてとてとてと階段の方へ歩いていった。引きずるタオルに足を取られて随分と歩きづらそうだったが、小さな足音で階段を上っているのが分かる。
雨の日に自主的に傘もなしでお出掛けとは酔狂なことだ。それを怒られるかも知れないとそっと居間から離れたのかも知れない。
ミーシーは別にその姿に関心を払うでもなくソファまで進み、ビニール袋から一冊、雑誌を取り出した。アンミにそれを手渡して「お昼まで読んでなさい」と言った。
アンミも雑誌を受け取ることに特に疑問もなさそうにそれを広げて「うん分かった」とだけ返す。少し見えた表紙の感じからすると、どうやら料理本のようだ。福引後、お買い物券を使って買ってきたということなんだろう。
俺からするとあんまり娯楽的要素のない雑誌には思われる。単に俺の買い物がカゴ一杯だったから分けて買っただけなのか、それともアンミ用ということで自分の手持ちから出そうと思ったのか、アンミが欲しがるにせよ、ミーシーが欲しがったにせよ、それもまた言ってくれたら俺が金を出しても構わない代物ではある。どう役立たせるかはアンミの自由だが、その恩恵を受けるとすれば当然俺も含まれてはいるだろう。
「ああ、料理の本か?二人とも別に、そういうのが欲しかったのなら言ってくれたら良かったんだぞ」
「ちょっと目に入ったから買っただけよ。ちなみにあなたにもプレゼントを買ったわ」
「えっ、本当か?」
そんなことは全く予想していなかった。ミーシーの買い物内容が選択肢形式のクイズだったとしてもまあ俺へのプレゼントなどはさすがに買わないだろうと決めつけるところだ。驚いて袋に目を移すと確かに何かしらまだ残っているようだ。
ミーシーはそれをすっと抜き出し、俺の少し前の床に、コンと、立てた。続けて、それをわざとだと思うが、パタンと倒す。でこぴんで弾いて倒したように見えた。
どんな本を買ってくれたんだろうと内心楽しみにはなっていた。それこそたまたま目についただけの娯楽小説でもありがたいものだろうと思っていた。
なんだろう、ただ……、そうして倒れて表紙が見えると、そのワクワク感というのが、急速にしぼむ。
「…………」
『超人類へのめざめ』というタイトルの後ろから黄土色の後光が差している。座禅を組んだ男が空中に浮かんでいて、目かららせん状の青白いビームを放っている。
どう見る角度を変えても、表紙のセンスがダサくて仕方ない。
「何のために、こんな本を買ったんだ?逆にこんなもの探さんと見つからんだろう。俺に、くれると、言ってたよな?」
「あなたへのプレゼントにと思って探したわ」
「…………」
ミーシーの目を見て、再び床の本へ視線を戻す。
本屋で一番面白くなさそうな本を探した結果がこれなのかも分からん。タイトルからも表紙からも何一つ伝わってこない。どういうジャンルなのかすら分からないのに、何故か内容だけはつまらないだろうなと予想できる。
「じゃあ、お風呂入ってくるわ」
「え、それだけか。ちょっと待ってくれ。読む用途の本には見えないんだ。読むか分からんぞ、これは。解説はないのか?何かしら、どういう意図でこの本を選んだとか……」
「表紙がちょっと面白いでしょう」
「表紙、はな。だが、見掛けた分には面白いかも知れないが、中身を読む気にはならない本だろう。プレゼントだと言われたら読まないのも悪い気がするし、……だから読むが、これは、……内容はしっかりしてるのか?」
「実際多分、読むのは苦行でしょう。修行だと思って読まないとなかなか難しいでしょう」
「だよな……」
読むと確約し難い本だ。表紙がちょっと面白いと思ったなら、せめて自分用に買うもんじゃないんだろうか。万人が等しく面白く思うものというよりは、この万人受けしなさそうなスベり具合が面白いという微妙な加減でなんとかミーシーの意見に賛成することはできる。
そろりと表紙を捲ってみると、著者紹介の顔写真が掲載されていた。やはりというのか、表紙の謎の人物と顔立ちは似ている。表紙では目からビームを発射している。のと対照的に、著者紹介欄では学者ぶってなのかモノクロ写真が使用されていて、ここではふざけるつもりもなさそうに神妙な面持ちをしている。
俺が表紙と著者紹介欄をパタパタ捲って同一人物であることを確認していると、アンミが俺の横へ歩いてきてその様子をまじまじと見つめた。
「ミーシーから、健介へプレゼント?」
「そうよ」
「……らしいな」
「健介は嬉しい?プレゼントを貰って」
嬉しいかという質問は、言葉の上では二通り解釈できるものだろう。そしておよそ大半は『そんなの貰って嬉しいか?』というような皮肉論調で使われることが多いとは思う。
まさしく今、そういった嬉しくなさそうだと思っての言葉を受け取るべきはずなのに、アンミの様子はどうやら違った。本の表紙を見て苦笑いを浮かべるわけでもなく、ミーシーのセンスを咎めるような口調だったりもしない。
目の前にプレゼントの実物があるのに、それを見て事態を評価しているわけではなさそうだ。単にミーシーがプレゼントを用意した。俺がそのプレゼントを受け取った。そういった構図のみを切り抜いて、とても嬉しそうに声を弾ませて、ミーシーと俺の顔を、交互に見た。
「プレゼントを、してくれる気持ちというのは、とても嬉しいな」
「ふぅん、良かった」
俺はこんなふうに、気を使う人間だったろうか。別に、そんなふうに生きてきたわけじゃない。『こんなの読むわけないだろう、変なもの買ってきやがって』と普段ならはばかることなく言い出しただろう。
何故それができなかったかというと、できなくなったかというと、……アンミのこの場違いな振る舞いのせいだ。多少変なものを買ってきたわけじゃなく、明らかに変なものを買ってきたのに、アンミはどうしてかそれに触れようとしない。その異様さに呑まれて『だけどな』の言葉が続かなかった。
「変な子だと思われたくないから言っておくけど、それは一応つまらなさそうなのは分かって買ってるのよ。ちょっとお風呂入って考えるから、あなたもミーコさっさと拭ってきなさい。後でちゃんと話し合いをしましょう」
「ああ。……話し合い?」
ミーシーまでその空気に呑まれていたら俺は多分、相当困惑しただろう。良かったといえるのかも知れない。変なものだとミーシーはちゃんと分かっている。俺の判断力というのも至って普通だと分かる。表紙とタイトルだけで決めつけるのは確かにフライングだったかも知れないし、プレゼントを受け取るという構図だけで考えればあまり無下にすべきじゃない。そういう意味では喜んで受け取るのが善良な心の持ち主の正しい振る舞いではあるだろう。
がだ、そもそも、相手が喜ぶ可能性が低いものをプレゼントと呼称したりはしない。気持ちがこもっていないものを、プレゼントと呼んだりしない。そういう前提がある以上、俺の反応というのは至極妥当だったはずだ。
「ミーシーからプレゼント、健介が荷物運んでくれたから、お礼なのかも。ね?」
「えっ。いや、……そうかな。そんなのは気にしなくても良かったのに、な」
アンミがうっかり現物を確認し損ねてコメントしているなら、空気を読んで合わせてやることも容易い。だがこの表紙は、間違いなく、アンミの目にも入っている。
「健介は本、好き、……だった」
「まあ、そうだな。……本は好きだな」
アンミの発言から察するに、特にこれを変な本だと考えていないようだ。勝手なイメージの話ではあるが、見た目や話し方などを総合してアンミから文学少女のような雰囲気というのは感じない。
活字娯楽を趣味にしてない人間などからすれば、本なんてどれも一緒という扱いになったりするんだろうか。普段であれば異を唱える場面ではあるが、こうも嬉しそうに笑顔を向けられては道理を引っ込めざるを得ない。




