三話⑦
「はあ。傘持ちくらいはしてあげるわ。貸しなさい」
「…………。まあ、……そうだな。頼む」
身長的に難しいだろうと言いたいところだったが、まずもって声を出して言い合うことさえままならなかった。言われた通り傘を手渡し、ビニール袋を右手にも移し軽くなった左手で結び目を掴む。これならなんとか、少しは楽に歩けそうだ。もう濡れるかどうかなど関係ないから二人で傘を使ってくれと言いたくなる。
大きく呼吸しながらスーパーから出ると、雲の隙間から僅かに光が漏れだしていた。水たまりには細かな波紋が跳ねている程度で、雨足は随分と弱まっている。
「腕が疲れるだろう。そんなに掲げてくれなくて良いぞ。もうほとんど降ってないし、なんなら風呂も用意してる」
「あら紳士な台詞ね。苦しそうな表情整えてから人のこと気にしなさい」
ビニール袋を指に引っ掛け、少し前屈みになり、首もとの袖を掴んで前後で釣り合いを取る。ミーシーは俺の右側について左手を上げ雨から俺を守ってくれる。アンミはミーシーの後ろについて歩いていた。
傘を差すのはアンミの方が適任かと思っていたが、意外と特に不満のある傘の高さにはなっていないし、ミーシーはペースメーカーとしてはかなり優秀なようだった。置き去りにするでもなく焦らすでもなく、自然な歩幅で歩かせてくれる。当のミーシーも別段腕を上げて歩くことがつらいというような素振りは見せない。
アンミはどちらかというと俺の方を気にしているようで、「ねえ私の分もあるから私も持つ」と言った。
「なあ、アンミ。そう言わないでくれ。俺が苦しそうにしてるか?そんなことないんだ」
ミーシーが、傘持ちを引き受けてくれたからではあるが、プライドをかなぐり捨てるほど疲労しているわけじゃない。と言いつつ、振り返るのはやめておいた。少しばかり歩いただけで額から汗が滲んできている。頭を袖に擦りつけ一旦拭っておくが家に着くまで体は熱を失わないだろう。汗じゃなくて雨だなんて言い訳もしづらい。とりあえず前だけを見て歩き続けよう。
「…………」
家まで辿り着く自信はあった。が、呼吸も乱さず汗もかかずなんてことは到底無理なわけで、隣にいるミーシーには『やれやれ』と言わんばかりの表情で見つめられた。
せめてもの矜持として後ろのアンミにだけは悟られないようにしたいところだが、俺の息づかいが後ろに届いていませんようにと願うことしかできない。そしておそらく、それは叶わぬ願いだった。行きも大して話が盛り上がっていたわけじゃないが、帰りはこうも無言が続く。
会話に参加しなくて済むのは嬉しいが、反面俺の苦しげな呼吸音を誤魔化してくれるのは小さな雨音くらいのものだ。二人で並んでいないから会話しづらいと思ってなのか、アンミが口を開くことはなく、ただ後ろを歩く気配だけで存在を知らせている。俺にあっても少し乱れた呼吸の上に言葉を乗せて発するのが躊躇われて、気の利いた話題を探すことすら諦めていた。
こうして無言のまま、とはいえ一応無事に、自宅まで戻ることができた。軒下でミーシーが傘を閉じ、アンミもそれに合わせて俺の後ろから出てきて玄関のドアを開けてくれる。その横を通り過ぎて、まずビニール袋を下ろし、首を絞める袖を解き、肩を回す。これでなんとか面目は保てたろう。
裾を捲って顔を拭い、二人の方へと振り返った。
「ごめんね、健介」
「いいや。謝られるようなことは一つもない。荷物運びは男の仕事だ。どうだ、役に立っただろう」
「とても役に立ったわ」
アンミが返答に困っている間に割り込んで、代わりにミーシーが答えた。
「お前から言われると上手く活用されただけに思えてくる。ありがとうな、傘、持ってくれて」
「いいえ、こちらこそ」
「ありがとう、健介」
「どういたしまして。まあ役に立てて良かった」
さすがにこの量を、ミーシーが一人で持って帰ってくることは難しいだろう。ミーシーが出発当初どの程度まで見越していたのかは定かじゃないが、予知による買い物の最適化というのがなされているようにも思われる。
俺の運搬能力を考慮に入れて福引景品をかっさらったのかも知れない。今日この雨の中というのが、もしかすると福引を当てるのに都合が良かったのかも知れない。思い返してみるに騒ぎになってもおかしくはない結果を残している。さすがに手口まで推測するに至らないにせよ、人目が多ければ引き止められていた可能性はあるだろう。
こうまでせずとも何ならお金を支払って普通に買い物をしてくれても良かったのにとは思うが、今更そんなことを言い出しても手遅れには違いないし、多分ミーシーも合理を目指して善かれと思ってのことだったんだろう。能力的なことを考えれば、福引程度で済ませるのはむしろかわいいくらいだ。明確な被害者がいるというわけでもない。
共犯者である俺が許す許さないを論じるのも変な話だし、ひどくなりそうであれば、止める諭すというのを俺がこなせば良い。今回に関してはもうなかったことにしておこう。
さてと思って米袋を取り出すと、ミーシーから「片付けておくからお風呂入ってきなさい」と言われた。
まあ確かにそうするのが良いだろう。「じゃあ後は任せた」と返して風呂場で服を脱ぎ、シャワーで汗を流して湯船に体を沈める。
時間にしてせいぜい十分かそこらで入浴を済ませたが、その間にもう食材の片付けなんかは済まされてしまったようで、アンミは机でせっせとビニール袋を折り畳んでいた。
「手伝うことはもうないか?」
「ええっと。ミーシー手伝うことってある?」
「ないわ」
「ないって」
まあ、ないだろうなとは思っていた。昼食の準備というのもまだ始めるつもりはないらしい。
「そうか。じゃあお風呂でも入ってきたらどうだ?折角だし」
「…………。うん、じゃあ、入る?ミーシーは入る?」
「じゃあ後で入ることにするわ」
提案しておいてなんだが、こういう貧乏性なところが格好悪いのかも知れん。栓を抜く前の確認のつもりだったが、俺からの要望のように聞こえただろうか。別に雨に濡れてないのなら不要には思われる。俺も汗びちょでなければ風呂に入る気は起きなかったろう。
「ああ、そうだ。部屋使えるようになってる、んだよな。ほこりも被ってたろう。いらんものとかあったならとりあえず俺の部屋かどっかに移しとこう。ミーシー、手伝ってくれるか?」
「ええ。というか勝手にどうぞ。必要なら私も行くけど、先に言っておくとあなたが確認してそれで良いならもう片付けも何もないのよ」
「?まあ?人手が必要かと思ったんだがお前の意見も聞いとこうと思った。不満もないのなら、ごちゃごちゃ模様替えなんかはしなくても良いが」
「……じゃあ行きましょうか。アンミはお風呂ゆっくり入って休んでなさい」
「うん」
二人はそれだけやり取りして、ミーシーは階段へ、アンミはお風呂場へと移動した。俺も多分、ミーシーに呼ばれてる、ことにはなるんだろう。階段を上り切らず途中でミーシーがこちらの様子を眺めていた。
「あのなあ、……何故待ってるんだ」
「あなたがさっさと来ないからでしょう」
「じゃあ何故一緒に階段を上ろうとしないんだ」
「あんまりべたべたくっつくのが好きじゃないからでしょう」
こういうことが、この先何度もあるかも分からん。一応注意しておいた方が良いな。
「そんな中途半端なところで待つのはやめてくれ。ちょっとは気にしないか?見た見てないのトラブルになるだろう。別に服装に文句つけたりしないが、スカートも短いわけなんだから」
「スパッツ履いてるから見えても構わないわ」
「履いてな……、いだろう。パンツが丸見えだお前は」
「じゃあパンツ履いてるから見えても構わないわ」
スパッツ履いてるという嘘に付き合ってやれば良かったんだろうか。本当に何とも思っていないのか照れ隠しとも思えない言葉が返ってくる。
「女の子はな、ちょっとは羞恥心を持ってくれ」
「ケツの穴も赤ちゃんの穴も隠してるでしょうちゃんと。ノーパンだったら文句言ってくれても良いわ。そういう細かいことで気を使うとお互い単に不便でしょう」
「…………。羞恥心を持ってくれという願いなんだけどな」
「中身は恥ずかしいと言ってるでしょう」
言っても聞かんか。これは。
俺を悪者にするつもりがないなら、それはそれでありがたいことかも知れない。日常生活で階段の上り下りに制限がつくと不便だという理屈もまあ分からんでもない。
見るな着替えろの口論になるよりは、双方合意で、見えるが気にするなとしておく方がストレスは少ないな。当人が気にしないものを俺が気にしてても仕方ない。中身が恥ずかしいのなら、まあそれで結構だろう。
「性格やら生き方に口を出すもんじゃないかもな」
「まあ、適当に線引きしましょう。私もアンミが薄着でうろうろしてたら叱るわ。目の毒でしょう。あなたは別に自由にしてたら良いわ。普段そういう生活なんだなあと思うだけよ。格好つけてジャケットとか着なくて良いわ」
「いや、普段からジャケットは着てるんだ、出掛ける時は。別に格好つけてるわけじゃない」
格好つけてると思われてたんだろうか。どう思おうが自由だし、どう思われても別に気にはならないが、なんにせよ厳しい服装規律など作れば息苦しいだけだろうな。
「とりあえずパンツ履いてればセーフみたいなところはあるでしょう?」
「……法律的にか?」
「ええ」
「まあ、……ぎりぎりな」
カチャリ、ギィと、ミーシーによって部屋のドアが開かれた。続けざまパチリと部屋の電気がつけられる。片付けも何も必要ない、俺が確認するだけ、そういった発言の意味をあんまり深くまでは考えていなかった。あるいは俺が変に深読みして素直に受け取っていなかったのかも分からん。
部屋の中は、一通り眺めたところ、特に不要品を一カ所に寄せ集めていたりもしなかったし、模様替えを試みたような作業途中の場所は見つけられない。よくよく探せば電池切れの目覚まし時計が置かれていたり何年も前のカレンダーが掛けられていたりはするが、それはまあ気にならないということなんだろうか。
「電池は、……ついでに買えば良かったかもな」
「良いのよ、あなたの部屋と違ってちゃんと朝陽が入るからなくても起きられるわ。逆に今まで私もアンミもそんなの使ったことないのよ」
「…………。カレンダーは」
「それよりほら、机やらベッド気にしなさい。ほこりやら汚れやらは掃除したのよ」
「あ、ああ。そうか。まあ、……生活は、できるな」
ミーシーにいきなり右腕を掴まれて、グイと押されるまま体を回すことになった。掃除を、頑張ったということなんだろうか。すぐに手を離されたのでなんとなしに机の上に手のひらを置いて横へ滑らせてみる。そのまま机のへりから指を落として、手のひらを見つめる。
親指と人差し指を擦ってみたが、まあ見た目の通り、汚れもほこりもそりゃないんだろう。触らなくても大体分かる。床もベッドも、それこそ普段の俺の部屋の方がよほど汚れている。
「綺麗なもんでしょう」
「ああ、そうだな。意外と、落ち着く部屋なのかも分からん。このくらいの方が。物もそんなに、元からごちゃごちゃしてたわけじゃないしな。考えてみれば」
蛍光灯も切れてたりしない。築年数相応というのか、俺の部屋と同じように壁紙の切れ目が少し浮いていたりもするが、意外なことに、普通に、人が、生活していそうな空間だった。そんな感想を抱く。
「手出ししたいとこがあるなら言ってちょうだい」
「ん、ないな。別にない。お前とアンミからの要望はないのか?」
「……逆に何がいるのよ。夏なら扇風機くらいはあった方が良いでしょうけど、冬は布団あればもう他に必要なものなんてないでしょう」
そういうもんなんだろうか。何を足すと快適になるかと言われるとそう候補が出てきたりはしない。一応、エアコンもついてるし、個別に暖房器具なんかも必要ないだろう。俺の部屋が雑多な空間なだけでまあむしろ、こちらの方が暮らしやすいのかも知れない。
「手伝いいらないのなら、あれだったな。別に俺がチェックする必要もないんだが」
「そうでしょうけど、こっちとしても無神経に模様替えしようとしてないことを確認して貰った方が良いのよ。変に心配性でしょうあなたは。掃除も済ませたし、特に必要なものもないし、困ったことも起こらないわ。さあ、もう一つも確認しときましょう」
「ああ。こっちに、お前が住んでるのか?個別に声を掛けることがあるかも分からん」
「こっちはアンミが住んでるわ。私は奥に住んでるわ」
視線で誘導され部屋を出ると、ミーシーは電気をパチンと切り、部屋のドアを後ろ手で閉めた。俺の横を抜けて奥の部屋もやはりドアを開けて電気を点ける。几帳面なのか倹約家なのか、俺とは違って部屋から出る度電気を消す習慣らしい。
もう既に、俺がチェックする意味なんかもないように思うが、ミーシーからも確認を推奨された手前、一応入り口からざっと中を眺めてみる。こちらも特に何かを変更した様子はない。ほこりは積もっていなくて、ベッドが整えられている、らしいというところは分かった。
ミーシーは部屋の中で布団をまくり上げ、毛布をずるずると引っ張り出している。それを頭から被り床に引きずりながら戻ってきた。




